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<記念対談 発言録>
地域の時代が始まった。
[赤坂] 都市の記憶は重要な地域資源。現代の都市のデザインにつなげて。
[大内] 地域はしたたかでなければいけない。歴史都市金沢の挑戦に期待。


<つくられた「日本」>
(大内)今日は前夜祭ですので、少しリラックスした雰囲気で話をさせていただきたいと思います。実は私は「金沢創造都市会議」の3回のプレ会議についても間接的にかかわらせていただいています。また金沢にいろいろなかたちで20年間ほど、まちづくりのお手伝いに微力ですが関与したということもあって、どちらかというと私が赤坂さんをお迎えするような立場になるということなので、前半は私が赤坂さんにいろいろなことを聞いていこうと、そのあと、都市の記憶と創造力、金沢はどうしたらいいのだというようなお話に向けたいと思います。  先程、渋谷代表幹事から「先が見えない時代だ」というお話もありましたし、原田助役さんからも「これからはむしろ国家を超えた時代になる」と。それぞれ大変重要な指摘をされたのではないかと思っております。幸い赤坂さんには、私もごく最近読ませていただいたのですが、大変すばらしい著書がありますので、それを頼りにまず話を進めてみたいと思います。  岩波新書の『東西/南北考』、「いくつもの日本へ」という副題が付いている本です。この本は「ひとつの日本」から「いくつもの日本へ」という非常に重要なテーマが全体のトーンになっているのですが、具体的に何か例を挙げていただいて、それはどういう意味なのかということを少しご紹介いただければと思います。
(赤坂)「ひとつの日本」というのは、イメージとしては京都、江戸や東京でもいいのですが、日本列島の中に1つの中心があって、文化はその中心から同心円を描いて遠い世界に伝播していくというイメージです。おそらく我々の持っている日本文化論のほとんどは、1つの中心があり、1つの日本というものを無意識の前提にしているのではないかと思っています。しかし、例えば東北をフィールドにするようになって10年ほどになるのですが、東北というのは寒い暗い貧しいというマイナスイメージを常に背負わされてきたのです。東北に行ってすぐに感じたことは、東北というのはイメージとして辺境ですよね。辺境というのは、つまり1つの中心があって、そこから遠いということですよね。では、コロンブスの卵みたいですが、中心がたくさんあると考えたらどうなるのだろうかと。つまり、日本列島の中にいくつもの地域文化が並び立つかたち、それがあたりまえに見られたのだと考えたときに、初めて東北は辺境史観から逃れられるなというふうに戦略的に思ったのです。  それからいろいろ調べ始めたのですが、そうするとどうも日本列島の文化というのは一色ではない。むしろ「ひとつの日本」が大きくせり上がってくるのは近代なのです。江戸時代は300ぐらいの藩に分かれ、その藩の中がお国だったわけです。しかし近代になって、今は国民国家と呼ばれていますが、新しい国家の枠組みができると、そこに帰属している人たちは「国民」になるわけです。しかし、金沢でもそうだと思いますが、藩が違えばずいぶん違ったわけです。その違いを超えて1つの日本人というイメージに凝縮していかなくてはいけない。そのために「ひとつの日本」がずっとせり上がったのだと思うのです。  柳田國男の民俗学というのは、上からではなく下から、方言・民俗・暮らしのさまざまな要素・生業を手掛かりにして、北の方の人たちも南の方の人たちも実はルーツを同じくする文化をずっと営んできたのだというイメージを作りたかったのです。僕は東北を歩き始めて、これは違うなというふうに思ったのです。
(大内)赤坂さんは、出身は東京ですよね。
(赤坂)ええ。僕は東京で生まれて東京で育っているのですが、父親は福島なのです。母親は江戸っ子ですが。
(大内)そうすると何となく東北に惹かれるものはあったのですね。しかし、そこで実際に調査されて、「中心」と「辺境」というふうに日本全体を捉えてしまうというのはある種の偏見だということに気がつかれたのですね。もう1つ、この本の中ですごく重要だなと思うのは、柳田民俗学に対するある種の批判です。柳田國男さんは日本の民俗学のまさに創始者であり、大変な人物であったと思いますし、『遠野物語』や『海上の道』など、いろいろな作品を読まれた方も皆さんの中におられると思います。私も、きちんと読んだ記憶はないのですが、学生時代に、柳田國男というすごい人がいてと。たしかあの人は役人で、貴族院議員の・・・。
(赤坂)そうですね。書記官長まで昇り詰めたのです。
(大内)そうですよね。当時の貴族院の金を使ってずいぶん、実際には貴族院のためにどの程度の仕事をしたかはかなりあやしいと思うのですが。
(赤坂)けんかして辞めたのです。
(大内)けんかして辞めたのですか。まさにあの予算というか、当時の貴族院もおおらかだったのかもしれませんが、その官費を使って、実際には民俗学の調査をずっと手掛けていたわけですね。  実は柳田さんというのは、赤坂先生の本によると、明治をつくって、そのあと日本が大国になっていく過程もオーバーラップしているわけですが、日本人は1つだ、中心がどこかにあってそれの縁辺部分、この本では何という言葉を使っていらっしゃいましたか。
(赤坂)文化周圏論ですね。
(大内)具体的には、京都を中心にしてと理解していいのですか。つまり、京都が中心であって、そこから徐々に周縁に文化がさまざまに散らばっていく。そういうことをうまく作り上げるというか、それをどこまで意識したかはともかくとして、結果 として日本というのは1つの民俗であるということをうまく示唆するようなかたちで柳田民俗学は出来上がっている、そういう理解でよろしいですか。
(赤坂)そうですね。柳田の明治43年の著作『遠野物語』はとても有名ですが、あの『遠野物語』に関して泉鏡花がおもしろいことを言っています。言葉は正確ではないのですが、「あのような世界はどこにでも転がっている。あれは柳田國男という文学者くずれの筆が土地の人の語りを活かしたものだ」というふうに言っているのです。どういうことかというと、鏡花のバックボーンにあったのはおそらくこの金沢やその周辺の民俗だと思うのです。鏡花の小説にはそういうものがいっぱい出てきます。だから鏡花にとっては『遠野物語』の世界は珍しくも何ともない、ありふれた世界にすぎないということだろうと思うのです。ほかの人たちの反応とずいぶん違うのです。
(大内)なるほどね。しかし、まさに民俗学の創始者としての彼の価値は決してなくならないというか、だからといって台無しにするわけにはいかないほどのものがありますね。
(赤坂)それはないです。『遠野物語』はやはり文体で100年もっているのだと思いますね。文学作品ですよ。
(大内)文学作品としてね。そうですね。例えば先生の本にも、柳田が提示してみせた方言について指摘がありますが、「方言周圏論とは、京都を中心として、そこから遠ざかるにつれて周縁となり辺境と化していく」、そういう民俗学であったという話を紹介されています。それに対して、宮本常一さんという柳田に続く民俗学者が一つの反論をしているようですが、宮本さんの議論というのはどういうことだったわけですか。
(赤坂)柳田の方言論というのは、「カタツムリ」の方言を日本中から集めて並べてみると、京都を中心にしてどうも同心円状になっていると言うのです。京都から離れるほど古い時代に使われていた言葉だ。京都を中心にして新しい「カタツムリ」の呼び名が現れるとそれが広がって、さらにまた新しい呼び名が広がっていくということで、同心円状に遠ければ遠いほど古い「カタツムリ」の方言が残っているというイメージでした。  ところが宮本さんはそれを否定するわけです。つまり、東と西でずいぶん民俗が違う、言葉も違うということを、彼は瀬戸内海の大島の出身ですが日本中を歩いていたから知っていたわけです。そうした文化が同心円状に広がっていくというイメージはおかしいと、民俗学者できちっと語っていたのは宮本さんぐらいでしょうね。
