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<分科会D 発言録>
[小林] 西洋の物理化学を遊びに持ち込んだ大野弁吉。
[松岡] 金沢は、中間のゾーンにいろいろなものを置こうとしている。


(林)ただいまより分科会D「金沢のあそび」を進めさせていただきます。この分科会のテーマと趣旨は、人はあそびの中で創造力を解放します。金沢人はどうあそんできたのか、あそびの中で何を創造したかを考えます。そして今、金沢人は真剣にあそんでいるかを問い直します。この趣旨で対談を開始します。
(小林)私は昭和46年に石川県の歴史博物館、前は四高のところにあった郷土資料館に入り、学芸員を18年やって、その後、国立の歴博に行きまして民俗研究部に属しました。そもそも歴博に行った理由は、私は昭和52年ころから金沢という町のFolklore(民俗)を何とかしようと調査を始めました。1970年代の前半のころから全国誌として「柳田國男研究」という雑誌が出て、その中の2号か3号に國學院大学の倉石忠彦先生が「団地の民俗」というものをお書きになりましたが、これが非常に注目を集めた論文でした。短いものでしたが、それは長野県の上田にあるみすず台団地というところにたまたま倉石夫妻が住んで、団地の中に民俗がどう生きているのかを探ろうとしたのがこの論文の趣旨でした。その後、現代民俗というさまざまな社会現象を捉えた研究が立ち上がってきます。  我々の日常生活の中では、生活文化として新たに生まれてくるもの、あるいは少し古いものを引きずっていくようなもの、例えば東京の浦安あたり、山本周五郎の「あおべか物語」で有名な漁村だったわけですが、ここはあっという間に埋め立てされ、たくさんの団地、集合住宅地ができる。ところがこの団地があるときから、住民の結束力を図るために、祭りを行うことになった。祭りというのはどうしても地域住民にとっては何らかの心のよりどころになる、結束が図れるようなイベントです。そして、江戸時代から続いているような非常に古い形式の祭りが、団地の新しい祭りの形態として持ち込まれました。そうした傾向はおそらく金沢の新興住宅地の場合にも、多々見られることだと思います。また最近では、子どもを産めず、やむをえず流してしまう場合の水子供養が、全国的に新たに復活しているという現象があります。このようなさまざまな民俗現象が増えてきているわけです。  柳田國男によって、民俗学が立ち上がったわけですが、従来は基本的には農山漁村、いわゆる民衆もしくは庶民の生活文化を扱うということでした。しかし一方、日本の都市は、京都と奈良は別 にして、大半が近世城下町です。江戸時代に入って整備されていった城下町が全国に250〜300ありますが、それくらいのスパン、つまり300年という期間で城下町がつくられ、そこに都市という農村とは違った異質な社会が実現しているわけです。ここには明らかにその300年間で培われた日常生活、文化、生活慣習、しきたりがあるはずだと。ですから、日本の都市を考えるときには、日本の都市の300年、あるいはもっと前からかもしれませんが、いずれにしても農村とは違った異質な都市の社会が作り上げてきた生活文化、民俗文化が何なのかを明確にしていかないと、日本の都市の将来が見えない。あるいは、金沢という固有の都市の文化を金沢らしさとして確定していけない。その辺が大きな問題だと私は考えています。  その意味で、都市民俗学という新たな民俗の問題を扱う場合、どちらかといえば従来の民俗学手法の中で都市民俗の本質部分を明らかにするのが、私がここ数年やっているテーマです。これまで金沢を中心にして全国の都市を回りました。その結果 、松江、岐阜、会津若松、盛岡など、いわゆる日本の代表的な城下町はある意味では共通 したものをみんな持っているのですが、必ずしもそうではない、やはりその地域が持っているまさに都市民俗というのがある。  しかしずっと回ってみて気づいたのですが、金沢はそれが非常に濃いというか、生活文化の非常に細かいところに、実に都市的なものを持った民俗がたくさんあることに気づきました。これはよその都市を回ってみると比較にならないくらい多い。これは何だろうと今、不思議に思っています。  私の恩師で、ずっとお教えをいただいた宮田登という先生がいます。筑波大学から神奈川大学に移られて、残念ながら2年前に突如、亡くなられまして非常にショックを受けているのですが、宮田先生が何回か金沢に来られて話をされていました。「金沢は特別 だ」とおっしゃるのです。何が特別か。全国の都市にもない民俗の伝承が非常に豊富にある。江戸ももちろん文献的にはありますが、実態として残っているものはあまりない。これは何だろうかとやはり思わざるをえないわけです。  今日はそのことを少し念頭に置きながら、具体例を出させていただきます。1つには金沢の歳時記、春夏秋冬、一年間、この一年間の生活文化、生活サイクル、これが実にうまくできている。さまざまな仕掛け、さまざまな特徴を持った営みのあることがわかります。中でも私が注目をしたのは、やはり風土と深くかかわっているもの、自然環境とかかわっている行事がいくつか見られることです。  例えば春という時期、これは長い冬の間、寒かった。最近では雪は降りませんが、金沢の人はやはり雪が降っている間はあまり外に出たくない。今では「克雪」と言って雪から解放されて何かをやろうという動きがたくさんありますが、それは抜きにして、長い寒い冬を過ごして春になったとき、金沢の人たちの一番の喜びはやはり外に出ることだったと思うのです。金沢では正月に凧揚げをすることがあまりなかった。江戸時代も凧揚げはなかったわけです。そして明治、大正、昭和くらいまでは、金沢では3〜4月に凧揚げをしました。この凧揚げは「いか揚げ」と言ったそうです。「いか揚げ」と言って凧揚げをしていた。今、内灘の方で盛んに凧揚げのイベントをやっていますが、あれはすごいと思って拝見しています。いわゆる伝統文化として、春に、ちょうど東北からの「あいの風」が吹いて、非常に冷たいけれども快い真っ青な空の上に揚がっていく「いか」、これに喜びを感じていたということがいえます。  さらに、4月から5月にかけての時期に、加賀藩時代からそうなのですが、「浜あそび」というのを藩士の人たちがやっていた。「浜行き」ともいいますが、天気のいい日に海岸へ行ってお弁当を食べたりお酒を飲んだり、女の人は波打ち際で貝を拾ったりした。これも一日家を出て、当時はテクテク歩いて海岸まで行ったのだと思います。