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<分科会C 発言録>

[野村] 金沢には破壊者がいない。破壊しなければ創造ができない。
[金森] このまちは長い間、冒険ということを忘れている。


(中島) 皆さん、こんにちは。ただいまご紹介を受けた中島です。座長という非常に重い役目がついていますが、実態は単なるキュー出し役です。今、司会者からもありましたように、「金沢のこころ」というかたちで分科会を開催させていただきますが、開催趣旨や対談者お2人のご経歴についてはパンフレットに書いてあるとおりですので、すべて省略させていただいて、早速、本題に入りたいと思います。今、打ち合わせをしましたが、どのような展開になるのか、私も期待を持って眺めています。よろしくお願いします(拍手)。
(金森) 先に場をつくった方があとがやりやすくなりますので、勝手ですが私の方からよろしいでしょうか。今から始まるのは、従来お聞きになっていたものと全然違いまして、不吉な出発だとお思いくださいませ。収拾のつかないことが起きた場合には、フロアの方からお助けをいただきたいと思います。
 私は都市の「記憶」という今度のテーマがあったときに、記憶とは何かを考えてみました。とりあえず自分が持っている記憶を、この際一度、掃除してみようかと思います。おそらく、今日お集まりの皆様も、特に金沢にずっとお住まいでお過ごしになっている方と、ほかの都市から中途でおいでになった方、ほんの通過という意味を持ってお住まいをしていらっしゃる方、さまざまな方がお集まりだと思います。
 自分の記憶史には、やはり幼年時代がどうしても入ってきます。私が思うに、幼年時代の記憶を育てたものの中で、とても大きな役割を果たしているのは、金沢の地形、まちづくりではないかと思う点があります。皆様その点はいかがでしょうか。例えば2つの川、犀川と浅野川がある。中心に街がある。それから、井上靖先生がいつもおっしゃいましたが、金沢は海へも15分、山へも15分のちょうどいい町。そういった場所にあります。それから坂の町である。これは案外住んでいる者は何ぞげに思っていますが、坂があるというのは、夕暮れにはそこがとてもいいステージになる場所でもあります。
 そういった地形の中から、私が一番にこれだというお気に入りの地形は、路地というか裏町がとても多くて、この角を曲がったのにまたあの家が見えるという不思議なくねくねしたところです。そういう町がいまだに多くあります。もちろんそれは今日という21世紀の切口でいくと、たぶん交通の便とかいろいろなことで、あるいはお年を召した方にとってはその町がどうかという視点からいくと、大変にマイナス面があるかもしれませんが、少なくとも私の記憶の中に埋め込まれている町のかたちとしては、裏町こそ子どもの舞台であると。大人もそうかもしれませんが、特に一番大事な子ども時代の自分を育ててくれる。そういう裏町で、自分は役者になった気分であそこの舞台を飛び回っていたという気がします。
 まず地形がとてもよかった。したがって、そこから生じてくる遊びがあります。本当にどうして子どもの時間はあれほど長かったのでしょうか。大人になると疾風矢のごとく時間が飛んでいきます。子どもの1日はいつまでたっても春の日は暮れず、夏は夏でいつまでたっても強い太陽が残っていて、河原の石のところに座ると、夜になってもまだ熱かったという中で育ってきました。
 川の遊びがありました。その川も今の川のように整備されて流れているのとは違い、真ん中に浮洲があって、その浮島のようなところで私は初めてイタドリを食べたのですが、子ども心にこんなにおいしいものがあるのかと思いました。それから川の水も一度飲んでみました。「川下三尺、水清し」と大人から聞きましたが、大変においしいものでした。とにかくいろいろなことで遊びましたが、裏町の中の遊びは最高におもしろかったです。しかしこれはどうも男の子だけがよかった遊びのようです。
 犀星のものを読みますと、幼年時代の中に「ガリマ隊」というものが出てきます。これは、女の子はあまり作らなかったグループですが、学校から帰ってくると荷物を放り出して、ガリマ隊をつくって裏町へでかけた。だれが命名したのか調べてみてもわからないのですが、犀星の本の中にははっきりと書かれています。そのガリマ隊が何をしにいくかというと、「なりもの」を取りに行く。つまりそれぞれのお宅の裏町の庭になっているもの、季節を春からいくと、たぶん杏がなって梅がなる。また、順不同かもしれませんが、柿や栗、いろいろな果実がなります。ちょうど武士がいなくなった大きな変化のときに、食べていくために「なりもの」の木を5〜6本植えたと伺っています。今日このごろはそのようなことはほとんどありませんが、考えてみると、昔会社で「今日、杏がなりました」とか「今日、何々がなりました」と、よくみんなが持ち込んできたことを思い出します。