(大内)宮本さんがそういう議論をしたのはいつごろですか。
(赤坂)昭和30〜40年代ですね。
(大内)具体的にご紹介しますと、デデムシ→マイマイ→カタツムリ→ツブリ→ナメクジというかたちで、だんだん同心円状に広がっていく。これが『蝸牛考』という柳田さんの本に書かれているのを、宮本常一さんが批判したわけですね。
(赤坂)実はカタツムリの方言というのはむしろまれな例だったのです。非常に柳田に都合がよかったのです。だから方言学者は、いろいろな方言を重ね合わせていったらそんなものは成り立たないと指摘する。
(大内)そういうことを指摘する人がいたことはいたわけですね。
(赤坂)言語学者の中ではあたりまえです。東の方言と西の方言が全く違うというのはいろいろなところで指摘されています。関東方言と京都言葉と筑紫(九州)の言葉が3つの方言として、中世あたりから知られています。
(大内)そうすると柳田さんは、まさにあの時代というか、彼の生きた時代、日本がある種の国体というものを作り戦争に向かっていった過程もそうですが、その時代に、今から見るとまさにリメイクされたというか、それに合ったかたちで民俗学を集大成していったと言える。
(赤坂)それは少し酷な気がするのです。つまり、柳田は明治生まれの知識人でエリートですよね。日本を背負っているのです。日本をどういうふうにつくっていくのか、日本人の幸福とは何かとか、一生懸命考えているわけです。あの時代であれば、一つの日本、一つの日本人をつくることは最大の課題だったのだと思うのです。  むしろ我々の時代が、先程のご挨拶の中にもありましたが、国家という枠組みがずいぶん緩んで、むしろ都市が自立的に自分の情報を発信しながら世界の都市につながっていくような、つまり国家を単位 とするのではない、都市や地域を単位とする動きが始まっている時代である。そこから柳田をその部分で批判してもだめなのではないかという気はします。
(大内)なるほどね。確かにあの時代は今から見ても特殊な時代で、そういうことを言えなかった。気がついていても言えなかったということだったのでしょう。宮本常一さんはこんなことを言っています。「柳田の『蝸牛考』はあくまでも大和朝廷が成立し、日本が国家として統一されて以来の後事的な現象と見なすべきだ」という批判をしているわけです。  そうすると、明治のみならず、大和朝廷以降、ある意味で「日本」という言葉そのものが大和朝廷からできた言葉であると。これは赤坂さんの本でなるほどと思いました。では大和朝廷以前の日本は何と呼べばいいのかということです。確かに大和朝廷以降できたさまざまな考え方で、我々はある種の偏見を持っているのかもしれないということですね。
(赤坂)中世史家の網野善彦さんが繰り返し指摘されていることですが、「日本」という国号、「天皇」という王の称号が出来上がるのが7世紀の後半なわけです。ですから、「弥生時代の日本」とか「縄文時代の日本」というのは本来ありえないのだという言い方をされます。これは原則論としては正しいと思います。しかし、何と呼んでいいのかわからないのです。「縄文時代の日本列島人」とか。しかし2万〜3万年前となると海峡がなくて大陸とつながっていますから列島ではないし、困ってしまうのです。括弧 して使ったりしますが。
(大内)実際どうしているのですか。
(赤坂)あいまいにしたりするのです。「日本列島に暮らした人々」とか。
(大内)でも「日本列島」というのは出てくるわけですね。ほかに表現のしようがない。ただし、確かに文字として残っていないという問題はあるかもしれませんが、何か言い方はあったことはあったのでしょうね。
(赤坂)僕はなかったと思います。つまり、「倭」というのが邪馬台国の周辺から出てきますが、倭人は日本人ではないのです。中世まで「倭」が残っているのです。あれは日本海から東シナ海あたりの海域を舞台にして暮らした海の民の総称だと考えるべきだと思います。その生活スタイル、邪馬台国の時代と中世15〜16世紀の「倭」と呼ばれた人たちの暮らしぶりはほとんど変わらないのです。「舟を操り、潜ってアワビを採る」とか、「交易に従う」とか。だから倭人は日本人とはストレートに結べないです。
(大内)そうすると、今、僕たちが考えている「日本人」という一つのプロトタイプというのは、聖徳太子以降、括弧 書きで作られていったものだという理解の方が正しいのですね。
(赤坂)そうですね。だから、日本文化というか、この日本列島に営まれてきた文化というのは、数万年の単位 の中での雑種交配だと思いますね。NHKの「はるかなる旅」でしたか、日本人のルーツをたどる。
(大内)はい、今やっていますね。
(赤坂)あれはいろいろな側面からそれを明らかにしていますが、とにかく雑種交配です。縄文時代に国家なんてありませんし。  考古学者と話をしていて、北海道の礼文島の遺跡のことを少し話したのです。ある論文を読んでいたら、「日本最北端の縄文遺跡」と書いてあったのでそのまま言ったのです。そうしたら叱られましたね。「当時は日本なんてありません」と。言われてみるとはっきりするのですが、その礼文島の遺跡から出ている貝の加工品は、もちろん北海道全域にあるのですが、樺太の方にもいっぱいあるわけです。国家がないわけですから、近ければ行くわけです。だから、縄文時代の日本には国境はないわけですから、文化の動きは我々の想像とは全く違った動きがあったと思います。

<いくつもの「日本」へ>
(大内)あのNHKの番組はたぶん皆さんもご覧になっていて、この前の日曜日はたしか稲のルーツをテーマにして、雲南から稲が伝わってきてと。そして、我々の今までの発想だと稲は弥生からだという理解があったが、実は違うと。つまり、今の雲南や東南アジアの中では焼畑で、いわゆる田んぼのないところで稲は植えられていますから、それを前提にすると、弥生から農作が始まったというのはひょっとするとまちがいだという議論でしたよね。あの辺から考えると、網野善彦先生なども指摘されていますが、東北には今でも畑が若干残っているのかな。要するに水田でないところに稲を植える方がむしろ歴史は長いというわけですか。
(赤坂)水田でないところに米を植えるのはほとんどないと思いますね。ただ、稲ではなく、ヒエを水田で作ることはありました。
(大内)いわゆる雑穀にあたる穀類ですね。ソバの類はもちろんそうですが。最近、その縄文遺跡の中でも炭化した稲が結構出てきていますよね。そうすると、稲作文化というものが弥生からというのはいつ頃からと理解すべきなのですか。
(赤坂)今から2300年前ぐらい。
(大内)2300年前ぐらいから大体どのくらいの期間と理解すればいいですか。
(赤坂)600年間ぐらいですか。
(大内)その前の縄文が。
(赤坂)1万年です。
(大内)そうすると、1万年というタームでものを考えて。人間の歴史は今は60万年ぐらいまでたどるのですか。
(赤坂)もっとさかのぼっていますね。
(大内)そういう歴史から見ると、我々の今の、聖徳太子以降の1400年ぐらいというのはほんの点にしかすぎないですね。民俗学の話に戻りますが、宮本常一さんが、これは赤坂さんが紹介しているわけですが、「柳田の文化周圏論というのは、いわばその千数百年間に限って成り立つ列島の文化地図でしかない」という批判をされているわけですね。
