■チェアパーソン
 大内 浩(芝浦工業大学教授)

■パネリスト
 水野一郎 (金沢工業大学教授)
 佐々木雅幸 (立命館大学教授)
 金森千榮子(メディアプロデユーサー)
 松岡正剛(編集工学研究所長)
 小林忠雄(東京家政学院大学教授)
 松原繁光(金沢青年会議所理事長)
●分科会A座長
 福光松太郎
(金沢経済同友会副代表幹事)
●分科会B座長
 米沢 寛
(同都市活性化委員長)
●分科会C座長
 中島秀雄
(同会計担当理事)
●分科会D座長
 林 隆信
(同会務広報委員長)
  
 金沢創造都市会議2001宣言(全文)

 金沢創造都市会議二2001は、金沢の「記憶」をたどり、金沢らしさの源を探るために論議を重ねた。いくつかの発見があり、金沢らしさを磨く活動によって、世界に一つしかない個性豊かな都市を創造できるとの共通 認識に達した。会議の成果を、以下の宣言にまとめる。
1. 金沢らしさを育て磨くために、歴史と文化を学ぶ「ふるさと教育」の重要性を再認識した。なかでも「記憶」から引き出された金沢らしさを、幅広く、分かりやすく語り伝えていくことの必要性を確認した。
1.  こうした観点に立って、社団法人金沢経済同友会は、各界からの参加を求めて「金沢学会」を創設する。「金沢学会」は、金沢の「記憶」を掘り下げ、先人の知恵と経験に学び、個性豊かな金沢を創造するための方策を探り提言していく。

 2001年11月17日  金沢創造都市会議開催委員会


 [水 野] 深刻さ募る都心空洞化
 [福 光] 「座敷」がキーワードに
 [米 沢] 行政の旦那役には限界
 [金 森] ほどよさを変える時期
 [中 島] 豊かが中途半端を招く
 [小 林] 「中間」から出る姿勢も
 [松 岡] 目利きする「悪役」必要
 [ 林 ] 中心街に良い学校置け
 [松 原] 大切な語り部役の存在
 [佐々木] 暗黙の記憶敬称が課題
 [大 内] 文化蓄積は金沢の責任

●大内:分科会Aの水野さんから発言をお願いします。
●水野:金沢は幸いなことに都市として歩み始めて以来の記憶を都市に残しているということが、かなり印象的でした。いろいろな時代に何回か日本の都市がグローバリズムに乗って都市を近代化的に変えていくわけですが、それを変えないでこられたということ。それは、この市形にもかなり関係しているように思いました。  今という時点で考えてみますと、金沢の都心が全く空洞化してしまっていて、金沢の都市の人口の中の一二%しか住んでおりません。もう一つは、県庁の駅西移転に伴って、今まで一点集中型の都市だったのが軸状都市へ少しずつ変容を始めています。そのときに、金沢をどのように二十一世紀へもっていくかということなのですが、金沢が持っている記憶を呼び起こして、そして新たな記憶を重ねていくとしたら、その辺の都心のあり方をもう一回、修復再生していく必要があるのではないか思います。
● 大内:確かにハードは残っているかもしれないが、実はその上で行われている営みは、恐ろしいほど空洞化しているかもしれないということもありますね。

<都心の子どもは6%>
● 水野:そうですね。今の都心にいる人たちの子どもの数はもっと少なく、一二%どころか六%ぐらいしかいないのです。これでは次の世代を背負うことはできないだろうと思われます。そういう意味でいうと、金沢の都心を修復再生するという意味は、居住を増やし、文化を増やし、あそびを増やし、さまざまな金沢らしいと言っているようなエレメントをどんどんぶち込んでいかないとだめではないかと思います。
● 大内:何か一つの非常に大きな別の仕掛けを作らざるをえないということだと思うのですが、福光さんいかがですか。
● 福光:金沢は要するに「座敷」なのですね。今後もそれをキーワードにするとすれば、本当にできるかどうか、そこはすごい問題で、大変なことになってきたなということを思いました。  もう一つ、金沢経済同友会でこの創造都市会議のテーマを「『記憶』に学ぶ」としたのも、とにかく全然伝承されないリスクを感じているからです。それらを何とかみんなでもう一回取り戻さなければいけないというので、そういう運動を総称して「ふるさと教育を推進する」というように言っているわけです。
● 大内:分科会Bの佐々木さん、お願いします。