 そういった「ガリマ隊」が男の子を中心にありました。女の子はそこにあれば少しいただく程度だと思いますが、「ガリマ隊」は意識的にそこに宣戦布告をして、それを取りに歩くわけです。その記憶の中で、というか私自身にはその記憶はないのですが、少なくとも犀星が書いている中で、私が本当にすばらしいというか、いいなと思うのはとにかくそこに大人との約束事があった。それは文書でかわす約束ではなくて、塀から出ている分だけは取ってもいい。だけどおじさんも食べたいのだから、中のものは取らないでくれという暗黙の約束です。これを子どもたちはしっかりと守って、町から町へ飛び歩いた。何かその情景が浮かんでくるようです。
 これはあとにも出てくるかもしれませんが、金沢の町がもう一度何かをするときには、「なりもの」の町がつくれるのではないかというのが鮮烈な私の中の思いです。この「ガリマ隊」をはじめとして、やはり遊びの中に町の形勢が非常に役立っていた。川の思い出があり坂がありそして坂でも、その横に地蔵堂があって夕日がそこへ映ってくるなど、そういうものをだれに教えられるものではなく記憶の中へ沈めこんでいったという幼年時代があります。
 その幼年時代の思い出の中には行事というものがありました。今いろいろな問題で中止されていますが、お正月の1日の晩だったと思います。2日にかけて初売りというものがありました。あのときどうしてあんなに弾んだのだろうかと思うのです。なぜ大人も子どももうれしかったのか。それは真夜中だったからだと思います。真夜中というイレギュラーの時間があって、そこで単に物を買うわけですが、時間が来れば起きるという生活の中で、1年に1回、真夜中を飛び歩けるのは記憶の中では鮮烈でした。そして物を使い始めるとき必ずお正月から洋服や下駄をおろした。すべてお正月を基準に流れていた。それから早生まれとか、遅生まれということも新学期が近づくと話題になりました。
 例えば兼六園ひとつとっても、そこは子どもの大好きな遊び場でした。私の学校は近くにあったのでよくあそこで遊びました。お金も取らず、ただお勤めに行く人があそこを通って香林坊へ出たり、小立野に行く人が斜めに横切ったりしました。また夜遅い兼六園も子ども心に覚えています。あそこや卯辰山の上で月夜の晩にお謡いをしていらっしゃるグループがありました。今のように「もう終わりです」という時代ではなかっただけに、時間というものが非常にゆったりと流れていたわけです。
 それに続いては、やはり食です。昨日のオープニングのあとに、ジワモンのパーティがありました。久しぶりにジワモンという言葉もよみがえりました。皆様のご努力で大変にいいものがたくさん揃いました。私は大友先生に、ジワモンというのは「常飯物」と書く、常にご飯と一緒に食べるから「常飯物」とよぶのだと伺いました。特別に、新たにこれがジワモンでこれがヨソモンと考えないまでも、それらが何気なく三度の食卓にそれがあったという食の一つの記憶もあります。
 それから食の中に何といっても、すぐ近くに海がある。私は11月の終わりから12月、夜中に雷がなると、みんながとても喜ぶ都市はここしかないと思うのです、金沢くらいです。ほかに行くと夜中に雷がなることがこの時期あるかどうかは知りませんが、あれで鰤が捕れると、一同がお布団の中で何となくにっこり笑っているという風景がほかの都市であるのかと思うと、悪くないところに生まれたものだと思います。さらに近江町がある。あれは女という字を書く。その字にかなった入口があると伺っています。考えてみると、今日このごろの近江町の方が人が多い気がします。昔は振り売りとかすぐ近くにいろいろなものがありました。しかし再び人が市場を見直して、市場の中で人と触れあったりすること、それともう1つは観光客が多くなったから人が増えてきたのだと思います。近江町という市場は、形態は変わってきたと思いますが、藩政のころからあったそうですが、この間もある方をご案内していましたら「もんぺからカニまで売っている、本当におかしな市場だ」とおっしゃいました。それは言い換えれば大変に便利な市民の市場だということです。
 

さらに住まいの方にいきます。この土地は湿度があって、今日午前中の説明にもありましたが、雪の暮らしが長い。それは大変に幸せだと私は思います。それはほかの人にはわからない雪の苦しみもありますが、楽しみもあります。私が一番好きなのは、明日あたりから雪が降るのではないかと思う前の晩です。何となくこの首筋あたりが今晩はばかに寒気がするぞという晩に、はらっと雪が降ってきます。すると、金沢気象台よりも私の方が当たっているという気がします。さらに雪明かりや雪の道。「雪が降る夜は夫婦げんかをするな」と昔はいわれていました。雪が反響してお隣の声をよく伝える。代わりに吸収もしたはずですが、そういう雪です。そして雪が降ると海が荒れて、本当に食べ物がぐんとおいしくなる。これは人間の手ではなくて、自然から何ともいえない一つの贈り物をもらう。その記憶も鮮やかです。