(赤坂)富山県で逆さ地図を作りましたよね。日本逆さ地図。ご覧になった方はいらっしゃいますか。あの地図を見ると衝撃ですよね。衝撃ではなかったですか。つまり、日本列島というと、こういう地図の中に北海道からこんなふうに収まっている。境界があるのだと勝手に思い込んでいるのですが、あれをひっくり返されると、内海がいくつも北の方から連なって、日本海なんか湖に見えてしまうのです。地図をひっくり返すだけでもイメージが変わる。  我々が教えられてきた歴史というのは弥生以降なのです。もっと正確に言うと、先程から大内さんが言われているように、聖徳太子以降という、ただ千数百年の歴史なのです。例えば縄文から弥生へというふうに我々は教科書で教えられてきたではないですか。弥生時代になると稲作が始まり、金属器の使用が始まり、富の蓄積が起こって身分が生まれ、クニが生まれてクニどうしの戦いが起こり、やがて天皇をいただく古代の律令国家が出来上がったと教えられてきたのです。  最近の考古学はおもしろいことを言っているのです。それは西日本中心のある意味ではローカルな歴史にすぎないと。その同時代に東日本ではどうだったのか、北海道はどうだったのか、南の方でどうだったのか。弥生文化を北海道や沖縄は受け入れていませんから全く違う展開をしているのです。東北などもまだら模様に稲作を受け入れますが、やはり縄文的な伝統の上に乗って動いていく。そうすると、縄文から弥生へと一直線に歴史が展開したように教えられてきたその歴史観がおかしいのではないか。むしろいくつもの日本がすでにそこに転がっているというふうに僕は考えますね。
(大内)赤坂さんが言いたいのは、例えば民衆の民具の歴史、風俗、習慣、そういうものを調査していると、今言われた大和朝廷以来のことをはるかに突き刺していくような長いタームで継続性がある。それが「いくつもの日本」というかたちで、非常に個性的なかたちで日本列島のそれぞれの地域の中で醸成されているということですね。
(赤坂)だから、「ひとつの日本」というのを別の表現で言うとこういうことなのです。中国があって朝鮮半島があって日本列島がありますね。文化というのは常に、高度な文化を持った中国から、西から東へと伝わってくる。僕はそれを「東西論」と言っているのですが、常にその東西の軸に沿ってしか文化の移動を考えない。  例えば、いろいろな例があるのですが、布の歴史です。日本列島の布の歴史というのは、律令のころに中国から織機が渡ってきて始まったとみんな信じていたのです。ところが最近は、6000〜7000年、布の歴史がさかのぼりつつある。縄文土器の下に布の模様が残っています。その上でこねていたわけです。三内丸山でも1センチ角ぐらいの布の断片が出ていますが、非常に目が詰んだものです。つまり、織機がなくても布は織れる。実際は弓矢状のものを使うとか、新潟で編衣(あんぎん)というものを織る小さな道具があるのですが、そういうもので織れてしまうのです。  あるいは漆塗りもそうです。金沢は伝統工芸で漆塗りが盛んだと思いますが、あの漆塗りもまた6000〜7000年さかのぼっているのです。あれも中国から来て始まったとずっと教えられてきたのですが、北陸のある遺跡で出た朱漆の櫛を電子顕微鏡で見た断面 図を映像で見たことがあるのです。6000年前ぐらいものですか、真っ赤な美しい櫛です。4層に塗られています。つまり、6000年前の縄文人たちは、漆塗りをするときに、1回塗るだけではなくて4層に塗っているのです。今の最高の工芸品でもたぶん5〜6層だと思います。つまり、技術的にはもう6000年前にある水準までいっているのです。  東西論の枠組みで日本列島の歴史や文化を考えると、文化の高い中国から朝鮮を経て日本へというふうになるのです。別 の言い方をすると、近代になればそれは東京ですよね。欧米・ヨーロッパ・アメリカから文化は東京にやってくる。そして東京から同心円に広がっていく。そういうイメージですよね。それはたぶん現実からかなり遊離したものがある。北につながる文化もあるし、南につながる文化も実はたくさんあるのです。  そういう日本列島の文化の窓口、通路がたくさんあるのだということを明らかにしていくのは、例えばこれからのイメージとして、「都市の時代」ということが先程から何度か出ていますが、東京に世界の文化が全部集まって、そこから同心円に広がっていくのではなくて、例えば金沢がどこかとつながって直で外国の文化を、あるいはそこにつながるような仕掛けを作ってしまうとか、つまり、中心は1つではない、中心はいくつもあっていいのだというイメージを創ってやったときに、たぶん新しい風景が開けてくるのだろうと思います。
(大内)東の日本と西の日本というのが、これはどっちが先とかどっちが中心ということではなくて、巨視的に見た場合にある種の違いがあるということもいえるということですね。
(赤坂)そうですね。方言の場合にはかなりはっきり言語学者たちが突き止めて語っていますが、民俗学の領域でもいろいろなことを語られてはいます。例えば一番わかりやすくてよく使われるのが、例えば皆さんは正月のお餅は丸いですか四角いですか。四角いという人は手を挙げてみてください。結構いますね。丸いという方は・・・。四角い方が多いですね。
(大内)両方という方。これはおもしろい。なるほど。
(赤坂)東は切り餅なのです。西は丸餅といわれています。どうやらあそこの方が言われているように、餅の四角い丸いで、このあたりはぼかしの地帯だというのがわかりますね。正月の魚は、たぶんブリですよね。違いますか。ではサケというのは・・・。これも東はサケで西はブリというのがかなり強いのです。それもやはりどちらもいましたね。  こうした例を挙げていくときりがないのですが、かなり東の民俗と西の民俗は違う。そして北陸の金沢から富山のあたりというのは、言葉もそうですが、境界地帯なのです。重なっている。それをある考古学者の言葉で「ぼかしの地帯」と言っているのですが、東の文化と西の文化が重なっている。そういう地域の1つなのだろうと思いますね。
(大内)ぼけているわけではないのですね。
(赤坂)ぼかしです。
(大内)混じり合っているわけですね。
(赤坂)そうですね。だから、白山のあたりの焼畑というのは、東の焼畑の作物と西の焼畑の作物が全部集まっているのです。そういうことは調べていくといくらでもあります。
(大内)少し方言のことで例をご紹介します。東部の方言でいうと「行かない」「これだ」「白く」「受けろ」「買った」という表現ですが、西部の方言、本州の西の方でいうと、「行かない」という東部に対して「行かん」、「これだ」という表現に対して「これじゃ」、「白く」に対して「白う」、「受けろ」に対して「受けよ」、「買った」という言葉に対して「買(こ)うた」、要するに音がずいぶん違いますね。そういう違いが例えば方言の中にあるということなど、いろいろなものがあります。  例えば東は馬の社会で西は牛の社会だというのは、ずいぶん昔から指摘されています。また、これはどこまでいえるのか私は興味のあるところですが、いわゆる長子相続制、長男に財産を継がせていく相続制というのはどちらかというと東北・北陸に色濃い。例外はもちろんあるでしょうが、そういう社会の構造についてもずいぶん違うという議論はありますね。
(赤坂)家族形態が東は大家族で、大きいのです。一つ屋根の下に何家族も何世代も一緒に住むというのはごくあたりまえですし、今も山形は3世代同居の割合が非常に高いといわれます。西の方はむしろ核家族が基本なのです。その家族どうしの関係も西は横並びでかなり対等なのです。しかし、東の大家族制度を持った東北などでは、本家と別 家、分家との関係は縦です。だから本家へ挨拶に行くとか、祭りも本家の氏神を村に拡大するようなかたちになりますし、ずいぶん違うのです。

<ぼかしの地帯>