そういう「浜あそび」が江戸時代にずっとあって、それが明治以降、庶民の世界も含めて継承されていった。  その辺の文化ストック、つまり、金沢の人が春になって浜へ行くという生活慣習を利用したのが、粟崎遊園地だったのです。あれが昭和の初めから終戦の年までありました。今、県の歴史博物館に展示されているので、ご存じの方も多いと思います。これはもちろん、阪急電鉄の宝塚の小林一三の方法をまねたといわれています。それは少女歌劇、レビューというものも含めてやっていた。近代のレビュー文化を非常に早い時期に展開している。調べてみると北陸にはもう1つ福井の駅前の近くに、だるま堂という百貨店があって、ここでも少女歌劇、レビューが行われていたと聞いています。時期的には向こうの方がもう少しあとかもしれません。福井大震災で百貨店が崩壊して、それで止めている可能性があります。  これらが春のあそびですが、5月に入ってくると金沢では能楽が盛んです。野村万之丞さんも昨日来られましたが、実は金沢の能楽は一種の武士のたしなみ、あるいは町人のたしなみという世界だと思うのです。いろいろなところで謡をうたう機会がある。そもそも金沢の謡というのは、前田利家・利長の初期の段階は金春流で、その後宝生流に替わってきます。金沢の大野湊神社で寺中の能が今でも行われています。5月15日です。かつて5月の1日、2日には卯辰山観音院の神事能があった。これは明らかに武士がやるのではなく、町役者といわれる町人が能をやる。前田綱紀の時代ですが、町役者を育てるというかたちで、町役者の能があって、それが卯辰観音院(長谷観音院)のところで町の人たちがお金を出して能をやらせるということだったのです。寺中の能にもまさにその辺の性格が残っています。  大野湊の寺中の能の場合にはこんな伝説があります。利家が敵に追われて逃げ込んだところが大野湊神社だった。そこで神に助けられて命が助かったところから、能を奉納するようになったという伝説です。本当かうそかはわかりませんが。一方の長谷観音院の能は250年続いて結局止めてしまったわけですが、能自体も町民がやっていくという部分があった。まさにそこに金沢人のたしなみという世界が見えてきます。  その能はどこで謡われるのか。例えば7月1日に、氷室まんじゅうを食べる氷室の行事があります。「氷室の月日」といいますが、このときには必ず氷室会という能楽が行われました。浴衣を着て謡をうたう謡の会が恒例としてあったのです。  さらに民俗的な事例でいうと、金沢には「から蒸し」というごちそうがあります。結婚式のときに鯛のお腹の中におからを詰める。おからを詰めるというのは大変質素な武士の料理だろうと思います。これは武士のまさに質素倹約の世界を感じるところがあります。その「から蒸し」を、謡が終わるまでに、亭主は宴会の列席者の人数分に切り分けて、それを小皿に盛って渡すのが、金沢の結婚式の「から蒸し」の習慣でした。これは今伝わっているかどうかはわかりませんが、少なくとも戦前まではそのしきたりが行われていたことは確かです。そういう席上でやはり謡を謡うということ、しかも「から蒸し」を切ることが儀礼化されている。それが定まっている文化、これはまさしく私はたしなみの文化だろうと思うのです。  9月になるとお月見があります。お月見には、例えば家柄町人といわれる旧藩時代の町人が、新制になっても残っているのが尾張町の界隈です。あそこの上田商店のお宅の屋根の上に、ガラスの明かり取りのようなものがあります。あれは「月見楼」と言うそうで、少し前までそこでお月見をしていたわけです。狭い空間でしょうが、そこに芸子さんを呼んできて、月見の宴をするといったようなことが過去に行われていた。つまり、こういう町中で、一番空に近いところ、最上部で月を愛でるという感覚、しかもあそびを伴っている。これも考えてみると、町の旦那衆という人たちの優雅な季節のあそびとして、あったことが考えられます。  また金沢の方はある程度ご存じだと思いますが、戦前から戦後まもなくにかけて、金沢には番町会という旦那衆の集まりがあった。西川外吉さんとか直山与二さん、あるいは福光さんたちも入っているのでしょうか。毎月持ち回りで茶会をやる。また、芸子さんの中でもひいきの特別 な人を呼んできて、宴会をやるのを慣例としていた。そういう意味で金沢の経済人の人たちのあそびは、もっときめの細かいところまで行き届いていた。そういう文化も私は金沢という町の一種のたしなみの文化として感じられるわけです。  女性の世界にもあります。例えば9月1日に、お花揃えということをやっていた。これは現在もたぶんやっていると思われます。東別 院のところで華道の人たちがお花の展示をやるのです。私は中でも加賀古流という活け花、これはまさに茶道と非常に結びついていると思います。つまりお茶花という世界です。茶席と非常に関係が深い。古流はもちろん江戸で始まった流儀で、江戸時代の天明年間でしたか、加賀にこれがいいと殿様が持ち込まれた。むしろ江戸では廃れてしまって加賀に残ったという大変な華道です。  その華道の花は茶花ですが、別に床の間に生けるわけではありません。お勝手口のところにちょっとさす、あるいは井戸などにさりげなく生けてある。これもたしなみだと思いますが、金沢の町の商家のちょっとしたところにきめの細かい、自然をうまく使いながらその辺の野草や庭の一部にあるものをさりげなく生けるという慣習、これがすごいところだと思っています。  どうでしょうか。そのようなことを金沢で感じているのですが。例えば京都あたりと共通 しているところがあるでしょうか。

(松岡)相当共通しているのではないでしょうか。京都と金沢を比較した方がいいかどうかはわかりませんが、その辺から話をすれば、京都の文化はかなり金沢に入っていると思います。最初に僕が感じている違いを言います。公家の文化が京都にはあって、有職故実、平安時代からずっと続いた四季折々のたしなみといえばたしなみ、約束といえば約束、縛りといえば縛り、うるさいことといえばうるさいこと、そういうものがかなり天皇家や摂政家や関白家があったり女房文化もあったために、公家の中で相当なことが行われています。今でも冷泉家はそれをやっています。それではない京都文化、あるいはそれを加賀の商家、町人や武士がおもしろくアレンジしたものと見ると、金沢は急速に浮上してくるのだろうと思います。もちろん全く公家がいないとは思いませんが、金沢にはほとんどないと言っていいくらいです。そこがどのように切り替わったのか、トレースされたのか、転写 されたのか、コピーされたのというのが、まず僕が金沢に詳しい方に聞いてみたいポイントの1つです。  