 さらに仏教王国といわれていただけに、宗教行事とのいろいろなつながりも記憶の中にあります。月に1回、月命日というのがあって、自分のお寺のお坊さんが檀家にお参りにいらっしゃいます。考えてみると、要するにこの方がしゃばの情報を一軒のお家に運んでくる。それはうわさ話程度のものもありますが、そこで昔の女たちやそこに住んでいた者は短い時間、一月に1回違った話を聞くことができる。隣近所でも聞けますが、宗教行事の中にそういうチャンスもありました。
 それからもっと楽しかったのは報恩講というお祭りです。私の家はあまり熱心ではないし、そういうつながりもありませんでしたが。特にこちらでは「ほんこさん」といいますが、私のところへはいまだに白峰から「ほんこさん」のお料理を運んでくださる方があります。要するに「ほんこさん」行事というものが大変に記憶の中にきっちりはまっているわけです。
 また、一軒のお家の住まいの面では5〜6人の職人が出入りをする。今ではとてもそういうぜいたくは許されませんが、植木の人、左官屋さん、畳職人がいます。細かくいけば屋根瓦や襖もそうです。そういう方たちが、実は町の学問、村の学問の担い手ではなかったか。この方たちによって、畳のここは踏んではいけないといったことを教えられた。古いお家には「ちょうちん箱」があって、何かがあるとすぐ法被を着て、そのお宅の名前が入ったちょうちんを持って火事場へ駆けつけた。とてもそんなことで火が消えるわけではないのですが、そういうしきたりがあったことを覚えています。
 また、やはり耳で聞こえてきた一つの記憶の中に、何か観光がわあわあ言い出してからあのような言葉に変わりましたが、「謡曲が天から降ってくる」というものがあります。私はそれほど能にくわしくはありませんが、植木屋さんが仕事をしながら「ちょっと一節」とお謡いになっていた。それから、いろいろなお祝い事のときに、さっと職人さんがお謡いになるとか、耳で聞いたという記憶も私の中では鮮やかです。
 さらに学問ほどではないかもしれませんが、私がいつもあまり頑固に言うので「四高をお出になったのですか」と皮肉られますが、第四高等学校という旧制のナンバースクールがありました。私の小学生時代や小さいころ、四高生が町の人にとってはただの学生ではなく、「学生さん」という名前でよばれて、畏敬の念を持って見られていました。その方々が将来どういう道をお進みになるのか。そういういろいろなものを中に秘めながらいる学生さんたち。そして哲学という言葉も何が何だかわからないけれど、開学記念祭に行くと、あの汚い部屋をみて、市民には何かわからないけれども、あれが哲学というものだと思って帰ってきました。
 第八高等学校と何かの対戦をするときには、太鼓を打って寮歌を歌う。ちょうど今の季節、四高の寮歌の中に「北の都に秋たけて、吾等二十の夢数ふ。男女の棲む国に二八に帰るすべもなし」とあります。今、上手にこれを歌えるのは、お茶屋の芸者さんくらいです。市民はほとんど忘れています。そういった中で、学問がどういうものかは知らないけれども、哲学も全然わからないけれども、そういう人が町に下宿をしていた。いたずらもずいぶんなさって、朝起きたら肉屋の看板が郵便局へ行って郵便局のはまたどこかにといったこともありましたが、町の者が畏敬という、今あまりなくなった言葉をもって学生さんを見ていた。あの時代も私にとっては遠い記憶ではありますが、自分の中に何かを植えつけられたように思います。
 さらに文学といえば大げさですが、鏡花、秋声、犀星という三大文豪。鏡花は、どうしてもお芝居から先に目がいって「義血侠血」や「湯島の白梅」がばっと浮かびますが、私は浅野川を舞台にした『化鳥(けちょう)』ほどすばらしい作品はないと思っています。それから秋声の卯辰山にある文学碑。そこはいつ行ってもほとんど市民の姿も見えない寂しいところですが、そこに秋声の言葉が刻みつけられています。長い間傷がついたまま放ってありましたが、先日行ったときにはようやく直っていました。そこには書を読まざること三日、面に垢を生ずると昔の聖は言ったが、読めば読むほど、垢のたまることもある。体験が人間にとって何よりの修養だともいわれるが、むしろ書物や体験を切り払い切り払いしていったところにその人の真実がある。私はその文学碑の言葉がとても好きです。秋声は金沢ではそれほど話題にならないようですが、大変にいい作品があります。そして犀星はもちろんのことです。それが幼いときの記憶にどこまであったのかは、むしろあとになってからだと思います。