(大内)今の赤坂さんのいろいろな例を、実はこの「金沢創造都市会議」ではぜひもう一度考え直そうというか。例えば経済同友会がまとめられた『石川県って、こんなとこ』、これはなかなかおもしろい。講談社から最近出版されたのですが、やはりぼかしというか、「中の文化」という言い方もありますね。東の文化、西の文化の中間というか、「中の文化」と言わざるをえないような、ぼかしという言い方もあるわけですが、これは雑種混合ということなのですか。
(赤坂)なぜそういうふうに西と東の文化が違うのかというその背景は複雑だと思うのです。大きくは縄文文化が日本列島全域にとりあえず広がっていった。しかし、人口の8割は東日本なのです。北陸はたぶん三内丸山のころの人口は2万数千人ぐらいだと思います。畿内はもっと少ない。数千人単位 でしか人が暮らしていないのです。  そういう縄文の文化のあったところに弥生が被さることによって、人口のレベルが一気に50〜100万になります。まだら模様にそれが被さっていくことによって縄文的な伝統の色濃く残ったのが東であり、弥生の直系の文化を継承しているのが西なのだろうと思います。
(大内)今、三内丸山の話が出てきましたが、私は残念ながら訪ねていないのですが、網野善彦さんなどは、あれを見るといかに縄文時代が豊かであったかがわかると。都市としても相当な規模で、遺跡を見るとかなり大型の構造物を建造した歴史もあるという話を私も網野先生の本で読みました。ただ、あれは現在はサッカー場か何かに予定されたところだけの発掘なのですね。
(赤坂)全体は35haぐらいあって、その6分の1ぐらいしかまだ掘られていないのです。
(大内)そうすると、それ以外のところももし掘ってくると、とんでもない大きな都市があったということもわかる可能性がある。
(赤坂)僕は、縄文の「都市」という言い方に半分だけ抵抗があるのです。都市だと持ち上げることによって、逆に村や農村がおとしめられる可能性がある。その二元論に乗るのは嫌だと思うのです。ただ、都市的な場であることは確実だと思います。1500年間にわたってそのエリアで生活が営まれて、そこから出土するものを見ると、新潟県の糸魚川のヒスイであるとか、北海道の十勝平野の何だとか、秋田の何とか、三陸の何とか、さまざまな地方の、これははっきり言ってブランド品です。あの時代のブランド品が運ばれてくるのです。
(大内)三内丸山まで来ていることが確認されている。
(赤坂)ええ、そうです。そして、三内丸山の時代に周囲の村がなくなってしまうのです。都市化現象です。人が集まってくるのです。だから都市的な場ではあると思います。かなり特殊な生活が営まれていたのかもしれない。ある意味では三内丸山の発掘によって見えてくるのは、はるか5000年前の都市の記憶なのかもしれないとは思いますね。
(大内)しかも、先程も少しお話がありましたが、むしろ縄文に限って見ると、西の縄文と比較すると、東の縄文の方が豊かだしバラエティに富んでいる。
(赤坂)人口がずいぶん違います。しかし、東北の人に向かっては「縄文時代には東北は先進地域でした」と言うと喜んでくれるのですが、あまり自分では信じていないのです。この「先進」とか「後進」という二元論そのものを壊さなかったら変わらないと思うのです。
(大内)なるほどね。ぼかしの話をもう少ししたいのですが、この前、NHKの「日本人はるかな旅」の稲の話を見ていておもしろいと思ったのは、いわゆる熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカという2つの米があって、それがどこかで混じり合っていて、そして熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの雑種の方が成長力があるという話です。ぼかしというか、雑種の方が成長力があると言っていいのですか。
(赤坂)いいのではないですか。やはり雑種の方が強いですよ。純粋種は弱いですよね。
(大内)赤坂さんの本を読んでいると、ぼかしの地帯が3つあるという議論ですね。北陸、中部圏の、ちょうどフォッサマグナ、日本列島がくびれているところに中のぼかしがある。それに対して北のぼかしがある。これが赤坂さんのご専門の「東北学」ですね。北にもすごいぼかしの地帯があるという話を少ししていただきたいのですが。
(赤坂)実は縄文時代にも地域性があったということは考古学者がはっきり語っているのです。日本列島の文化は、それぞれの研究者によって違うのですが、5〜7ぐらいの地域ブロックに分かれていた。つまり、地域性というのは少なくても1万年の時間がある。それは我々の時代にも残っているのだろうと思うのです。僕は考え方の基本として、北海道のアイヌの人たちが暮らした北海道を北、それから東北・中部・北陸・関東・東海まで、フォッサマグナの東側を東、その西側を西、あと奄美・沖縄のあたりを南というふうに呼んでいます。  そうすると、その北と東のぼかしの地帯は津軽海峡を挟んで北海道南部と東北北部なのです。ここがおもしろいのは、縄文の1万年間、ずっとほとんど同じ文化圏に属しています。つまり、津軽海峡で分断されていないのです。あのあたりにぼかしの地帯があるだろう。もう1つは、東と西の、先程から出ているこのあたりも、どうも話を伺っているとぼかしの地帯ですね。あと、南九州からトカラ列島あたりまでですが、そこが西の文化と南の文化がやはり重なるぼかしの地帯になっているのです。  実はぼかしの地帯が一番おもしろいのです。そこの文化を掘り起こすことによって、いわゆる日本文化の多様性・多元性がはっきり見えてきます。
(大内)その北のぼかしの話をもう少し詳しく聞きたいのですが、今まで僕たちは、蝦夷、あるいはアイヌというのは全然別 の世界だと教えられてきましたね。その考え方も修正しなければいけないということですか。
(赤坂)僕は修正を迫られると思いますね。このあたりも古代には越の国(こしのくに)ですよね。蝦夷(えみし)につながっていると思います。アイヌ民族のルーツを語った方が早いと思うのですが、縄文時代には北海道南部と東北北部はほとんど同じ文化圏でした。たぶん丸木舟で津軽海峡を渡って行き来していたのです。  その後、弥生の稲作が北上するにつれて、北海道は別の展開を始めるのです。稲作を受け入れませんから、続縄文、擦文、そしてアイヌとつながるのです。アイヌ文化が成立するのは11〜12世紀です。その北海道の中で大きな民族的な交代があったかというと、ないのです。つまり、アイヌの人たちは縄文以来のつながりの中で、自分たちの民族的なアイデンティティを作っていったということがわかるのです。  東北の蝦夷、あるいは越の国の人々がどうだったのか。これは複雑なのですが、やはりかなり縄文の伝統を背負っている。ただ、雑種交配をどんどん繰り返してきますからそういうものは消えていくわけですが、そういう意味で、僕は北海道のアイヌの人たちと東北の蝦夷は兄弟分だろうと思っています。
(大内)今度は南のぼかしというのはどういうことですか。
(赤坂)奄美・沖縄のすぐ北に、トカラ列島があるのですが、いろいろなものがそこでがらっと変わるのです。なぜ変わるのだろうか。農具で箕(み)というものがあるのですが、この辺はU字型ですよね。
(大内)ごみというか、軽いものは風で飛ばしたりして、実と殻を分けたものですね。
(赤坂)それです。日本橋出身でよくご存じでした。
(大内)見たことはあります。
(赤坂)あのU字型の箕が奄美や沖縄にはないのです。丸箕になるのです。くっきり分かれるのです。いろいろなものがトカラ列島で切れるのです。どうもあの辺にぼかしの地帯がある。例えば僕の友人が鹿児島の黎明館という博物館にいるのですが、彼が最近、東南アジアに凝っていてよく出かけていくのです。黎明館の展示があって、農具の展示なのですが、南九州の農具とラオスの農具が並べられているのですが、そっくりなのです。全く同じなのです。  つまり、先程の話でいうと、熱帯ジャポニカという東南アジア系の稲の道がたぶんあったのです。そうでなければ、その辺は理解できないと思います。