今おっしゃったの例えば凧揚げを「いか」と呼ぶというのは、完全に上方です。アフガニスタンは毎年どんな季節でも子どもたちが凧を揚げているようですが。蕪村に「いかのぼり」という句がたくさん残っているように、上方では「たこ」と呼ばない。「いか」なのです。だから「いかのぼり」と言ったりしています。それを含めて今の氷室の7月1日、お月見はもちろんですが、大体「月並み」と呼ばれている上方あるいは京都の行事と対応しているのではないでしょうか。  ただ、旦那衆がどういう好みを持ったのかというのと、金沢という町がどういうお店を作ってきたのか。遊郭を含めてですが、正確にいうと「たな」という文化をどう作ってきたのかです。大店(おおだな)の「たな」、「店揃え」の「たな」です。今では「店」という字を書きますが。あの「たな」と、七夕の「たな」はもともとは同じです。今のユニクロ、あるいはブティックと同じで、棚を置いてそこに何かを置くわけです。それがお供えであったり、お客さんへのお招きの印であったりするわけで、金沢の「店(たな)文化」がどうだったのでしょうか。結構、京都とは違うものがだいぶ出たのかなという気がします。  1つお聞きしたいのは、金沢では江戸文化と京都文化はどのくらいのプロポーションで入ってきているのですか。
(小林)よくいわれているのは、近世初頭、つまり城下町をつくって3代目の前田利常。彼は基本的には京都の文化を積極的にかなり入れたわけです。これはもちろん技術者を入れるという発想とモノ(器物)を持ち込むという発想です。歴史上では多分にその要素はあるのですが、金沢の町自体は必ずしも京文化一色ではなかったという気がします。
(松岡)町割はどちらかというと江戸っぽいですね。
(小林)そうです。それで、例の金沢工業大学に前おいでになった島村昇先生の話だと、文化文政あたりに、急速に金沢の住居等は、それまでの京間を中心にした間取りが江戸間に変わっていったと。その頃からだいぶ江戸が入った。参勤交代というのは文化伝播としては結構大きいから、参勤交代によって江戸を持ち込んでくるというのはかなりあります。  たしか金子鶴村という鶴来出身の漢学者がいて『鶴村日記』というのがあるのですが、あれを見ると江戸の情報をたくさん書いています。橋から大量 に人が落ちて死んだなどと書いていて、江戸への関心がすごく強い。  これは前のプレシンポジウムのときにも申し上げたのですが、金沢の軍略者で有沢武貞というのが江戸から来て、金沢の城下の地図を作ったりするのですが、彼は「金沢は小江戸」だと表現している。小さい江戸です。ですから、金沢には江戸的なものがかなり含まれている。それはもちろん全体の都市空間構造を見ると八家を中心にした家中町(かっちゅうまち)が周りを取り巻いている。家中町は江戸でいえば諸国大名が取り巻いているのと同じ構造で、ある種の同心円構造と私どもは考えています。ですからその意味での江戸性は、京都のような碁盤の目の形ではないということからもそう言えるのかもしれません。しかし明らかに、江戸後期あたりから急速に江戸的なものが増えたというのはあるのではないでしょうか。
(松岡)おそらくその後の金沢にとって大きいのは、もともとは京都文化をモデルにしながらも文化文政期くらいから、江戸社会や江戸の風俗や江戸の感覚を受け入れていたとして、明治あたりでそれをどうしたかです。というのは、例えば粋(いき)ということをあそびとして考えてみると、粋(いき)の感覚は上方と江戸では全然違うわけです。大体、京都では粋(すい)といいます。粋(いき)と粋(すい)とは少し違う。  金沢がそういうものを江戸末期から明治・・・。要するに明治というのは小唄ができてからです。小唄というのは皆さんどう思われているかわかりませんが、ほとんど明治に作られたものです。あれは近代のモダンな感覚で、全部作曲し直して、ショートカットして、ちょうど今のポップスのような格好でほとんど芸者さんが中心になって作ったわけで、そこにプロが加わってプロの作詞作曲家もできるわけですが、ほとんど現場から生まれているものです。明治の小唄の歌詞を聴くと、大体明治にどういう粋(いき)なものをその町が作ったのかがわかる。  例えば僕は桐生という栃木県の町の、繊維が盛んだった明治のころの歴史を向こうの方と一緒に調べたり学習したりしたことがありますが、やはり当時の繊維の感覚や、渡良瀬川について詠んでいるものがたくさんあるわけです。その辺がどうだったか。要するに京都的なもの、江戸的なものを明治の金沢が小唄あたりでどのようにうたっていたか。かなり粋(いき)は粋(いき)でしょう。金沢も。
(小林)そう思います。ただ、「いなせ」という感覚はあまりないと思います。粋(いき)は粋(いき)だと思います。
(松岡)「いなせ」ね。伊達はどうですか。
(小林)伊達は、言葉そのものはあまり聞きません。
(松岡)粋(いき)に対してだめなものは野暮というわけですが、野暮という感覚は残っていますか。
(小林)ないです。
(松岡)粋(いき)だけがあるのですか。
(小林)粋というか・・・。よくいわれているのが、江戸後期に黒羽織党という若手の藩士の。あれはやはり黒い羽織を着て、黒染の羽織は憲法(けんぼう)染めという京都の染め技術が入ってきて初めて成り立ったものですが、あれを着て市中を闊歩するという粋さ加減、つまり黒を基調とした、そういう粋があったように思います。もちろん、金沢には芝居と遊郭、芸妓さんの芸術といった歌舞音曲の世界がありますから、その中にも当然、粋というのはあると思いますが。
(松岡)それを江戸のように悪場所として、金沢では取り締まったのでしょうか。
(小林)そうではないと思います。
(松岡)では、遊郭やお芝居小屋はわりと自由に前田さんはやらせた。
(小林)そうです。ですから、犀川と浅野川の向こう側にそれぞれもっていくということで処理されています。