 宗教行事ではありませんが、大乗寺山、野田山というところがあります。ほんの小さな山ですが、私はあれをもう1つの城下町と勝手に名づけています。あそこほどおもしろいところはありません。上の方から殿様から順に、家臣、平民とあっって、その間にいろいろな物語を秘めたお墓がたくさんあります。このごろは市がきちっと整備されましたが、本当のところ、私は夏、お盆のころに兄弟げんかが始まるのを聞くのが大好きでした。都の方から帰ってきた妹がこちらの兄貴の守っているお墓がどこにあるかわからなくなったとかで、兄弟げんかがあの山でよく始まりました。私は少しわからないところを残した方がいいと思いますが、今日このごろは全部わかる仕掛けになっています。
 しかし、あそこへ行くと、生きることも死ぬことも一本の線の中にあって、さほどのことはないと思うほど、それぞれの墓が語りかけてくるものが多くあります。小さいときにはあまり歩きませんでしたが、私はあの山の墓地が大変好きで、驚いたのは、あの中で、初めに野田口から入ったところに遊芸師匠泉屋柳子の碑というのがあります。これはすごく大きな円形で、読むと西の郭のお茶屋街でいろいろなことを教えていらっしゃったお師匠さんだったそうです。大変に尊敬されて、亡くなられたあと、お茶屋の女将さんがお金を出し合ってそれをお作りになった。その後ろを見ると嵐勘十郎の墓というのがあって、これをまた調べてみると、昔金沢に芝居小屋があったときに京都からやってきた役者であった。そのような話があの中にはたくさんあります。
 それから悲しいですが、やはり当時は医者も少なかったせいで、小さい方の墓が大変たくさんあります。童女の墓の中には陽のあたりかげんではまるで笑っているようなものもあります。一番上から下まで、本当に城下町が全部はまっているくらいです。殿様から何まで全部おいでになります。室生犀星のお墓もありますが、あれも私の中の何かをつくっていると思います。
 とてもうれしいことに、近くにある金沢大学附属高校の生徒さんが、自分たちの研究として、あの山をいろいろお調べになったものが出ています。私はそれを図書館で見つけました。かなり薄いパンフレットですが、その中で男の学生さんが、今度のドラマは違うようですが、「男の視点ばかりではなく、お墓も女の視点から見た目が欲しい」と。いろいろお調べになったものがあります。また、ほかの学生さんがお調べになったパンフレットもあります。折がありましたら、ぜひご覧になるといいと思います。若い方があのようなものをお調べになることは、とてもいいことではないかと思っています。
 金沢がよかったといえば、何かわからないことがあるとすぐに聞きに走って聞ける人がいた町だと思います。今もいらっしゃると思いますが、どこかでそれが薄まっていると思います。前はわからないことは聞きに走ればわかる。ご町内にもいらっしゃいました。もちろん有名な研究家もそうかもしれませんが、何の肩書きもない人たちが、私たちに一つの町の学問、村の学問を教えてくださった。それは私にとっても財産です。
 昨日、オープニングのときに申し上げましたので、再び重なって恐縮ですが、私は金沢の行事の中で7月1日の氷室の祭りをいつも不思議に思っていました。本当に不思議な祭りで、7月の1日になると、どこからともなく会社中に氷室のまんじゅうが集まりまして、朝から机の上はいただいたまんじゅうだらけ。一日中氷室まんじゅうのオンパレードです。私が興味を持ったのは、あの氷室に入れてあった氷を江戸表まで運べるものだろうかということです。私がある方に伺いましたら、「あなたはそれが消えると思っているのか」とおっしゃるので、「どこかで消えると思う」「どうしたと思う」「すり替え部隊がいて、そこで新しい氷を入れたのではないかと思うのです」その方は「どの辺だと思うか」とおっしゃいましたので、飛行機がないころ、私が汽車であちらの方へ行くと、ちょうど妙義山のあたりで夜が明けます。朝日の当たっている妙義山は本当に恐ろしいノコギリのような、北陸では見かけない山です。「あのあたりに密かにすり替え部隊がいて、知らない顔をして、あそこから新しい氷が行くのではないか」と私は本当に荒唐無稽なことを申し上げました。するとその方がおっしゃるには、「そんなに不思議ならそこへ行って、おナスでもジャガイモでも何でもいいから、煮付けの味を食べてみなさい。その味付けが金沢でいうところのジワモンの味だったら、もしかしてあなたは今までの歴史を変えるかもしれない」と。
 その方も慰め半分に言ってくださったと思うのです。しかし、それを町のだれかが答えてくださる。いちいちノックをして大変な思いをしてたどり着くのではなくて、その町のそこかしこにそういう方が住んでいる。そして伝承とか、何か伝統をつないでいくという大げさなことではなくて、金沢の町にはむしろ庶民が持っているしたたかなものもあるのではないかと思います。ここまでが私のほめ言葉です。私の体験の中から生じた記憶という面でお話をさせていただきました。