<江戸時代の金沢>
(大内)それはもう1つの、まさに南から日本の、「日本」と言ってはいけないのかもしれませんが、私たちの祖先の1つの系統として、南から来た人たちがいたということの証であるわけですね。  実は金沢の話になかなかうまくいかないのですが、中の文化、一番みんなが関心があるのは北陸ですが、これはどういうふうに理解したらいいでしょうか。
(赤坂)僕はむしろお聞きしたいのですが、金沢は400年前に前田利常でしたか。3代目は誰ですか。
(大内)初代が利家、3代は利常ですね。
(赤坂)初代から3代ぐらいまででまちづくりの基本をやりますよね。そのときにモデルにしているのは京都ですよね。
(大内)といえるのかな。あとで地図をお見せしますが、少なくとも都市計画というか、都市のデザインからいうと、全く京都ではないですね。
(赤坂)それは近代になってから変わったということではなくて。
(大内)ではないですね。京都は長安の碁盤の目を輸入しましたが、ああいう都市の構造とは全く違いますね。 (赤坂)碁盤の目ではないということですね。
(大内)金沢の都市の構造は京都とは全然違います。犀川と浅野川を非常に活かしたかたちで、ある種の丘陵地というか、坂のあるところに実に巧妙に、目くらましのように、逆に言うと、いじわるな都市を造ったなというのが私の感想です。ほとんど直線に通 っているところはない細かい街路がたくさんある。
(赤坂)小林忠雄さんが15年ぐらい前に本を出されていますね。それを読んできたのですが、その中で「初期の金沢の町のデザインが京都を1つのモデルにしていた。幕末のころになって江戸にもう1つのモデルを求める動きが始まる」と書いてあったのでそうお話ししたのですが、訂正していただきましょう。
(大内)図1が江戸時代の延宝年間の金沢の構造ですが、右下手の方が高くて、左上に向かって下がっている。南に犀川があって、北に浅野川がある。真ん中に金沢城があるのですが、この全体の都市の姿というのは今でもほとんど変わっていません。ほんの一部が区画整理をしています。
(赤坂)これはむしろ江戸に近いのですね。
(大内)おっしゃるとおり、まさに江戸にものすごく似ている。東京も藤森照信さんがよく、「江戸城を中心にある種のらせん状に都市が広がっていった」と言っていますが、それとすごく似ていますね。
(赤坂)似ていますね。この金沢の都市の構造を説明していただけませんか。
(大内)私自身がおもしろいなと思っているのは、金沢城があって、その西側が武家地だったわけです。今の香林坊や長町周辺には非常に大きな武家屋敷がかなり大きい単位 であったのです。もっとおもしろいのは、犀川と浅野川を越したところに、今でも大変お寺が多い寺町がある。  要するに、二つの川に囲まれた内側がある種の晴れの場であって、ここでは裃を着ていなければいけない。この川を渡ったところで、ある種の士農工商という当時の江戸の身分制度が逆転するというか。寺町のほかにも、主計町(かずえまち)をどう理解するかというのは難しいのですが、東の廓があり西の廓があるように、この川を渡った途端にある種の身分制度に基づいた価値体系が意味をなさなくなって、要するに、簡単に言うとお金のある人間しか相手にされない。当時は武士とはいっても、川を越すと扱われ方が変わってしまうような、そういう非常に巧妙にできた構造をしていると僕は理解しています。
(赤坂)あの橋のあたりがまさにそうですね。遊郭があってお寺があって。
(大内)そうです。その辺はやはり金沢自身の文化というのも、江戸に造られた都市ですから、江戸文化というふうに。私がなぜ興味を持っているかというと、私自身は、先程少し申し上げましたが、もともと親父が日本橋でおふくろが蔵前なものですから、江戸っ子の末えいなのですが、東京には江戸を感じさせるものはお庭ぐらいしか残っていないのですが、ここへ来ると、ある意味では先祖というか、私のルーツを感じさせるようなものがいろいろあるということがあり、私にとって金沢は来ることがすごく楽しみな町のうちの1つですね。  赤坂さんと一緒に少しずつ金沢の話をしていきたいのですが、先程の話に関係することで、実は江戸時代というのは、我々が考えているよりも中央集権ではなかった、地方分権的であつたということもいえるのではないかと思います。次の図2を見てください。
○これが徳川末期の城下町のいわば勢力図というか、当時はまだ北海道・蝦夷は入っていませんが、要するに各藩の勢力で、この棒の本数の多さが勢力図にあたるわけです。加賀百万石があるように、西の方も島津も含めて、鍋島などいろいろなところはむしろかなり多くの勢力を持っていた。  江戸時代というのは、我々が考えている以上に、確かに徳川政権が中央である種のコントロールはしていましたが、実は非常に分権的な社会だったというのは、経済史学をしている人たちによって明らかにされています。中央が人質を取ったり参勤交代を迫ったりいろいろな問題はあったかもしれませんが、中央に納付しなければならない税金も今に比べると実は低かったという議論もあります。  金沢の場合、前田利家は加賀に帰る前に亡くなりましたが、昨日もNHKの「このとき歴史は動いた」というので「まつ」のおもしろい話をやっていて私も見たのですが、そのあと「まつ」の意志を継いで利長が加賀へ入り、その後の加賀藩をつくっていった。それから5代綱紀まで、3〜5代ぐらいまでの間に、加賀は今で言う金沢に残る伝統文化を形成したという歴史があります。  最初のころは、加賀に「百工比照」という言葉がありました。金沢の方はよくご存じですが、「百の匠を比べて照らし」というか、日本全国から当時の最先端の工芸師たちを集めてきた。多くが京都あたりからのようですが、工芸師たちを呼んできて、ここで新しい細工物やいろいろなものをやらせた。同時に、その以前からも関係ありますが、当時は江戸文化というと室町あたりからですが、お茶・お花といった類の、まさに江戸で栄えた文化もここで花開いていったという歴史がある。今、日本文化というと、それを何となく想像しますよね。縄文まで本当は行かなければいけないのかもしれないのですが。
(赤坂)別に無理して行く必要はないです。

<仙台の失敗>
(大内)無理して話をつなげようかと思ったのですが、それは批判されてしまいました。せっかくだから赤坂さんの本の話を完了させたいと思っています。  「中の文化」という話で、ある種の雑種だということですが、雑種の強さという話もあったと思います。本の紹介はよかったですか。
(赤坂)僕がこれを書いた大きなモチーフは、今、地域の時代が始まっているという認識です。それは金沢でいえば「都市の時代」かもしれませんが、国家を中心として社会が動くのではなくて、地域がもう少し自立的な動きを強めていくだろう。その中で、例えば金沢のような都市は何を背負うべきなのかと僕は考えるのです。  つまり、東北でいいますと仙台だと思うのです。仙台と金沢はずいぶん違うと思いますが、仙台の町は正直いえばおもしろくないのです。なぜおもしろくないかというと、あまりにも東京ばかり見ている。東京一辺倒なのです。もう典型的な支店経済都市になってしまっていて、メインストリートのお店がみんな東京からの支店なのです。空洞化が進んでいるのだろうとJCの人たちに言ったら、違うと言うのです。むしろ潤っている。大家さんになって地代をもらっていればいいのだから楽なのだと。自分のクリエイティブな商売をするとか、そういうことはどんどん衰えていると聞いています。  たぶん金沢との違いはそこだと思うのです。金沢は支店経済ではないですよね。もう少し多様な産業、例えばここだって芸術村ですか、いろいろなかたちで「伝統的な」というふうに、僕は括弧 付きにしたいのですが、伝統工芸などを大事にしながら、それを産業として興そうとする動きがある。しかし、残念ながら仙台や山形ではどんどんそれが消えていますね。なくなってしまってから騒いでも遅いのですが。