<創造の場の「座敷」が必要>
●佐々木:二十一世紀というもののとらえ方という点で、この九月十一日の事件の持っている意味は、アメリカ的なシステム、つまり、大量 生産大量消費という形で二十一世紀をリードしてきた量の経済の終焉と言えます。そして、かなり過渡期の困難が続くだろうということです。そのときに、都市や民族や地域がお互いの文化の多様性を認め合いながら暮らしを成り立たせていくことになっていくだろうと思います。  そのときに、量の経済から質の経済の転換をどのように金沢で実現するのかという問題がある。都市構造はずっとあまり変わりませんが、その内部はどんどん変わっていくわけです。しかし、その底にあるのは、職人的なものづくりという精神をずっと引き継いでいる。こういうところがなかなか面 白いところだと思います。つまり、あそびながら、生活を楽しみながら産業に結びつく、あるいは職人的技というものから何を作り出そうかというアイデアに結びつく。そうした創造の場になるような「座敷」が必要ではないか。ぜひ考えてみてもらいたいということですね。
● 大内:米沢さんはどういう感想を持たれましたか。
● 米沢:昔、旦那というのが経済を回していた側面がありましたが、今はないなと思っています。最初に対談した芸術村でも、スポンサーは金沢市だけれど、使い方は民間に任して好きなことをやっている。まさしく旦那芸みたいなことを金沢市がやっている。行政がそういうことをやっていてもやはり限界があるので、もう一度私どもが時代を超えた旦那芸みたいなものを、何がいいかということを企業人として考えなければいけないと思いました。
● 大内:分科会Cの金森さんの方から、どんな発見なりご感想をお持ちですか。
● 金森:私は金沢の人口とか広さというのは、まさしくほどよいという感じがします。大きさも、海も山も適当に里山も全部含めて非常にほどよい。ということが、逆に心の面 もほどよくて、この辺でこれでいいというような。いっそ経済的にすごくどん底に近いところにいれば、「えいっ」という気持ちも起きるのでしょうが、とにかく今日一日食べて明日も越され越されるかという切迫したものではなくて、何かごじょごじょと体をはめれば、その中にはめてしまえるような都市かなという気がしています。しかし、それを変えなければならない時期は今ですし、変わると信じています。  ●大内:ほどよさということですね。中島さんもご存じでしょうが、「いんぎらぁと」という言葉が金沢にありますが、確かに金沢というのは非常に居心地がよろしいですね。
● 中島:金沢弁ですが、のんびりと、心ゆったりと、そんな感じの言葉で使っているのではないかと思います。
● 大内:そうですね。でも、それでいいのかというのが一つの話ですね。