(野村) あまり情報が多くて記憶喪失になりそうでした。私は現場のお話をということなので。
 「万之丞さん、このごろは狂言もなさるのですか」と言われて悲しい思いをしていますが、ちょうど今時分も、道路を隔てた隣の邦楽会館では、見たくもないでしょうが、三大流派競演の能楽会をやっています。本当はあちらに出ていなければいけませんが、あちらでリストラをされたのでこちらに来ている野村万之丞でございます。
 ここで私の家が加賀前田藩のお抱えだったとか、家で治部煮があったとか、はやびし食べたといっても何も始まらないので、何か少し財産になることをご示唆できればと思います。どうしたら百万石祭りをつぶすことができるかとか、来年の大河ドラマはどうしたらもうかるかとか、もう少し具体的な話の方がいいのではないかと思っています。
 私自身の職業も今は3段階に分かれています。まず役者とか学者とか、そういう「者」の付いた個人的な仕事。アーティスト段階といいますが、いわゆる表現者としてうそもつくし話もするというアーティスト段階、職人の段階があります。次にはものを作る人、制作者とか演出家というものがありますが、これはディレクター段階です。例えば先日は「ねんりんピック」で、60歳以上の老人が広島に一堂に集まってオリンピックをしました。広島県が20億円を使うと3日間で140億円くらいのお金が出てくる。本当に老人はお金を持っていると実感しました。老人から子どもまで楽しむすばらしい芸能はないですかというので、「そんなものはない」と。しょうがないので国際競技場に象を呼んできました。象は7分歩いて1000万円というギャラで舞台を一周しました。そうすると5万人の観客は超満員になるわけです。こういういかがわしい仕掛けをしているディレクター段階というのがあります。
 そのうえにプロデューサーがあります。これは人とか物を集めて、お金をあちらこちらに動かすのです。パラリンピックをやる、あるいは日韓国民交流年という大きなものが来年始まります。小渕さんがいろいろ設定をしたのですが、ご存じのように、外務省は田中何とかさんと同じで脳死状態に入っているので、もう何も動けない。それで偉い元首相という方とご一緒にお仕事をしながら、来年どうしたら日韓中が一緒になれるかと。あるいは具体的に、参拝問題や教科書問題を論じ合うのではなくて、現実に行動しましょうという仕事をやっているプロデューサー段階があります。つまり私たちの隠語でいうとPDAというのです。「今日はPだね」「今日はDだね」「今日はAだね」と。私は、今日はAをやらせていただいていますが、同時にDとPの話もするわけです。
 簡単にいうと、金沢はAの町です。職人の町です。だからうるさいことをごちょごちょ話していても始まらないと思います。つまり、私の父も祖父も曾祖父もこの辺の出ですから、「おじいさん、なぜ袴は左足からはくのですか」「それは、昔からやっているから」と。こういう答えです。親父に「なぜ袴は左足からはくのですか」「俺もそう習った」。これは非常に正しい伝承方法で、記憶として体の中に入っていくわけです。記録というのは言葉や文字というもので残していきますが、大事なのはこの見えないものをどうやって相手に伝えていくかです。そこには理屈の介在はないのです。理屈を言えば言うほど、記憶が薄れると私は非常に思います。ですから多弁を労して記憶を薄めるよりは、あまりそれをせずに体から体へ伝えていった方が楽だろうと、簡単だろうと思った職人の町。これが金沢だと私は思っています。
 そもそも金沢のデザインはどのようにしてという段階は、ディレクター段階です。もう1つ上のプロデューサー段階がこの町には不足しているような気がしてなりません。どうやってこの町をつくっていくのかは、もう理屈ではなくて、だれか5億円持ってきた人がつくっているとか、人が500人集まったら成功だとか、乱暴な言い方ですが、そういうプロデュースの段階をつくらなければならないということです。
 この金沢と関係がある技術者の方は、たいてい人間国宝という称号をもらっていますが、あれはまさしく技術に対する称号で、芸術家に対する称号ではないわけです。私も父も祖父ももらいましたが、私で伝統は切れるだろうと思います。それをもらって、あんたは職人としてカンナができてりっぱだと言われてびっくりする時代ではないわけです。私のようにいろいろな仕事をやっていると、「野村さんは非常にいかがわしい人だ」と言われることが、私にとっては最大のほめ言葉です。私はそれが非常に大事だと思っているわけです。