(大内)その大きな原因は何なのでしょう。
(赤坂)例えば仙台でいいますと、東京が近くなったということが圧倒的ですね。
(大内)東京の郊外化してしまっているということですね。
(赤坂)通っている人もいるわけですから。
(大内)その辺、私も国土政策のようなことを勉強しているのですが、実は国土政策のうえでは、私のボスだった下河辺淳は、「東京から300km圏まで東京の郊外だ」と考えていました。そうしたらどうなるかというと、仙台も入るし、新潟も入るし、もちろん名古屋も入るのですが、実は北陸がそうはならない。距離的にはかなりそれに近いのですが、時間距離からいうとまだそれほど近くないものですから、東京の郊外ということではない。  逆に東京の郊外化したことによって仙台は文化的にだめになっていくということもいえるということですか。
(赤坂)そう思いますね。
(大内)そうすると、ここで北陸新幹線を引けというのはしんどいなという話もあるかもしれない。一生懸命、新幹線を引く運動をしている方もおられるから。
(赤坂)つまり、自分たちの、例えば仙台という都市に埋もれている記憶を忘れていってしまうのです。その記憶というのは、僕は地域資源なのだと思うのです。何もないところから町をつくる、都市をつくるのは大変なことですが、自分の中に埋もれている記憶、それは町の街路の形であるかもしれないし、街角に建っている何か古い祠や石仏かもしれないし、何でもいいのですが、そういう都市の記憶というものが宿っているモニュメントみたいなものを、意図的に現代の都市のデザインにつなげていくということは必要だと思います。仙台はそれをやらずに壊してきてしまったのだろうと思いますね。
(大内)その辺はすごく重要なポイントなので金沢の話とつなげたいのですが、私は学生に教えたりするときには、ある意味で日本の都市というのは不幸な歴史を持っていると。なぜかというと、ほとんどの都市がアメリカの爆弾で焼かれてしまったのです。火炎瓶の親分みたいな焼夷弾を落とされて、北海道から沖縄まで、全体で120都市ぐらいだと思いますが、ほとんど焼き尽くされてしまった。それ以外に火災で焼けたということもありますし、東京や横浜の場合には震災にも遭っていますから、関東大震災でも昔の建物や宝物を失ってしまった。  だから、東京に江戸のものはほとんど残っていない。大名屋敷のお庭ぐらいしか残っていないということですが、私の家でも蔵に残ったものはほとんどないのです。そういうことが日本の各都市は宿命的に行われたということと、もう1つは、かなり暴力的にというか、経済のパワーがものすごく強かったということが、都市のスクラップ&ビルドを進めてしまった。その点、仙台の方たちの味方をするようですが、ある程度しかたがなかったところもあったのかなとは思うのですが、それに対抗する方法は何かなかったのですかね。
(赤坂)対抗する方法かどうかわからないのですが、僕は仙台の人たちに向かって言うことがあるのです。つまり、仙台人は東京に顔を向けているわけです。僕はその背後にある東北の村ばかり歩いていますが、その村から仙台がどういうふうに見えるか。非常に反発があるわけです。しかし、僕は仙台は東北の都だと思うし、きちんと背負っている東北を意識しながら、自分たちの新しい都市のデザインをしていくべきだと思います。そのとき関係が変わると思うのです。  例えば、おもしろい例ですが、高速バスがずいぶん便利になりました。日本海側の庄内から仙台に、若い女の子たちが高速バスに乗って朝出るのです。彼女たちは携帯を持っているわけです。仙台に着くとみんなパッと分かれて、自分たちの好みの店を探すわけです。携帯で連絡をとりながら、いい店があったというとみんなそこに集まってくるのです。「庄内ガール」というらしいのですが。  つまり、これまでみんな東京に出ていたのです。原宿に一泊でとか。それが仙台で止まり始めているのです。そうした人の動きを仙台がどの程度きちんとキャッチして自分たちの都市づくりをしていくかということが、今、問われ始めているのです。実際、若い世代の経営者たちが街並みをどんどん変える動きも始まっています。だから、東京ばかり向いていると支店経済という位 置づけしかされないのですが、背後に背負っている東北を意識し始めたときに、むしろ新しい展開が起こるのではないか。  金沢に関して同じことが言えるのかどうか僕にはわからないのですが、やはり金沢も背負ってはいると思うのです。これだけの大都市ですからいろいろなところから人が集まってくるでしょうし。例えば小林忠雄さんの編集された本を読んでいても、「金沢の伝統工芸の職人さんたちで3代続いている家がない」と出てきたのです。周辺の農村部から二男・三男が入ってきて、そこで職人の修行をして職人になる。ある意味では伝統というと古来連綿として同じ家がとなりがちですが、新しい血や空気を常に導入しながら作られてきた伝統はとても金沢にとっては大切なことだし、ある意味ではそれは雑種交配なのです。
(大内)そういうものを入れ続けて、その中で自分たちが、何かよくわからないが、その一つの入れ物、皮袋なら皮袋の入れ物の中で発酵させていくようなものが、結果 としてその地域のアイデンティティを作っていくという話ですね。


<伝統とは創られていくもの>
(赤坂)そうですね。僕は正直にいいますと、伝統というのは守るものではないと思っているのです。むしろその時代ごとに、その最先端の部分で創造されていく、創られていくものだと考えないと、もたないと思いますね。
(大内)それはすごく大事な指摘だと思います。世界のある種の文化を創り上げていったところは、ヨーロッパが中心のときもあったかもしれないし、ローマもそうだったかもしれない。あるいは中国などにも外からのさまざまな民族・文化が入っていく中で創られていったものが、結果 として伝統文化になっていくという動きですよね。
(赤坂)伝統というと、後ろ向きであったりノスタルジーであったりといわれがちなのですが、実は現在であり未来であると考えるべきだろうと思いますね。そのときにいろいろなものがたぶん出てきますね。ここは昔の工場の跡ですね。
(大内)紡績工場の跡ですね。
(赤坂)最近、こういう近代の建築物が注目されています。山形は最上川舟運がありましたから、最上川沿いに蔵がたくさんあるのです。蔵を今どんどん壊しているのですが、それをやはりうちの大学の先生たちが展覧会の会場にしたり、踊りのステージにしたりということがようやく始まっていますね。そういう意味では金沢は結構先行しているのではないですか。
(大内)これは金沢の皆さんの前で私が言うことではないかもしれませんが、実は大和紡績という金沢を支えてきた紡績工場が、工場として使わなくなって放ったらかしになっていたものを山出市長がひと声で買ったと聞いています。周りの人たちはこんなに大きなものを買ってどうするのだといって少し心配していたようですが、そのあと、あそこにおられます金沢工大の水野一郎先生が、十分使えるということでここのリノベーションをやったわけです。  ですから、ある種の記憶というか、時間の記憶がこの中にはものすごくある。実は今、ここはモダンアートをする場所になってきているわけです。こういう空間というのは、建築家に新しく施設を造ってくれというと絶対こんな空間を造るはずがない。全くそれとは違う造形があるからこそ逆におもしろい。非日常の空間が演出できるおもしろみがここにはあるわけです。
(赤坂)これまで建築家やデザイナーは作品は無から創り出すものだという思い込みがあったではないですか。むしろ地域に埋もれている記憶が手掛かりになって、可能性が出てくるのだと思います。いろいろな無残なものを見てきましたから。