<作り直しの視点で>
● 中島:ある意味では豊かさがあったから、ほどよく、そして、中途半端でもここまで来られたのかなとも思います。それをまだこれからも続けているとユデガエルになるよという意味で、破壊というと、非常にエキセントリックにも聞こえますが、これを作り直しとか組み替えというように読み替えていけば、新しいものの見方ができるのではないかと考えております。
● 大内:分科会Dの小林さん、どうぞ。
● 小林:分科会で松岡さんが言われた、中間(ミドルウェイ)をどのように位 置づけたらいいのか。つまり、江戸と京都の中間という意味ではない、あるいは粋というものと粋というものとの中間。そのようにとらえていいのかというのは私はまだわかりませんが、いずれにしろ、その辺のところでもう少し前に出ていく姿勢というのがどこか必要だろうと思いましたね。つまり、今までも使い古してきたし、今、生活の中に埋没していたものが徐々にメディアとかいろいろな形で表に出てくる。それなりに魅力というものを出してきた。しかし、それもしばらくすると限界で使い古してしまう。しかも時代に合わないということになる。そこのところを非常に感じました。
● 大内:松岡さんはどうですか。
● 松岡:金沢的に言うと「結び」というのは、全体とパーツとの間にある世界です。別 にどんな結びをしても結べばいいと。ところが、そこがぱっと膨れ上がって、水引のようなすごいデザインになったり、その素材、色がすごかったり、五色になったり、また、祝い事に応じてそれを分けていったりする。こういうものを「超部分」と僕は呼びたいと思っているのです。こういうものは直接全体部分にかかわらなくてもいいぐらいの程度ですが、それに惹かれて、テクチャーを感じ、癖を感じ、極端にいえばカルチャーを感じる場合があると思います。これは中間(ミドル)なのですが、その接合点というものに非常に大きな目を向けられるといいのではないかというのは、金沢にどうも中途半端かなということがあるのであれば、逆にそこを生かしていけばいいのではないかと思います。
●福光:松岡さんが言われた、中間のことをもっと大事に利用したらいいというところは、私は大変共感を持っています。中間であることというのは前田家のコンセプトだったのではないかと。微妙な中間というのを生きてきた藩なのです。ですから、そこに一つの美学があって、そういう意味ではグレーのようで、中に入っていくと結構面 白いあそびや贅沢もあったみたいな、そんな文化を作ってきた。この中間のグレーゾーンの気持ちよさというのは一度経験したら抜けられないようなものです。できれば、ずっとこのような街であり続けるにはどうしたらいいかを考えた方が早いのではないかと感じています。

<適当な伝統復活はだめ>
● 松岡:だから、破壊が必要というのもわかりますが、むしろ僕も中間に結びを作った方がいいと思います。  金沢が継承する話とつながるかどうかわかりませんが、仮に前代の大旦那が言っているようなよさというものがあり、かつ、中間でもいいのではないかとすれば、もっと前から、すべての方法の言語を問うて、それから、これからのマルチメディアやNPO型のものの、つまり、二十一世紀型の課題も全部問うて、方法的に中間に埋めていくようなあり方をとられた方がいいと思います。つまり、言い直すと、適当な伝統の復活というのをやめないとだめということでしょうか。
● 大内:そうですね。金沢経済同友会が推進している「ふるさと教育」も、たぶんマルチチャンネルにしないといけない。
● 松岡:そのときに、今ある金沢のよさ、加賀友禅、九谷、大樋焼などいろいろありますが、そういうものの中で、これはいいけれどもこれはだめとやる。目利きを、だれかが悪役で引き受けないとだめですね。これはだめだとは言いにくいですが、大樋の中でいいのはこれだよと。それをやらないとだめだと思います。金沢人のためになるにはもう少し際どい、怪しいタブーをお作りになった方がいいと思います。
● 大内:非常に面白いところに入ってきたのですが、林さん、松原さんいかがですか。
●林:中心街の活性化について、今の教育に関連していえば、中心街にいい学校を置けばいいのです。それは大学とかではなくて幼稚園でもいいのです。金沢の泉野、野田中近辺に人が集中しています。それはあそこが教育ゾーンだからです。よい教育環境、進学率とかではなくて、子どもに先程のタブーではないですが、いいこと悪いことをきちっと教えられて、そこに行けばそんなにまちがいのない学校があれば、中心街は絶対人が集まります。
● 松原:名前を忘れましたが、ある本に、昔、電気も水道もない村に、夜になると広場で焚き火をして、そこに村の人たちがみんな集まってきて、この村はどうしたらよくなるかとか話し合った。そこには必ず中心になる語り部がいて、いろいろな話がされたと思うのです。しかし、その村に電気や水道が通 うようになって、みんながだんだん広場に集まらなくなり、それぞれの家にこもるようになった。そうすることによって、その村は長い年月を経ずに衰退してなくなってしまったという話があるのですが、決してはそうはなりたくないなと。
● 大内:先程、都心居住という話もありましたが、水野さん、建築家の立場から、どうしたらいいと思われますか。