 つい先日の「聖徳太子」というドラマは、ご覧になったかと思いますが、実は私と佐藤幹夫というディレクターが3年間かけて、アジア中をフィールドワークしながら台本を創ってやった初めての立体考古学劇のようなものです。殯宮(もがりのみや)で何をやっていたのか、箸のない時代にどうやって食べたのかとか、そういうことです。推古天皇の松坂慶子を犯す穴穂部皇子の緒方何とかとか。そうすると、どうしたらいいのか。立体的に出していくことで、なるほどこういうものだったのかと。今のウサマ・ビンラディン氏の話と非常に近いと見入ったりするわけです。やはりそういう具体的に見えるものを出さなければなりません。
 その出演者の中に松坂慶子さんがいらっしゃいます。この方は泉鏡花の『天守物語』にはまっているのです。実は今年、能舞台で泉鏡花の『天守物語』を演出しました。大体、泉鏡花というと玉三郎、大正ロマンと、画一的にイタリア、スパゲッティのように考えるのが日本ですが、そうではないものが鏡花の作品の中に非常にあったと僕は思います。獅子を通して、自分の過去と未来をつないでいく鏡花の生い立ちなどということをいちいち話さなくても、何となく舞台の上に出てきたものはあったのでしょう。「松坂さん、なぜ鏡花にとりつかれたの?」と聞くと、「一言だったのですよ、万之丞さん。『いったい、鷹はだれのものだと思います?』というせりふ一言だけ。そのせりふ一言だけで、私は生涯この曲をライフワークとしてやりたいと思ったの」と。
 

松坂さんは金沢の人ではありませんが、体の中のアーキタイプ、心の奥の琴線にピーンと触れる言葉や色や材料が金沢にある気がしてなりません。輪島塗でもいいでしょう。加賀友禅でもいいでしょう、何か金沢に来ると心の奥にピーンと触れるものがあるのではないか。まず職人芸という現場のところから、金沢をデザインしていくことが一番大事ではないかと思っています。
 これもまた超具体的な話をしましょう。私は来年の「利家とまつ」の芸能考証をしています。台本の段階からいうと、すでに半年以上は撮影に携わっています。今日も私以外の人間が撮影に立ち会っているわけです。昨日お話をしたように、一役者一芸ということで反町や松島菜々子などが謡を謡って「人間五十年」などといいますが、「お経だと思って覚えろ」というところから始まって、なかなか頑張っているわけです。彼らにとっては「『人間五十年、下天のうちを比ぶれば』、ああ、もう痒くなる」。こういうことを子どもに押しつけるがおかしいのであって、まず食べさせてみれば、子どもは童謡でもイタリアオペラでも「人間五十年」の幸若舞でも同じです。20代の若い人たちの媒体を通して、若者は伝統の世界や和の文化、あるいは加賀の文化を知っていくことになると思います。
 これだけでもだめなので、大人、特に金のことが頭の中の3分の2くらいを埋め尽くしているおじさんたちは、それで食べられるのか、儲かるのかというところから来ます。経済から入ってくる。この講座は心から入っていきますが、心と経済は一番別な入口です。要するに心から一方通行になってくればいいものを、今までは経済から一方通行になっていて、心の方に進入禁止の札があっただけのことです。くるっとひっくり返せば簡単なことですが、経済的な話からしないと、今までの習慣上、なかなか満足できない。そうすると、大河ドラマを誘致すると1年間に600億というお金が1つの県に落ちてくる。これは「毛利元就」という、初めて小大名を扱った番組で実証されたのです。広島県に600億円が落ちてきて、岡山県や島根県や山口県が「ずるい、ずるい」というと3県に100億円ずつ落ちてくるわけです。これで大体900億円。山陰、山陽地方中心に900億円のお金が落ちたわけです。
 そこで、皆がこれはいけるのではないかと思って、誘致委員会が一生懸命ドラマを誘致したわけです。しかし、ワールドカップと同じ年に「利家とまつ」が放映されるわけですが、皆さんはいったい600億をすくうだけの茶碗やコップを用意しているのでしょうか。
 何も準備されてないプロデュースされてない町に、いくら国内旅行が盛んとはいえ、老夫婦が何人来るのでしょうか。いくらのお金を使うのでしょうか。ただ、うどんの中に金箔を入れていたら絶対食べるでしょうか。「梅鉢だ」「百万石だ」というと来るでしょうか。もうここには百万石はないのです。一万石ぐらいしか残っていないのです。それでこのまま百万石を来年使って、たぶんマイナス五万石ぐらいからスタートするのだと思います。ですから、もう百万石という言葉はそろそろやめたらいいのではないかと言いました。
