金沢の事例 佐々木雅幸

1985年に金沢に来たのですが、ちょうどその頃から金沢が変わり始めたのではないでしょうか。なぜそういうことが起こったのかといいますと、それまでの芸術文化というのは国家の威信をかけた文化だったと思います。あるいは国家のアイデンティティを主張するような。しかし、今は都市のアイデンティティ、つまり市民がこの都市をどのようによくしていこうか、あるいは産業をどのように創造的にしようかと考えるようになったのです。市民主ました。そのことがとても大きな変化であり、だからこそ大変多様性がでてきて、そうなると金沢も実は日本の中では個性的な町であり続けていて、そのことは巨大化もしないし、近代化にも乗り遅れているが故に、個性的でヒューマンスケールだったわけで、今までマイナスだと思っていたことが一転してプラスのイメージに変わるきっかけがでてきました。そのことにみんなが気がついたことにより、金沢の個性というものを自信を持って主張するようになったときにはじめて解き放たれたというか、成長志向から解き放たれて金沢なりのサスティナブルで内発的なエンジィニアスという発展の方向性が見えてきたのではないだろうかと思っています。 修復というのは職人の仕事です。金沢市の市民芸術村の隣に職人大学校がありますが、あれは日本中で修復できる職人がいなくなったとしても、金沢だけはがんばるぞということから開校したものです。世界的、歴史的な建物の保存が潮流になったときに修復の技術を再生産している町はそれだけで大きな経済との結びつきがでてくると思います。大事なことは、文化というのはまわりがあって経済効果がでてくるので、それは文化財の保存や歴史的建物の保存ということと、修復がひとつの巨大な産業となってくる可能性があるのではないかと思います。