(松岡)そうすると、よくわからないですが、金沢のよさはたくさんあるのに・・・。おそらく皆さんがもっと金沢をおもしろくしたいと思うのになかなかならないので、こういう会議がずっと続いているのだと思いますが。  江戸は結構タブーを作っているわけです。タブーを作って戒めたり掟にしたり、さらしものにしたりしている。そうすると、タブーになった側がもう一回挑戦をする。例えば江戸の火消しは武家の火消しと町人の火消しがあった。最初は武家でやって、町人にはやってはいけないとしていた。しかし、町はどんどん焼かれるから町人も何とかしたいと。町人はこういうことで火消しをしなさいというものすごいタブー、ルールをたくさん作った。そういう中で纏なら纏しか許されなくなってくると、纏にものすごいデザインが出てきて競い合う。今度は、纏では火の中に突っ込めませんから、「臥烟(がえん)」というのですが、「がえん」の連中が階層と階層の間に出現して、水を真っ裸になってかぶって、簡単にいえば消防士としての火の粉をよける衣を持ってだっと走るだけなのです。しかし、それしかやっていない連中が、衣をどうデザインするか。また真っ裸だからどうやって倶利伽羅紋紋を付けるかで競い合って、江戸の入れ墨がものすごく栄えるわけです。  のちになると火消しよりも、「がえん」の方が力があって、粋筋の江戸の料亭などは、「がえん」さんが来ると「どうぞ、いらっしゃい」ということで、お金を取らなかったのです。そのように、ある意味では江戸という社会は、派手なものとタブーとが組み合わさっていた。もともと悪場所を禁じましたし、方位 を相当言いました。上野の寛永寺のように、江戸から見てどちらの方向に何があるかを盛んに問題にした町です。京都も比叡山に鬼門があるのですが・・・。だから秀吉が阿弥陀ヶ峰に自分の墓所を作らせるにあたって、どういう風水というか鬼門よけをやったかが今盛んに問題になって、それを岡野玲子とかが今やたらに解読しています。僕などにもしょっちゅう電話が来て、「ここでどういうことが起こったのか」とか、「陰陽師は何をやったのでしょうか」などと、電話で聞くなよということを突然聞いてきます。  ただ金沢は僕はあまり詳しくないので、お聞きしたいのは、そういうタブー、方位 、階級というよりも階層、芸者さんと仲居さんの間のような、「お茶っぴき」と江戸では言っていたのですが、そういう2つしか認めないとなると、間の、例えば夜鷹のような人がまた出てくる。こういうことが起こったかどうかが、金沢の活性と非常に関係があるように思うのですが、どうですか。

(小林)お稽古ごとの世界は、茶道もそうですし、俳句であったり、華道であったりいろいろします。舞踊も非常に盛んです。また長唄、小唄も、これも女性がもちろんそうです。江戸は田中優子さんの本を見ると、三味線が江戸にはやって女性に普及したと書いていますが、あの江戸と同じようなところがこの金沢の場合、多少あるのではないでしょうか。
(松岡)江戸で三味線が女性にはやったのも、基本的には蔑視なのです。文化やあそびは「いいですよ」と言ってもはやらないと思うのです。「あんなものはだめだ」と言われないとタケノコ族もガングロもできない。だから、あまり認めてしまうとあそびの文化もおもしろくないと思うのです。  例えば田中優子にも言ったのですが、江戸の女性が三味線を弾いていったというのも、大体、三味線は盲目の社会が生んだ文化ですから、なぜあんなものを弾くのだというものなのです。だから、男はそんなものはやるわけがない。男の式楽は能楽ですから、大皮や鼓や笛は吹きます。琵琶になるとまず盲目です。三味線は当道座がやっていたわけです。そういう人たちが結局、上方で文楽を起こして大ヒットするわけですが。  よく知りませんが、金沢はある意味ではすべてを認めすぎているのではないでしょうか。これはだめだと。例えば香林坊で赤はだめとかにすれば、赤というものに工夫が出てくる。そのタブー、限定。紫はこうで赤はこうで緋色はこうで朱色はこうでというようなランキング、あえてそれをやることが、これからもう一度あれだけの加賀百万石の文化を活かすことになると思うのです。そのままではなくて、少し縛っていくようなところが必要なのではないでしょうか。京都はそれが有職故実として、縛りが効いていたわけです。やってはいけないといった方が多いくらいで、あれは何をやりなさいという文化ではなくて、何をやってはいけないという文化です。  私は京都の呉服屋のせがれに育ったのですが、一年中やってはいけないことがたくさんあるのです。例えば、またいではいけないところ。それも啓蟄、要するに6月になってからやってはいけないことと、その前はやっていいこと。例えば切れるもの、はさみとか紙に関してはこうしなければいけないなどと、しょっちゅうあってうるさかったです。しかし、そういうある種のルールと縛りと、それからの抜けがあそびを作るのです。  わっと認められたあそびではなくて、縛られてから抜けていくあそびのすごさというのが、僕はこれからあっていいように思います。そうすると自由ではないようにみんなは思われるかもしれませんが、それはないのです。要するに学校で制服しか着てはいけないというから若い子のファッションが伸びるわけで、自由にさせたら若い子はブランドにいくだけです。靴下はこうでなければいけないと決めるので、ルーズソックスが生まれる。僕らが逆立ちをしても世界中が発想できない発想をするわけです。だから、金沢もあそぶためには掟を持った方がいいのではないでしょうか。
(小林)お聞きしていると、わりと金沢というのは、私の見た感じでは、江戸時代に成熟した社会、成熟都市という感じがするのです。
(松岡)そうか、なりすぎたのですね。最初から早くに。
(小林)完成度の高い。
(松岡)あとは後家さんになるしかない。
(小林)そこが逆にいうと、先程言ったように、たしなみというきれいごとのかたちで全部凝縮されてしまう。日常生活の中でごくあたりまえにあそびを作ってしまう。だから何の疑いも持たないし、そこに自由性があるように見える。それはある程度の優れた芸能まではいっていると思いますが。その先はとなると、なかなか次の一手が出てこないというのをちらっと感じます。
(松岡)それは、今の情報社会が同じなのです。インターネットでウェブ状態になって世界中の情報が全部入ります。僕も先程ご紹介があったように、ホームページではなくてバーチャルカントリーを作っているのです。そういうのもいろいろテストをしたり、国立図書館が電子化する全体のプランなど、いろいろなことをやっています。そこで何が難しいか、なぜビジネスも起こりにくいかというと、差別 がないということです。いい意味でも悪い意味でも非常にフラットでフリーでフレキシブルなわけです。インターネットというのは大体そういう壁を作らないとなっているわけです。だからこそ、コンピュータウィルスがどんどん走っていけるわけです。  何でもできそうだからいいように見えるのですが、偏りが起こらないし、信頼しているものと信頼できないものの区別 がつかない。例えばポルノがあって、仮にこれはよくないとしたとしても、だんだんここはやばいという感じではない。突然ずばっと出てくるわけです。