 実際に私はもう動き始めています。百万石というブランドを捨てましょうと。来年からは「加賀の国」というブランドを立ち上げることにしています。加賀の国です。これはどうなるかわかりませんが、加賀の国本舗、加賀の国というブランドを立ち上げます。これはあとで皆さんに意見を聞いて、「よくない」とか「いい」とか大いに言っていただけたらいいのではと思います。40代の人たちが中心になって、50〜100年後の孫子の世代までつなげていくブランディングをしたらどうかと、そのような話を昨日もしていました。その加賀の国は和風ではなくて、加賀風だと。加賀風という風流、風情、風体、異形のもの、色などが出てきたらいいのではないか。でも、安いのはだめですよ。何でも加賀風といって、安い三百何十円とか九百何十円のものを売ってはだめです。9000〜1万円のものを売りなさいと言いました。ユニクロと一緒になっていたらだめなのです。ユニクロは生活産業であって、今伸びているのは嗜好品産業です。金沢は生活産業を伸ばすよりも、趣味の産業を伸ばしていった方が絶対に当たっていく。よく一般の方は「ミーハー」といいます。私はこのアッパークラスのことを「ソーラー族」といっています。なぜかというと、ドレミファの上にソラと続くので「ソーラー族」といっているのです。ソーラー族をちゃんと抱きかかえながら、金沢の技術を見せる。例えば九谷焼にしても塗り物にしても、アッパークラスのものです。子どもたちにおまけをしてはだめです。子どもたちがおいしい和菓子を食べるときには、やはり1000〜2000円の和菓子を食べさせるのです。それに媚びてやっていたらだめなのです。
 この金沢の一番だめなところは、完全に田舎っぺ状態になっているところです。なぜ田舎っぺ状態になっているかわかるかというと、テレビの視聴率が異常に高いのです。これは雪国の傾向でもあるのですが。私のかかわった「加賀百万石」というテレビは全国で14%くらいの視聴率しかなかったのですが、ここだけで47〜48%もありました。異常な世界です。たぶん今度の「利家とまつ」も全国で20〜30%を取っているときに、ここは小泉さんの人気と同じで80%くらい取るのではないかと思います。そうするとその見えているものだけを使うから、安いもの、薄いもの、軽いもの、広がっているものとなる。しかし、加賀の技術は狭いもの、高価なもの、非常にクオリティが高いものです。
 例えばここの企業だったらコーポレーション・アイデンティティと同じように、ものすごくクオリティを高くしてあげればいいわけです。金沢の能楽堂は400人分しか席がありません。1万円の切符で400人入ってくれれば、400万円という収入が1日に入ってきます。それを1000円でやれば、たったの40万しかお金が入らないわけです。一度1000円で売った技芸は1万円で売ることは一生できないと思います。そこで、今が金沢の大きなターニングポイントで、老舗をどのようにして維持していくかが、やはり金沢の大きなテーマではないかと私は思っているわけです。私も万蔵家という老舗の息子ですが、ウナギのタレとヌカ床を守ってしまえば没落するのです。かといって広げて、どんどんテレビに出て薄利多売するとこれもつぶれる。
 老舗をどのように運営していけばいいか。例えば京都という町は100年前にりっぱな老舗の息子たちがいて、うまく京都の資産を展開しながらいろいろなものを作っていったのではないか。たった100年前につくったお祭り、100年前にできた漬け物屋がいかにも応仁の乱からやっているようなうそをついて、それをみんなが一生懸命食べているわけです。京都の方がいらっしゃったらごめんなさい。しかし、大体は本当のことです。それと同じように、金沢も老舗がクオリティを上げながらうまく活用してやっていかれればいい町になる。しかも職人の文化からつくっている。それを大きな意味でプロデューサーがしっかりまとめていけばいいのではないかというのが私の大きな提案です。

この先、討論をさせていただくのですが、私たちは「金沢のこころ」といいますが、心の反対は形です。心と形を合わせた言葉に「文化」という言葉があります。文化というと、文化住宅や文化包丁を思い浮かべる方がいると思います。その当時、「文化」という名前が付くと非常に切れ味のいい包丁だったり、炭のつかない鍋だったりするわけです。しかし今、文化住宅に住みたくはないですね。文化に替わった言葉を「デザイン」といいます。デザイン包丁とかデザイン住宅となると、急にハイカラな感じがして物を買ったりします。私は文化のことを、「文化とは形を変えて心を伝えるもの」と常に言い続けています。ですから文化には、守るという言葉が一番いけないわけです。日本国は文化財保護法をやっていますが、あれが一番いけないわけです。かくいう私も文化財ですが。
 守られていては絶対にだめになってしまうというので、形を変えていかなければいけない。そうすると形と心というのは非常に密接な関係にあると思います。つい最近、私は伎楽という正倉院に残っている仮面劇を復元して、真伎楽というものを再生して創りました。これはただの復元ではなくて、未来に残せるものとしました。「真」という言葉をなぜ付けたかというと、皆さんはもちろんご存じだと思いますが、我々は最初に音でコミュニケーションをしたのです。