(大内)その無残なものを少し見たいのです。もう消し去りたいからよけい見たいのですが、実は私はいつになるかわからない首都機能移転論に少し関係しています。新しい首都を日本がもし造るとしたら、どういう都市を造るのだということで、国土交通 省の調査部会がやっています。実は私はメンバーではなくて、周りからいじわるをしているメンバーなのですが、あるコンサルタントに何か絵を描けと頼んで、出てきた恐ろしい絵があるのです。
○それの最初の絵が図3です。皆さんお笑いになっているから、健全でいいな、話が通 じるなと思っています。実際これはまじめな話、本当に出てきたのです。3年前です。僕は何を考えているのだと失望したのです。  19世紀の末くらいにこういう都市イメージ図が出てくれば、それなりの賛同を得られた。つまり、科学技術文明を礼賛するような時代、建築家でいえば例えばル・コルビジェです。コルビジェはほかにもいろいろなものを造っていますからそれ以上の悪口を言うつもりはありませんが、例えばコルビジェの「300万人都市」という構想はこの図によく似たものです。真ん中に滑走路がありまして、高層ビルが立ち並んでいる。これこそが20世紀の都市の姿だと我々は思い込んでいた時代があります。  では20世紀にどういう都市を創ったかというと、例えば、新宿副都心がそうです。私は図4にある新宿三井ビルの37階に15年間ぐらいいましたが、それはそれで物理的な環境はいいかもしれませんが、はたしてここにアイデンティティが、例えば私は記憶をここに残して30〜40年、あるいは私が死ぬ 直前になってもう一度何か感慨にふけるようなことをこの町でできるかというと、たぶんできない。ひょっとすると50年後にはもう消えてなくなっている可能性もある。20世紀に創った都市というのは、20世紀が将来の縄文にいつなるのか知りませんが、何百年、何万年たったときに全く20世紀の痕跡は残らない可能性がある。
〇例えば図5もそうだと思います。郊外型のニュータウンです。どことは言いませんが、金沢の郊外にもあると思います。そういうところに住んでいる人がいたらごめんなさいね。別 に批判しているわけではないのです。しかし、これが実は理想の都市の姿だと思っていたときがあるのです。  ではどうするのだということで、ここからが本題なのですが、首都機能移転は今の国会の状況ではとてもできないと思います。また、私は別 に実際に東京から首都を移転するということが、緊急の課題だとは思っていません。地震の対策のためやセキュリティの維持のためにバックアップ都市をつくらなければいけないと思ってやっているのです。それにしても、例えば環境共生ということをテーマにもし日本の都市を考えるとしたら、何か世界の人たちにあっと言わせるような都市をデザインしなければいけない。
〇何とかしようということで、国土交通省の側で出している新首都のイメージ図が、これは今インターネット上でも流れています。図6です。その趣旨は、もう一度、里山に帰ろうやというものです。つまり、城下町というのは確かにそれなりにすごく合理的にできた都市ですし、裏山にある材料を使って町をつくりました。あるいは川をうまく使って物流を維持しました。それからある意図を持って、城を中心にした中心と周辺をうまくつくった都市という意味ではなかなかよくできた都市ですが、そこには独裁者がいるわけです。  これはヨーロッパの都市も同じです。例えばパリはナポレオンがいて出来上がっている都市ですが、王宮があってその周りに都市ができる。それははたして21世紀に我々がモデルとする都市なのかというと、違うのではないかということが1つの議論です。かといって、京都のようにグリッド状に四角くというのは、あれもひとつの時代のファッションであったかもしれませんが、あれもはたして我々が目指す都市の姿ではないのではないか。  そうなったときに、我々の先祖たちがある種自然発生的につくった、都市というか村というか、「集落」と言った方がいいのですが、その方がむしろ合理性があるのではないかということから、現在、国土交通 省はこれを出しています。もちろんコンピュータや電気エネルギーを否定するわけではないのですが、こういったまるで里山のような風景の中に小さい町をつくって、我々が次の世代の生活を確保していくという、ここから議論を始めようといって、実はこんなものを今、提案しています。赤坂さんは賛成してもらえますかね。
(赤坂)例えば山形ですと、市街地から15〜20分走るとこういう環境の中に入れるのです。仙台でも1時間だと思います。たぶんそれはヨーロッパの都市にはない日本の都市の魅力だと思います。  つまり、金沢がどういう状況かわからないのですが、すごく自然に近いのです。やろうと思えばいくらでもこんなことができますよね。それがいいのかどうか、僕にはわかりませんが。里山というと、あこがれの対象になっていますが、里山とのつきあい方を我々は忘れてしまったわけだし。
(大内)それが問題なのです。
(赤坂)結局そういうことですよね。
(大内)しかし、赤坂さんがやっているような仕事の中から僕らはどこかヒントを得なければいけないわけです。もちろんあの縄文の時代に我々の生活そのものをタイムスリップさせることではないわけですね。
(赤坂)そんなことは考えないです。
(大内)それは一方で何か非常にひもじい思いをしなければいけないし、さまざまな病気や害虫とも共存しなければいけないということを前提にしなければいけないわけで、それを考えているわけではないのです。しかし我々は、わずか数百年というよりももっとロングタームに考えた人間の、町、集落、あるいは生活の中にヒントがあるのではないかと。歴史こそ未来を考えるためのヒントがそこに隠されているのではないかということで、今、こんな提案をしているのです。
(赤坂)いろいろな発想、考え方はあると思います。ある人は、例えば山形全県を博物館にしてしまおうとか。たぶん今はそういう時代になりつつあるのだと思いますね。世の中はずいぶん変わってきましたし、伝統的な村はもうほとんどないわけですし。


<人口が急減する>
(大内)これで最後にしますが、もうひとつ皆さんに議論を挑発したいのは何かというと、赤坂さんにまた少しコメントももらいたいのですが、赤坂さんの本によると縄文から弥生の時代は人口がすごく少ない。縄文期の日本の人口は、数十万人。
(赤坂)5000年前で30万ぐらいだと思います。
(大内)そして弥生後期になって500万ぐらいに増えたのですか。
(赤坂)50万、100万、弥生は100万ぐらいだと思います。それからどんどん増えますね。そして、古墳時代になって500万を超えます。
(大内)これは国土庁の第三次全国総合計画をやったときに、最初の一般に配った報告書には載っていなかったかもしれませんが、一部の専門家向けの報告書に図7が載っています。
○大宝律令のころ、人口は600万人くらいです。平安遷都から鎌倉の成立、室町の成立、それから関ヶ原に至るまで、日本の人口は大体トータルで1000万人を切っていました。そのあと、江戸時代、いろいろな飢饉もありましたが、ほぼ江戸時代は3000万人ぐらいの人口で、実は3倍に増えている。  そのあと、問題は我々の生きている時代ですが、大政奉還が行われて明治となって、この2000年までの間に日本の人口は4倍近く増えています。図をお見せするとびっくりされると思うのですが、実はこれが事実です。これはちゃんとメモリは100年単位 で均等にとってあり、こちらも1000万からほぼ均等にとってありますからこういう図になります。  逆に言うと、今、赤坂さんも僕も、そろそろ歴史の流れ、あるいは我々のいろいろなビジョンを方向転換しなければいけないと言っているのですが、その意味はこういうことなのです。僕たちはいろいろなかたちでこの20世紀のカーブ、人口が3000万人から1億2000万人ぐらいに伸びる、ここに合わせて、例えば経済のメカニズムやさまざまな国・地方の財政システムなど、いろいろな制度を作ってきてしまった。ですから、私は今、建設業界にわりに近いところにいますので、悪口を言うわけではありませんが、日本全体で60万近い建設業があるというのは当然のことなのです。つまり、これだけのスピードに対応するためのことをやってきたわけです。必要だったからやったのです。問題は、これから先どうなのかということです。