例えば、町で言う界隈のようなものがあって、あの辺に行くと怪しいネオンがあるとか、お姉さんがこうなって歩いているとか、男なのに女の振りをしている人が銭湯に出入りしているなどと、大体わかります。しかし、インターネットはその気配がないのです。界隈がない。だから例えばブラウザは別 の会社が作っていて、それでネットスケープやエクスプローラを使いましょうと。そうすると例えば町に出ていって、情報の文化を手にしたいというときに、どんな洋服を着て下駄 や雪駄を履いているか、あるいはスニーカーで行っているかという、自分の条件が問われないのがインターネット社会なのです。だからよかった。  ところが、ここから文化を生もうとなると、全然そういうなりふり・眺めがないのです。僕は文化やあそびはなりふり・眺めだと思っています。そういうなりふり・眺めが作れない文化はだめなのです。金沢でもあの辺に行くとこういう感じで、自分はそこへ行かなければいけないと思えるから、文化というものは交通 が起こり交換が起こるのです。ここに何がありました、この時代に何がありました、能はこういうことがありました、金春流よりも宝生流がはやりましたというところが大事なのではなくて、そこにはどういうなりふり・眺めが町の中に登場してきたかなのですが、それがインターネットにはないのです。  これを作った方がいいと僕はわりと世界中に呼びかけ始めているのです。要するに癖のあるブラウザを作れと言っているのです。例えば司馬遼太郎が好きな人はどうやっても司馬遼太郎っぽいブラウジングしかできないとか。山口昌夫風なら山口昌夫風がいいと。  例えば、こういう話をすると非常にわかりやすいと思いますが、ビル・ゲイツがほとんどこういう世界を作ってしまったようなものです。ビル・ゲイツの家は今のアメリカ建築法からいくと、大きい家が作れないので3棟並んでいるのです。しかし、地下でつながっていて、そこに大体200〜300くらいだと思いますがディスプレイがある。まだ20代の後半だったビル・ゲイツが、暇なときには目を血走らせて、それをらんらんと全部見ているのです。つまり、その時代はすべてのものを同時にフラットに見るということがビル少年の興奮で、今のプレステ、ファミコンを子どもたちが5〜6台、一緒にやっている感じで、マイクロソフト帝国は生まれているわけです。  金沢や江戸や京都などがこれから21世紀のあそびの文化を議論しようとしたときに、アイテムとしては何がいいかはたくさん言えると思うのですが、僕は現代ではこのアイテム、能がいいとか、俳句がいいとか、染めをやったらいいとかというだけではだめで、どのようにアプローチしてそれをストックして、ネット的に言えばストレージして、このテーマが記憶であるように記憶に入れて、ストアを知って、それをもう一回再生をしてプレイをするか。そういう仕組みを加えないと、21世紀というのはあそびも文化もばらけてしかはやらないように思います。その1つに掟というかルールというか、手続きの面 倒さというものが必要だろうと思うのです。

(小林)さらに1つだけ金沢人の性情に付け加えると、私はたしなみということと、もう1つには見栄とか見栄えとかいう性情があります。この場合の見栄というのは都市に住む人の本質的な性情だと思うのですが、見栄があるから逆にいろいろなファッションが生まれる。
(松岡)そうですね。見栄っ張りの方がいい。
(小林)金沢にはまさにそういうところがあると思います。
(松岡)金沢は見栄っ張りですか。
(小林)それは泉鏡花が言っています。泉鏡花は「加賀っぽは見栄っ張りだから、俺は嫌いだ」と。それで、さっさと東京に逃げ出したというエピソードがあります。
(松岡)それがよくなかったですね。鏡花が逃げたのが。
(小林)しかし、私はそうではないと思うのです。一番いい例として、獅子舞があります。これは金沢の市中は本来神社のないところで、近世初頭に寺社奉行がかなり整理をしているし、あまりそういう宗教施設をつくらせない。それは一向一揆のことがあったのでそのことと関連していると思います。  それで各町で獅子舞の獅子が神格化され、神様と同じ扱いを受けて、これを年に1回、秋祭りに道へ持ち出して棒振りをやる。あれを見ると4〜5歳くらいから青年までそれに加わり、壮年の人たちは、頭持ちといって大きな獅子を抱えて頭を振るわけです。それぞれが年齢に応じたある種の格好よさ、つまり、当時としては同じ仲間の中で獅子舞をやることによって、非常に格好いいという部分があって、その仕組は年齢階梯制になっていて、実にうまく格好よさを強調する場面 を作っていた。そういう装置が金沢にあったわけです。私は考えようによっては、そうした格好よさを自分たちが見せるという性情があった。これを考えると、もう少しそこから何か打ち出せるものがあるのではないかと。
(松岡)それはあった方がいいですね。今言われたように、年齢でそれぞれ格好が違えられるというのは、非常にあそびとか文化にとって大事です。だから獅子頭を持つ人、中に入る人、あるいはその準備のために浴衣揃えをしたときに、浴衣の模様を変えてしまうとか、文化とあそびは全部変えないとだめです。全部同じというのが一番だめなのです。だから、獅子舞にそういう見栄の違いが出るというのは、すごくいいと思います。  今、芸者さんの話などがしにくい時代になっていますが、芸者さんにもランクがないと絶対にだめです。半玉 に至るまでずっとあってはじめて、見栄があって粋(いき)にもなり粋(すい)にもなる。もともと芸者さんなら芸者さんという文化はある、しかし中は全部一緒、これでは絶対にだめでしょう。金沢は自由すぎるのではないでしょうか。
(小林)そうかもしれません。