 つい最近になって字を覚えたのです。日本人は字を持っていなかったので中国から字をもらったわけです。漢族から漢字をもらった。そのもらった字のことを真実の名前だから「真名(まな)」というのです。この真名をもらって、日本人が自分たちに仮の名をつくろうというので、「片仮名」とか「平仮名」という「仮名」ができたわけです。「真」というのは、たぶん字をあてたわけです。
 私は見えないものと見えるものは「しん」という字で表されていると思っています。見えない心も「しん」といいます。見えない神、これも「しん」といいます。見えない心と見えない神をつなぐ身も「しん」というわけです。過去を表す親も「しん」です。新しさを表す新しいという字も「しん」と読みます。そして、そこにお互いが信じられる「しん」もあります。そしてそれが本当という真(まこと)という字も「しん」なわけです。ですから「しん」には見えない本物というものが僕はあると思います。
 一方、仮面は見えない心と見えない心をつなぐ、人類が最初につくった見える形だと私は思っています。私たちはいつも、今までハードウェアの形から迫ってきましたが、実は今ソフトウェアというもので、横文字を使って一生懸命説明をしていますが、見えない心をどのようにつなげていくかが非常に大事になってきます。日本語でこうして話していることもコミュニケーションの手段ですが、アメリカへ行ったら英語で話さないとつながらないわけです。ですから、言葉という媒体は非常に弱い媒体です。字はもっと弱いと思います。私がここで起き上がってパントマイムをしたり、身体表現をすれば、それの方がつながるかもしれません。ブブカが空を跳んだり、カール・ルイスが走ったりする方が私たちは神を感じるわけです。芸能やスポーツは身体を見るわけです。音楽で若者たちがコミュニケーションをしているのは、まさしく「音」という、人類が最初にコミュニケーションをしたものだと思います。
 では「金沢のこころ」を表す形とはいったい何なのか。金沢の音は何。金沢の匂いは何ですか。金沢の形はどんなものですか。金沢の色はどんなものでしょうか。ということを私は考えた方が手っ取り早いのではないかと思っています。
 百万石祭りをやめた方がいいとかよくないとか、私は当事者ではないですが、皆様もお感じのように、例えば御堂筋パレードをやってももうだれも見ません。百万石祭りをやっても前の日に二日酔いだった俳優が馬から落ちそうになりながらぽこぽこやっているだけですから。それを見たときに、あれが金沢だと思う人もいないし、あれを見て利家だと思う人もいないではないですか。ですから、お祭りを見るとこれが金沢だという色とか形をした方がいい。そして加賀の国というレッテルを作る。
 金沢レッドと同じように、例えば赤母衣隊の赤を入れたりする。今、唐沢君が着ているのは、うちの極楽とんぼのとんぼの図匠を衣装の中に入れて、それを傾き者(かぶきもの)として入れるという仕掛けです。松島菜々子さんが演ずるまつの髪飾りは私が作っているのですが、「よろず結び」「まつ結び」というのを10種考えて、必ず後ろに入れています。それを見ると「これが金沢だ」「あれだ」と視覚的に全員が共有のものを持てる。それが僕は大事だと思うわけです。
 それで先程から金森さんに、「あなたはウサマ・ビンラディン氏になってください。」と、プレッシャーをかけているわけです。私なりにはこれが金沢に対する僕の記憶であって、この町の文人墨客から政治家あるいは武士などいろいろな人を見ると、ヒンドゥー教の3つの神様と同じように、創造と維持と破壊を非常に繰り返しているのではないかと思います。最近、金沢には破壊者がいない。シバ神がいません。私の記憶の中にも金沢の血がありますから、このDNAの中の破壊を大いに利用してもらいたい。破壊しなければ創造ができない。アフガニスタンも破壊されたので、新しい政府を創造していくわけです。それを今度はキープ、維持していかなければならない。それをすると形骸化するから、また破壊する。壊してつくって維持して、壊してつくって維持する。このぐるぐる回るいい回転を金沢にもう一度植えつけるためには、ぜひ破壊からした方がいいというのが、私の今日の提案です。いかがでしょうか。
(金森) お聞きの皆様、これで出題とその傾向がおわかりになったと思います。あえて全く異なる意見というか、表現で進めさせていただきます。こちらは意見です。
 今のお話を伺って、私が「百万石祭りをやめてしまえ」「パレードをやめてしまえ」と言うと、今日の夕方くらいには「あいつが言った」と広まるのが金沢です。それは今おっしゃったことと同意ですが、あるものを続けていれば楽でいいけれども、みんなの心の中はどうなのですかと。
 私は、この金沢は46〜50万人くらいの町で住むにはほどよい町だとは思います。ところが、これを反対の言葉でいうとそういう町は想像できるわけです。何町がというとぱっと出てくるし、あの川というとあの川だけで何となく出てくる。逆の言葉でいうとどうでしょう