○驚かないでいただきたいのですが、次の100年、点線のようになってしまいます。少しショッキングかもしれませんが、人口問題研究所の予測では、1900年時点での出生率、1人の女性が一生に子どもを生む数は5人を超していたのですが、現在は1.3人ぐらいまで落ちてきています。それを前提にしますと、2100年、今後100年のうちに人口は、高位 推計・中位推計・低位推計といくつか推計がありますが、大体6000万人のレベルに落ちるのです。ということは半分になるということです。  問題は、この20世紀に大きく増えた人口はどこで吸収したかというと、ほとんどが東京圏と大阪圏です。ちなみに石川県はどうなったかというと、石川県の1900年あたりの人口は70万人ぐらいあったのではないかと思います。今は120万ぐらいですね。ですから、石川の場合には、これはほかの北陸の県は大体そうだと思いますが、この首都圏がこういうとんでもない人口増加への対応をやっている間に、北陸などの場合、大体5割増しぐらいのスピードでは増えました。逆に言うと、5割増えたぐらいに合わせて仕組みができていますから、落ちるのもそんなにすごい勢いで落ちる可能性はない。  私は今、東京都庁の連中と議論しているのはとんでもない話で、多摩ニュータウンは雑木林に早く戻そうという話をして少しひんしゅくをかっていますが、かなり真剣に私は言っているつもりです。そんなことをしないといけない。もちろん住む家のスペースを倍にしてもいいのですが。だから全部が悲観的な話ばかりとはいえませんが、しかし明らかに、これからの社会のトレンドは方向を変えなければいけないということを表していると思います。お聞きしたかったのは、今までこういうことはないですよね。
(赤坂)ないですね。未曾有の体験ですよね。人口が増えるということは生産力も高まるという前提ですべてが設計されていますから、我々はこれからどういうふうにいけばいいか。この右下がりの減っていく社会の仕組みを変えていかないともたないと思いますね。そういう意味では、1990年代にいろいろなことがありましたね。21世紀の冒頭、9月11日にビルが一瞬にして消えていくのを我々はまざまざと見たわけですね。価値観の転換を迫られますね。  僕は、グローバリゼーションというのがもう終わるのだろうと、ある部分では思います。経済は確かに世界的な流れの中で動いていくのは当然だと思うのですが、そうすると逆にせり上がってくるのが、地域であり民族であり宗教だと思っています。その不幸なかたちがイスラムに出ていますが、我々の身近な問題でいえば地域だと思います。グローバル化が進めば進むほど、その地域に生きるアイデンティティが深刻に問われていくし、世界に出て行ったときに、自分の生まれ育った土地の文化や歴史をきちんと語れない人はばかにされますよね。みんな背負っているわけですから。
(大内)グローバリゼーションというと、英語が話せればいいとか外国の文化のことを少し知っていればいいという誤解がまだ若干ありますが、自分たちの足もとについてきちんと語る、あるいは自分たちの足もとの記憶についてきちんと押さえることが本当はグローバリゼーションなのでしょうね。
(赤坂)だから今、日本全国で地域学が非常に盛んになっていますね。僕自身も「東北学」というのを立ち上げて10年近くやってきて、結構、東北のイメージが変わってきています。東北の人たちが元気になってきていますよ。ぜひ「金沢学」も。

<地域の語り部を増やそう>
(大内)そう。それで「金沢学」をこの創造都市会議で実は立ち上げたいと思っているのですが、その注意すべき点というか。「東北学」というまさに挑戦的なものを立ち上げられて10年という赤坂さんの今までの話はわかりましたが、それを前提に注意事項というか、ぜひこういうポイントは見逃すなとか、何かアドバイスをいただけますか。
(赤坂)偉そうなことを言うつもりはないのですが、お国自慢ではだめだと思うのです。しかし、静かにきちんと自分の地域のことを語れるということは大切だと思うのです。そういう人がいますよね。そういう話を聞いていると、例えば「金沢っていいな、行ってみようかな」という気分になる。お国自慢ではなく、自分の生まれ育った土地の歴史・文化・風土を静かに肯定しながら、それをきちんと言葉にして表現できる。僕は「地域の語り部」と呼んでいますが、そういう人たちが増えることによって変わっていくのかなと。  地域学、例えば金沢学というのも、そういう地域の語り部を育てていくことが最大のテーマなのかなという気はします。具体的に何をやるとか。別 に縄文をやる必要はないのです。東北にとって縄文は決定的だと思いますが。
(大内)おもしろいなと思うのは、そういう東北学を始めた赤坂さんは、お父さんは福島の方かもしれませんが、東京からある意味で入っていった、山形にとってはよそ者ですよね。それが始めた東北学が今、東北の人たちに関心を持たれ、そしてある種の元気をつけていくというのはすごく示唆的ですね。
(赤坂)旅人の方が自由にものが言えるのです。しがらみから切れていますから。そして、地域が旅人とかよそ者とかをうまく活用できるほどしたたかになることが大切だと僕は思います。拒絶するのではなくて受け入れて飲み込んで搾り取って放り出せばいいのです。僕はそのくらいのしたたかさを地域社会は持たなかったらだめだと思っています。お人好しにやっていてはだめですよ。
(大内)逆に言うと、それで消えていくような地域の文化はもう生命力がないのだと言われてもしかたがないかもしれない。それほど地域とか文化というのはしたたかでなければいけないということですね。今日は1時間半も皆さんにおつきあいいただいたのですが、たぶんこれが結論にあたるのではないかと思います。  考えてみれば、伝統自身はそれが生まれたときはすごく前衛的な活動だったと思います。古いものを守るということではなくて、それと新しい試みとのいい緊張関係の中で、次の世代に残すべき価値が生まれていくのではないかと思います。  今日、幸いにも、ある意味ではそういう議論をするのにものすごくふさわしい場所を対談の会場に選んでいただいたことを、僕は感謝しなければいけないと思っています。ある種の非常に古い価値があるところで新しいものに挑戦していく、そういう場所を金沢の人たちが提供されているのをうらやましい話だと思います。  東京やニューヨークが新しいものに挑戦する、特に東京のようなほとんど古いものの残っていないところが新しいものに挑戦することと、金沢のような歴史都市が新しいものに挑戦することというのは、全く意味が違うということをぜひわかっていただきたいし、そういうことに私は外の人間としてものすごく期待をしているということを、最後に申し上げたいと思います。  まとめにならないようなまとめになってしまったのですが、今日は、縄文の話、東北の話、いろいろな話が聞けて大変私自身も勉強になりました。このあと金沢の地元のふるさとの味を皆さんと一緒に賞味することになっております。私たちも残りますので、皆さんとの質問等々のやりとりの時間は意図的にとらなかったことをお許し願いたいと思います。長時間にわたりご清聴いただき、ありがとうございました。