(松岡)山本周五郎に『虚空遍歴』という小説があります。これは江戸の北沢だったか・・・、いずれにしても豊後節や何かの名人が江戸で大当たりをとるのです。しかし、江戸で当たるのではつまらないと。江戸の相当の職人が天下一は関西にあると思っていますから。江戸は徳川幕府が一生懸命職人を抱えますが、西から見ると全国規模とは思えないのです。その中藤冲也という主人公が、江戸の散散(さんざ)くらいで当たるのではつまらない、俺は西へ行くというので、唄を作りながら修業に行くわけです。ちょうどゲーテのウィルヘルム・マイスターのように。それを山本周五郎が実にうまく書いているのです。  結局、うまくいかなくて最終的には自信をなくすという話ですが、おもしろいのは、東海道、名古屋や大垣や京都や近江を回り、そして最後、越前から金沢に入って話が終わるのです。そのたびに芸風と土地の文化やあそびに対する見方、何が粋かと。例えば歌沢なら歌沢、常磐津なら常磐津で、ここが粋だというところがばっと決まっていくわけですが、それが少しずつ違うと。今でもそうです。  例えばデーモン古暮という僕の友人の話では、彼は西から必ずイベントをやります。福岡で大受けになる。よしということで広島でやると、全然受けない。それで広島流の受けを入れる。やっと完成したころに、広島公演が終わって大阪に入る。大阪では福岡で受けたことも広島で受けたこともすべてだめで、全部やり直さなければいけない。やっとその受けをつかんで京都。京都はともかく名古屋に行くとまた違うということを彼も言っていました。今もポップミュージシャンたちやみんな、吉本は大体同じでいきますが、吉本以外の芸能者は札幌公演から福岡公演まですごく工夫をしています。  例えば杉良太郎のおばさん公演ですら、同じようなせりふの中に必ずその土地の受けを入れていて、それは全国版が全部違うのです。同じように先程の山本周五郎の中藤冲也の世界も、俗曲の世界ではあるけれども全然違っている。僕がおもしろかったのは、江戸は簡単にいうと表をどうやっていくか。文化とあそびは、先程の火消しのように、歌舞伎の招きのように、隈取りのように前へ出していくフロンタリティなのです。前へ前へ行く。深川芸者がなぜ粋かというと、だれもが見える足を素足にして黒塗りの下駄 を履いて、それをぱっぱっと前で切るわけです。それを金沢から見たら、鏡花などは驚いてしまうわけです。それが前である。  それが西へ行くとだんだん内にこもっていって、京都あたりではベンガラ格子の向こうは見えないくらいに、奥まっている。うちの呉服屋の町家もそうでしたが、奥に長いわけです。「どうぞお入りやす」と言ってから、何段階かあるといういやらしい文化です。  山本周五郎が言うには、金沢の感覚はちょうど中間のゾーンのところにいろいろなものを置こうとしている。だから、唄をうたっていくと、最初の「はり」のところ、簡単に言えば江戸は「はり」なのです。はって、はって前へ出す。それに対して「奥ゆかしい」という言葉があるように、奥になっているものがある。それに対して金沢は間の文化、簡単に今風に言うとミドルウェアである。そういうことを単に俗曲の世界での受けの感覚で言っています。  どうですか。僕は、これはちょっとおもしろかったのですが。
(小林)そうですね。確かにそういう意味では非常に中間的な部分がいくつか目立ちます。よくいわれるのは、例えば加賀の衣装でも、京都の文様がまさに公家の文様を使っている。それに対して加賀はわりと自然というか、野草や野鳥を使ってアレンジするという構成がある。その違いがあります。むしろ京都の文化を受けていながら受け切れていない。
(松岡)そうですね。加賀友禅には御所解きみたいなできごと文様がなく、花などが多いのです。自然物、鳥。花鳥風月はあるのですが。御所解きのようなできごと、イベントが、はっきりはわかりませんが、おそらく少ないかもしれません。九谷もそうではないでしょうか。九谷の文様は、僕らは意匠型ではないと言います。できごと、物語が起こるように、ここに発端があって、この辺にちょんと雀が飛ぶというのではなくて、全体にきれいに文様を作る。だから九谷の文様は物語型ではないです。
(小林)私もずっと感じているのは、特に古九谷のなかでも青九谷などは、皿の全面 全部に色をつけて塗ってしまう。あれは西洋の陶磁の感覚です。特に東洋磁器の場合だと必ず間を入れて花鳥を描きますが、それを全部塗るという発想は、日本の中ではやや異例、むしろ西洋に近いような気がします。
(松岡)そうですね。文様はデルフトとかマイセンに近いです。だから京都でいうと仁清はそうです。京都の人は仁清が大事だと思っていながら、絶対に好きではないのです。金沢で今、大事なのは引き算かもしれないです。余白とか。あそびたければ、文化を創りたければ、閉めたり縛ったり掟にしたり隠したりマスキングしたりすることが重要です。そうすると物が動きますから。全部を上げようとするとだめかもしれないですね。  お聞きしていると、今までがどうもそういう歴史だったので、少し×を付けておいたり、そこは開かないという、ここに関しては1年は伏せますというところがあるといいです。文様もそうです。文様は全部タブーがあって、あるものとあるものをかけあわすとだめというような、要するに食い合わせが悪いようなものがあります。それが有職故実ではありますが、それをたくさん作っているから、その気配だけ描くわけです。例えば鷹の羽というものが、鷹がぱんと飛ぶとこちらに花籠を置くとする。鷹と花籠をつきあわせるのは紋ではだめなのです。そのかわり鷹の影や声を描いたり、俳諧や謡曲にも出したりするのです。そういう暗示をかける。そういうタブーを突破する場合は暗示に直すのです。  ですから、九谷や加賀友禅、最近のものはあまり知らないのですが、それがわりと全面 化しているとすれば、もう少し暗示的なものを作ることが必要です。暗示を作るには多少、掟やタブーが必要で、だからこそそこをちょっとのぞかせたい。ルーズソックスだけで何とかいきたい。茶髪はだめだけれどもこの辺1本や10本はメッシュにしたい。こう思わないとあそびにならないのではないでしょうか。
(小林)少し近代の新しいところの話題に入りますが、先ほどの粋の部分で確か明治2年でしたか、最後の加賀藩主の齋泰(なりやす)が金沢県を作って、そのときに江戸から加賀鳶を30名呼び寄せた経緯があり、その頃がいわゆる加賀鳶の絶頂期です。だから比較的そういうかたちで江戸から粋が持ち込まれてきたりしていて、その辺で意外なことには明治以降の金沢のモダニズムみたいなものが一方に芽生えたりしている。それは意外とすっとうまくやったのではないかという気がします。
(松岡)そうでしょう。モダニズムには金沢は強かったでしょう。だから、モダンというものは今の町を見ても上手です。今、つくられている金沢の町の古いものとモダンなものが交ざっているのは組合わさってるよさですが、そのモダンの取り寄せ方がうまいのです。ただその分、全部が少しずつモダンな模様になるので、すごく古いものや飛び抜けたものや異常なものが、交ざっていないかもしれないです。  本当にあそびや文化というものは際どくて、死ぬかもしれなかったり身上をつぶしたりするようなものは除いているのですが、モダンがうまいとすればそういうものまで全部ハンドリングできてしまっているのではないでしょうか。
