武光 誠
水野一郎
 
●水野:都市の構造といった場合にはいろいろあります。その一つは、ハードな意味で都市史のような構造です。気候や地形、それから江戸時代の城下町の構築、明治維新、あるいは戦後の都市づくり、そういったことを含めて、金沢の都市の構造についてハードの面 から私はお話ししたいと思っております。 武光さんの方からは、ソフトといいますか、そのときこの地域の人たちは何を考え、どのような性格を示し、どういう行動をしたのだろうかという、そういったソフトウエアの方から見ていただこうと思っております。
日本海側と太平洋側の気象の違いが人間の精神構造、生活構造にどんな影響を及ぼしているのでしょうか。武光さんから見るとどうですか。
●武光:大きい目から見ますと、雪国の方が早く文化が発達するということは間違いないことらしいのです。古代で縄文時代がまず発達するのが北陸から東北地方、そして古代文化が最初に栄えたのが出雲なのです。古代文化のふるさとは大和といわれますが、しかしそれは出雲の文化がじわじわと大和に及んで、大和で発展したということになるわけです。
●水野:雪がプラスになった時期が縄文時代にあったというのは何となく不思議な感じがしますね。  

■独自の「加賀っぽ」気質
●武光:それで、日本の中で北陸地方というのは非常に特徴的な文化圏を生み出していくわけです。金沢に「加賀っぽ」とよばれる独自の気質があります。「加賀っぽ」についてこういう説明がされます。金沢の人は粘り強くて働き者だと。穏やかでのんびりした性格で、けんかや競争は好きではないけれど、非常にじっくりと勉強して文化的なものに関心を持つと。
いろいろと考えていきますと、どうも前田家が支配する加賀藩の中で次第にこういう特徴がつくられてきたのではないか。もとからの北陸地方の気質のうえに、加賀藩の支配のあり方、百万石の親方に守られて安心してのんびり生きられるというような環境の中で生まれたのではないかと思われるわけです。
●水野:金沢の場合は、ああいこうか、こういうこうかと自分たちで決めながらいった。そういう意味では、内発型の都市という歩みをしてきたわけです。それだけ自分の記憶、自分の力で生きていこうとした都市です。
これから金沢をどうもっていこうかというときに、今、県庁移転と駅西が問題になっております。金沢というのは今までは、旧市街地で一点集中型、すべての機能がその都心にある。それから、都市では珍しいのですが、一回も都心を移動させていなくて、その都心にすべての機能が集中している一点集中型核都市という現状でした。それを徐々に軸上の都市へ転換しようとしております。
それをどう考えるかですが、旧市街地の部分をもう少し再編・修復しなければいけないだろうと思っております。金沢の今の旧市街地の都心はどこかと言われたときに、香林坊・南町・武蔵だと考えますと、あそこは支店通 りです。金融通りです。経済通りです。すなわち、近代化の中で一番大事だと思っていた経済だけが単純機能で都心を占めております。
都市が文化・遊び・驚き・興奮を生み出す拠点である都心でなくなってきたということの証明です。そういった都心経済の部分は軸上の駅西ゾーンなり何なりへ移して、旧市街地をもっと金沢の文脈、金沢の記憶を継続できるところにしないといけないだろうと思っています。

■東京にない文化の発信を
●武光:今の金沢のいろいろな工芸品というのが、加賀藩で江戸時代に作られたそのままではなくて、いったん明治維新で金沢の街が衰退しかけたときに金沢の街の人から復興運動が起こって、工芸品を庶民相手に量 産化して、新たに商売としてやっていこうと。そういう動きで上級武士相手の金沢の工芸品が新しい形で復興したということです。
それから、明治以降、金沢に文人をはじめとする知識人が出ています。中でも三宅雪嶺は、東京で「文明開化」といわれて、欧米のまねをするのがいいという風潮が盛んだったときに、それを修正する形で、明治の半ばに日本主義を唱えて日本のよさを見直そうと主張した。その三宅雪嶺が金沢出身ということです。
今、金沢の人々は非常に勉強好きで、文化・学問を重んじる気質を持っておられる。そういうことで、今後、金沢で独自の工芸の伝統、あるいは学問の伝統を受け継ぎながら、東京にない独自の文化の発信地として成長していっていただきたいなと。そういうことをメッセージとして残しておきたいと思います。

■百年後の評価に努めよ
●水野:江戸時代は武家文化だったかもしれませんが、明治維新以降、思想・文学・工芸をはじめ、さまざまな成果 を金沢市民は創り出してきております。それは、町民としてかなり受け継いできている部分があったと自負していいのではないかと思っております。同時に、私どものような建築や都市の方からこの都市を見ると、一向宗の痕跡もある、江戸はいっぱいある、明治もある、大正もある、昭和もある、そして平成もある。いろいろな時代の層がある。いろいろな価値観が一緒に味わえる、いろいろな美意識を体験できる非常に大事なところです。
これは、都市の記憶として、我々が次の世代に何かつくろうとするときのものすごいヒント、あるいは昔の人に負けてはいけないぞという励まし、いろいろなものを受けることができます。それがたぶん創造力という形につながっていくのだろうと思っております。
そういう意味で、我々は金沢という都市のストックをできるだけ永らえてあげることと、我々の時代が百年後に「昔の百年前の人はすごかったね」といわれるような新しい層を付け加えていくこと、この両面 が非常に大事な作業だろうと思っております。

 
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