<日本のために残すもの>
● 水野:金沢には日本のためにも残してほしいというものがあるのです。そうして、いろいろな価値観、いろいろな美意識、いろいろなライフスタイルが残っている都市が面 白いよということがわかるようになると、都心に住もうとなるのではないかと思っているのです。無理して都心に住まわせる必要はないのですが、都心に住むことが「すごいことだな」と思うようにならないと、なかなかみんな都心に住まないと思っています。
● 佐々木:記憶の中に形式化された記憶と、暗示的な記憶というのがあって、例えば創造といった場合に、新しい知が生まれるという場合、もやもやとした状態でアイデアがひらめくような状態を暗黙知といいますね。それで、それが具体的にだれでも伝わるような状態になると形式知というのですが、形式知だけを教えてもだめだと思うのです。どうしたらもやもやとしたような感情を抱くとか、あるいは、今言われていることに対して別 の新しいアイデアがひらめくか。その暗黙の知をどうやって生み出せるか。  例えば「記憶」に学ぶといった場合に、金沢の持ってきた暗黙の記憶とか。つまり、記憶の本質ですね。目に見えるようなものではなくて、暗黙のものをどうやって継承するのかということを考えてみたい。これは一つの例です。今、西陣の町家が八千軒ほど空き家になっているのです。そこに若いアーチストや職人たちが住み着いて、機織りの場所だった町家をアートのクリエーターの工房に変えているわけです。和の空間というのは非常にフレキシブルだから変えやすいわけです。その変えるときに、かつては友禅や西陣織を織っていたわけです。そういう記憶があるのですが、その記憶が形式的に新しい素材の織物を織ればいいというものではなくて、そこはアートでも新しい価値に転換していくというか、作っていたという記憶が宿っている町家だから何か新しいものが出てくるということがあると思うのです。そういう目に見える記憶の背後にある暗黙の記憶みたいなものをどうやって引き出してきて、お互いにそうしたシステムを共有できるかです。  理想の中規模都市を目指すというのが金沢の生き方だとするなら、それで腹をくくって、その柔らかな空間に人が集まってきて共に育ちうる、共に創造的になりうるというような競争システムというのを考えたいなと思っています。
● 大内:そろそろ、まとめの段階ににきているようですが。

<「金沢学会」で実験も>
● 福光:あとで宣言としてご採択いただこうと思っているアイデアは、表現は硬いのですが、「金沢学会」というものを作って、そこでさまざまな実験もできたらいいのではないかと思っています。やはり基本的に中間的な町でいいではないかというところが実はすごく大事なことだと思います。いいじゃないかと言うといい加減な感じですが、それを目指すとなると大変なことだと思うのです。本当にちょうどいい中間ぐらいを目指そうと思っています。そのような動きを大きく作れるような座敷を「金沢学会」という名前で作らせていただきたいということを考えております。
● 大内:金沢市助役の原田さんがお見えになっていますが、いかがですか。