(小林)たしか戦前は犀川と浅野川の橋の欄干に、ビールの宣伝のおじさんの人形があって、結構人気があったという話を聞いたことがあるのです。その人形が今札幌のビール工場に残っているとか。今その橋はきれいになっていて我々は漠然と見ているけれども、以前はきれいな橋ではなくて、だからふっと人が楽しめるようなものを橋に施したもので、そうした仕掛けをあの時代はすっとやっている。
(松岡)金沢は今、風俗営業はどうなのでしょうか。わりと取り締まりはよく効いているのでしょうか。
(小林)私はよくは知りませんが、しかし、わりと育たないのではないでしょうか。
(松岡)そんな感じですね。その辺が、モダニズムがうまくいったことの裏腹なのです。だからモダンというのは両刃の刃です。阪神モダニズムというのは阪急文化なのです。それはすばらしいモダニズムなのです。小林一三だけでなくて今日の阪急に至るまで。ところがこの阪急文化の中には、猥雑なものは入りません。それは鶴橋とか十三とかに出てくるわけです。それがまた大阪を南と北に分けたり、池田とに分けたりする。モダニズムというのはもろいところがあって、この間の池田小学校の殺害がそうであったように、怖いものに対して免疫力がないわけです。きれいにきれいにちょっとずつ。要するに考え方でいうと『細雪』の世界です。  小林先生が言われるように、金沢がモダンが得意でモダニズムの文化を明治の初期から相当入れていたとすると、際どい怪しいものをどこかに捨てた。そういう怪しいものを出せないから頑張って文様にしようとか、裏地にしようとなっていれば文化なのですが、そこまでもしやめているとすると、モダニズムというものが一方で金沢のよさを作った分、半分金沢のパワーを落としていると思います。そこあたりがこれからの議論のポイントだと思います。  僕は知らないで言っているので、わかりませんが。1つの例が風俗営業などです。あれが町にあっては困るみたいなことはたくさんあると思います。ストリップの小屋が小学校の脇にあったり、そこから100mのところにあっては困る。そういうものだと思いますが、それを何とかしようと思ったときにおもしろい文化が生まれるのです。  イタリアとアメリカとフランスの京都大学の博士課程に入った連中が、共通 に京都大学でテーマに選んだのは「東寺というお寺でなぜストリップがあるか」というものでした。留学生が3人も選んだと京大の学長が悲しんでいました。「京都の誇る今のグローバリズムの学問が、東寺デラックスなんだよ」と言って。しかし僕は「それはおもしろい」と言ったのです。そのようにまだ京都が見られるのならと。僕は京都はだめだと思っているのです。そう言っておかないとまずいのですが、今の京都には全然関心がないのです。  先程から小林先生の話がわりと伝統的な話だったので、京都はこうですという話をしただけで、今の京都はだめです。しかし、京大の留学生の3人が東寺とストリップを選んだというのは、まだ京都はましだと思いました。金沢もそういう際どいものをお持ちになったらどうでしょう。
(小林)風俗については加賀温泉が一方にあって、そのあたりでは多少とも、そういうかたちでの風俗産業があったと思います。ですから、あえて金沢にうんぬ んというかたちはとらなくてもいいのでは。
(松岡)やはり上品なのではないでしょうか。僕は加賀の温泉の夜の町を歩いていないのですが・・・。熱海や別 府に比べるとうんと上品ではないでしょうか。  むしろ加賀が誇るべきは和太鼓です。今、世界中に和太鼓は出ています。しかも、それは佐渡の「おんでこ」だとかが広めたと思っています。しかし、和太鼓を縦に打ち下ろすというのは昭和30年代に始まったことで、全部加賀の温泉街なのです。そこで温泉太鼓として生まれたものがだんだん注目されて、乱れ打ちと揃っていって、そして佐渡まで行って、そこから全国に広がっていった。今でも松任に浅野太鼓さんというのがあるように、あれは世界一の和太鼓生産量 です。  和太鼓のようなものは僕はおもしろいと思います。なぜおもしろいか。あれは伝統ではないのです。モダンでもない。モダンでもあるけれどもモダンでもない。つまり、中間のものなのです。太鼓を下に置いてトントンと打つのは、能をご覧になってわかるようにあります。神社で横に打つというのもある。神社ではこう打ちます。締め太鼓もある。ところが、大太鼓をいろいろな人たちが上から振り下ろして打つというのは、加賀の温泉郷でしか生まれなかった一種の際どい芸だったのです。それがだんだんミドルウェアとして注目されてはやっていって、これは新しいということで一種の集団の芸能になっていったのです。こういうものは金沢発信と言えるかどうかというのは別 にして、もっと注目をしていい。僕自身は日本の文化を議論するときに、例えば桑田圭祐が日本語を外国語のように読みます。例えば海岸を「キャイガン」と言うとか、あれがおもしろいのと同様に、和太鼓というのもそういう中間領域で生まれた文化として、非常に注目をしているのです。そういうところがもっとこの町にはたくさん起こっていいように思います。  例えば金沢のプリント浴衣は全然違うとか。プリント浴衣というのは中間的なものとしておもしろいと思っているのです。しかし、おもしろいなと思ってから、メーカーがあれをもっとおもしろくするデザインにしていないので、がっかりしています。金沢あたりがあのようなものをよっしゃと思って、「プリント浴衣・金沢ばり」というのはこういうものだというものに変えていったりすれば、結構楽しみがあると思います。  したがって、僕もまとまったことを言っているのか言ってないのかわからなくなりましたが、江戸のように表に出すわけでもなく、京のように奥に隠すわけでもなく、ミドル型で中間で、かつモダニズムが強くて、うまくて、本当の悪徳とかに対しては弱い町だとすれば、むしろそういうものを一回出して、出してもそれほどみんなも喜ばないから、それを文様、デザイン、おかし、あそび、界隈などに変えて、もう一回伏せ直す。マスキングのかけ直しをやる。それには一回出さないとだめだと思います。そうしないと金沢の羽織はこういうものだみたいなものにはいかないし、ルーズソックス金沢流は生まれない。そういうことを僕は言っているのでしょうか。よくわからないですが(笑)。

(小林)あと1つ。私が気になっているのは、これも前からプレシンポジウムで出しているのですが、大野弁吉というからくり師のことです。これは今、金沢経済同友会の山本勝美さんが理事長で、大野港にからくり記念館をつくって活動しているのですが。一昨年でしたか、あそこで「弁吉の花火」という仕掛け花火を中心にしたイベントをやったのです。私はそれを見ることができなかったのですが、いろいろ聞いたら山梨の花火屋さんの協力でやったそうです。あれは弁吉の弟子の朝倉長右衛門という高畠の農家の息子なのですが、これが弁吉に傾注して、毎朝4時ごろ起きて大野まで毎日通 い続けた。明治21年でしたか、『万花火の雛型』などの本を2冊作ったのです。それを見ると本当に奇妙な見たこともないような・・・、例えばだるまが何百個も火のところから吹き出してくるとか。
(松岡)花火で。
(小林)花火です。それからドクロの面がビューっと綱をつたって走るとか。
(松岡)花火からだるまが出るのですか。
(小林)花火をあげて、あがった花火の中からだるまが出る。それが絵に描いてあるのです。その辺の発想はよく解りませんが、絵に描いているから実際にできたのかどうかはわかりません。ただほんとうにやったのではないかなという気がしているのです。
(松岡)大野弁吉ならやったかもしれない。
(小林)やっている可能性がある。あの時代のまさにからくり師は、西洋の物理化学をそのままあそびの世界に持ち込んでいったわけで、それは一つの見せ物であったかもしれないけれども、精神においてはそういうものをどんどん使ってやっていくという時代でした。その辺の傾向は金沢には相当あるという気がするのです。
(松岡)それは発明や工夫が好きな風土という意味ですか。
(小林)そうです。特に機械産業がその後続いていくわけです。例えば、津田駒というような機械メーカーに。 (松岡)織機は。
(小林)つまり自動織機の背景に弁吉の技術が入っているのだと思います。そういうものを基礎にして、金沢は一気に機械工業の産地になっていきます。その前の江戸時代のあそび精神は明らかに弁吉が持ち込んでいるわけですし、その辺のところから物を作っていくイメージや発想が生まれたもので、こうしたことが何かもう少しやっていけたらいいのではないかという気がしてしょうがない。
(松岡)銭屋五兵衛や大野弁吉などのそういうすごい人たちのものは、もう一度繰り返されて金沢の中に出てきているのですか。
(小林)つまり、そのお弟子さんというか、弁吉の系統を受けた人たちが、その次の世代になり今言ったような産業に結びついていくものを作っていく。
(松岡)それが必要ですね。からくり儀衛門という大天才のものは結局、東芝になった。だから、大野弁吉のものにだれかがファンデーションしてファンドして投資しないとだめです。先程のモダンと関係があるのですが、モダンのよさは、どんなものが来ても何とかそれをモザイクにして、それなりのインテリアにもエクステリアにもするという力ですが、モダニズムの1つ弱いのは投資力だと思います。ポストモダンなどはもっとだめです。投資力がない文化です。だから磯崎さんなどがポストモダンに走ったときに「日本の建築はだめになります」と僕などは言いましたが。  どうやって投資、つまりお金という見えない価値に集中できるかだと思うのです。文化もあそびも結局はもう少し見えない価値がほしいと思ってやるわけです。お金も使ってしまう。僕の父は結局、花柳正太郎とか水谷さんとか落語家だとか相撲取り、歌舞伎役者は先代の中村吉右衛門でしたが、とにかくお金を出して出して身上をつぶして、僕が大学を卒業したときには死んでしまった。当時、初任給が3万5千円のときに、毎月僕はそれを13万円返しそれを5年間続けないと僕は暮らせないという借金を残して死んだのが親父ですから、あまりほめたくはないのです。その大半がほとんど歌舞伎から新派まで、相撲から落語までで・・・。おかげでそういう人たちが、「あんたのお父さんにはお世話になった」というのが多少僕のおつりくらいで。  しかし、あそびもそういうものですが、現代ではそういうものを一種の投資構造や企業構造や産業構造に変えなければいけないのです。だから簡単にいえば、今の大野弁吉型のベンチャースピリットです。そして機械、からくりというものに対する関心、そういうものが何か投資構造に変わるものを金沢が生むことができたかどうかが、ポイントになるのではないでしょうか。
(小林)例の回転寿司のシステムとかはそうですね。
(松岡)あれは金沢ですか。
(小林)機械は金沢です。ですから、そういうのを。
(松岡)考えたのは大阪のおっさんです。元禄寿司。
(小林)ですから、そういったものを何となくあそびの中からふっとイメージをふくらませてやっていく。高井豆腐機械も大変すごいと思っていつも見ているのですが。最初のものを作られた高井さんのあの発想は、花崗岩か何かを加工したものを2つ組み合わせて上から豆を入れると、下でおからと豆乳とに分離して分かれる。あのようなアイデア。高井さんには私も生前にお会いしたことがありましたが、非常に頭のいい方で、数学をしょっちゅうやっていたという人だそうです。  ですから、何かそういう弁吉の精神の中にあるある種の、いわば生活の中から常時あそびに転化していくものを見つけていく、そうしたスピリットは、かなり金沢の場合にはあるとは思うのです。
(松岡)それはいいですね。弁吉の弁はベンチャー。それはもっと増えた方がいいです。
(小林)そろそろ時間が来ました。最後にどうまとめていいのか・・・。先程、松岡先生の方から中間、ミドルウェア、この辺を少し見直してみる必要があるという話がありました。
(松岡)そうです。ルールがもう少し増えた方がいい。そしてタブーですね。
(小林)もう少し蓄積をさせる。あまり早くにぱっと公開しないでため込む。つまりタブーを作るということは、すぐに出せないわけですね。出せないからその間、寝かせる。これをどこかで作っていく必要があるということでしょうか。
(松岡)それと僕は、小林先生が言われた中では、1月から12月まで月並みが残っている、これは絶対に大事です。大前提です。季節感に合ったあそびと文化がなかったらもう何もないです。何とか季節に合わせたことを、無理してでもやっていないとだめですね。
(小林)そのようなところで終わらせていただきます。どうもありがとうございました(拍手)。
(林)松岡先生、小林先生、ありがとうございました。豊富な知識と情報のいくつかの切り口でお話をしていただきました。1つだけ、私ごときが言うのも何ですが、先程、風俗の話がありました。こういう全日空ホテルで言う話ではないかもしれません。小林先生は行かれない方がいいですが、松岡先生、片町の交差点がありますが、あの辺1回、2回、3回行き来されると、金沢も最近やるなというか、えぐいなというか。私は憂えているのですが、そういう変化も今の金沢には出てきているようです。「あそび」というテーマでお話をいただきました。本当にありがとうございました(拍手)。