<知恵を借りて街づくり>
●原田:金沢経済同友会の提言を受けていろいろなことをやっているつもりなのですが、今の「金沢学会」と我々の目指すものが仮に一緒であるとすれば、そういうものを、この世紀が変わったときにしっかり一度押さえて、これからの施策をやっていくのは面 白いなと思いました。今回、金沢にあまりご縁のないパネリストの方も何人かいらっしゃいますが、そういう意味では、逆にあまり知らない方の意見というのも大事ですので、我々はこんな機会も含めていろいろな先生方からお知恵を拝借して、いい街づくりを進めていきたいというのが、とりあえずの感想です。
● 大内:ありがとうございました。私自身、皆さんのお話を伺っていて三つ感想があります。一つは、伝統、歴史、記憶といっても、今回の三日間にわたる議論で、市民の方たちももう記憶になくなってしまったようなことが、この会合の中で再認識されたというか、もう一度勉強しないとまずいなというようなことがたくさんありました。金沢の在住の方たちにとっても新たな発見があったかと思います。この辺は、会議をやって本当によかったなという感想を持っています。  ただし問題は、そういう記憶、文化、伝統というものをこれからどのように伝えたり、伝承していくかというかです。そういうことに関しては、かなり工夫がいるということが第一点かと思います。簡単に、これはこういう故事来歴があって、こういういわく因縁であるとか、あるいはこれは何か文章を作れば次の世代に伝わると思い込むのはかなり間違いである。いろいろな手段を使って、もちろん今は情報社会の時代ですから、そういう新しい方法もいるかもしれません。しかし、非常に古い昔ながらの伝統のしかた、場合によっては作法のような形で、親が子どもにきちっと教えるということも含めて、さまざまな形の伝え方ということを我々はいろいろな場面 でやらなければいけないということを、あらためて感じました。

<日本や和とは何か>
二番目は、金沢がある種日本を代表する文化の都市であることは事実だとしても、では、日本とはいったい何なのか。あるいは、和というのはいったい何なのかということは、そう簡単に言えるような、あるいは、整理できるような種類のものではありません。そして、その中で、さまざまな和の追求、あるいは日本文化の追求があるわけです。そこの中で、中には本当に忘れ去られたものもあれば、あるいは一方でくだらないものもあったかと思います。そういうものが結果 として我々の歴史や文化ということになっているのですが、そういうものをもう一度掘り起こして、ある種の蓄積をする責任がこの金沢の町にあるということも確認されたように思います。  私は海外によく行きまして、海外から金沢を見るチャンスがあります。実は海外の方たちが考えるような日本文化というのは、かなりの文化が江戸以降、あるいはもう少し前の近世以降の文化で、そういう意味では、日本の和、あるいは日本文化というものを勉強したいということを、よく海外の若い人たちに相談を受けますが、そのときに推薦するのは、「では、金沢へ行ってごらん。金沢だったらいろいろと人を紹介してあげられるし、実際の体験もできるんだから」と。もちろん、ジャパンテントのように若い留学生を集めてという努力をされていらっしゃいますが、この辺の責任というのは、金沢は日本のほかの都市に比べてかなり重いように思います。  そういう意味で、金沢、あるいは加賀というものの文化をストックしていく。あるいは、それをきちっと整理して、旬のときに出すということだけではなく、もっと広い意味で、日本、あるいは和というような広さの中で金沢は何かの新しい作業をしていく。かつての尊経閣文庫のような歴史もありますし、百工比照のような試みをした金沢なのですから、ぜひそういうことに責任を負っていただきたいし、そういうことを皆さんで応援していただきたいということが、第二点です。

<難しいお金の使い方>
三番目は、日本というのは二十世紀の中で相当な富の蓄積を本当は図ったはずなのです。しかし結果 として、残念ながらそれがいい意味でのストックになっていない。つい最近のバブルもそうだったと思いますが、ある意味で、お金を稼ぐノウハウはあったけれども、お金の使い方について全くノウハウがなく、実にくだらないお金の使い方をしたというのが、あのバブルの結果 ではなかったかと思うのですが、あそこから学ぶべきことが相当あったように思うのです。  実はお金の使い方が一番難しいだろうと思うのです。そういう意味では、この地の先人たちにもすごくいいお金の使い方があったはずですし、そういういいお金の使い方があったからこそ、今、加賀の文化というものの中で我々が大変楽しませていただいている実態があるように思うのです。そういう意味では、さまざまな経済界の方たちも含めて、あるいは行政の方たちも含めて、どうやってうまいお金の使い方をしていくかということも現実問題として考えるべきかなということを、私の感想として最後に申し上げておきたいと思います。

<「宣言」もとにステップを>
最後になりますが、「金沢創造都市会議二〇〇一宣言」というものをまとめてみました。これをご紹介し、それをもとに、私たちは次のステップを歩みだしたいと思います。

  



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