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<分科会A 発言録>
[武光] 東京にない、独自文化の発信地として成長して欲しい。
[水野] 旧市街地は、金沢の文脈、記憶を継続できるところ。


(福光)2001年の「金沢創造都市会議」を我々は本番といっておりますが、これまで3回のプレシンポジウムを開催してまいりました。実は平成9年の金沢経済同友会40周年記念事業の提案として、こういう会議を作ってはどうかと申し上げたわけです。それは、さまざまな日本の問題、あるいは世界の都市の問題を取り上げていろいろ議論をしよう、それに何か金沢が役に立てないだろうかという趣旨で企画をしたものでした。  その後、3回のプレシンポジウムをした経過の中で、途中で国際会議的にやってみたり、いろいろなパターンを作ってみたのですが、結局、まずはこの金沢の町が大変特異な固有の個性を持った町である、あるいは歴史を持った町でありますので、この町の根源的な価値を一回しっかり掘り起こして、それを再認識しよう。その構造やその固有の個性の原理のようなものを掘り起こすことが、ほかの都市への教科書・参考書的な役割を果 たすに違いないと。そういう先生方からのサジェスチョンを賜わりまして、それでこの本番第1回目、2001年は「「記憶」に学ぶ」という基本テーマですが、金沢の遺伝子のようなものを一回しっかり掘り起こしていこうということで企画されたわけです。  すでに昨日、記念対談として「都市の記憶と創造力」というテーマで対談を行いましたし、また前夜祭では、食の記憶という意味で、江戸にさかのぼってというわけではありませんが、「ジワモン」と称されますこの土地で近代によく食べていたものをもう一回食べてみようということをしてみたわけです。今日から始まる分科会ではいろいろなテーマで記憶を掘り起こしていくことをやってみて、できれば明日、「金沢創造都市会議2001宣言」を発表させていただき、今後できれば2年に1度、隔年にこの会議を開催できればと思っているわけです。  それぞれの分科会が1時間半ずつということで、お聴きいただく方もエネルギーがいるかもしれませんが、ぜひこの機会に、この町の根源をご一緒に研究していただければ大変ありがたいと思います。そういうことで開会のご挨拶に代えさせていただきます。ご参加を心から感謝いたします。ありがとうございました。  再び座長としてご挨拶を申し上げます。ただいまから分科会Aを開催させていただきます。この分科会Aは「金沢の構造」ということで、先程申し上げました「記憶」に学ぶという意味では、構造というのは地面 の構造から町の構造からいろいろな構造があると思いますが、そういうものは本来どういうものだったのか。そこにどんな町がつくり上げられてきたのか。その影響で我々はどんな考え方を持っているのだろうか。そういうところをこの分科会でお聞かせをいただければと企画させていただきました。  対談いただきます先生をあらためてご紹介します。お手元の「金沢創造都市会議」のブルーのパンフレットの中に先生のプロフィールが載っております。まず、武光誠先生は、明治学院大学の教授で、東京大学大学院国史学博士課程を修了され、日本古代史を専攻されておられます。そこに収録されておりますようにたくさんの著書をお持ちですが、今日はご専門の立場からも、この町のことを思う存分にお話しいただければと存じます。それを受けられる水野一郎先生です。金沢工業大学の教授、地元の先生ですので皆さんよくご存じかと思いますが、東京大学の工学部建築学科をご卒業後、東京芸大の博士課程建築学専攻課程を修了されております。金沢に来られたのが1976年で、1979年に金沢工業大学の教授にご就任され、それ以来さまざまな具体的な金沢のまちづくりと設計に従事されておられます。ぜひお2人に金沢の構造についてさまざまなご議論をいただきたいと存じます。今日は、水野先生の大学でお作りになった最新のコンピュータ・グラフィックスをご紹介いただけるということもあり、期待申し上げているところです。それでは皆様、あらためてお2人に拍手をお願いします。それでは両先生、お願いします。
(水野)それでは早速始めたいと思います。昨日の記念対談で、「記憶を失った都市」、どちらかというと近代化の過程でグローバリズムに乗ろうとして自己変革を遂げてきた都市ですが、そういった都市にはあまり未来はないのではないかと。もっと自分自身の記憶をきちんと持っている都市が、21世紀の中で個性を持って発展していくのではないかというお話があったかと思います。  今日はそれを受けまして、「都市の構造の中の記憶」を少しやっていきたいと思っております。都市の構造といった場合にはいろいろあります。その1つは私の分野なのですが、ハードな意味で都市史のような構造です。気候や地形、それから江戸時代の城下町の構築、明治維新、あるいは戦後の都市づくり、そういったことを含めて、金沢の都市の構造についてハードの面 から私はお話ししたいと思っております。武光さんの方からは、ソフトといいますか、そのときこの地域の人たちは何を考え、どのような性格を示し、どういう行動をしたのだろうかという、そういったソフトウエアの方から見ていただこうと思っております。  そういう進め方ですが、金沢の都市のストラクチュアがこのセッションで見えれば私はうれしいと思っております。途中、皆さん方からご質問があった場合はお受けしたいと思いますので、積極的にお手を挙げていただければと思っております。それから、ハードの方はときどき映像を出しながら説明してまいりたいと思っております。それでは早速ですが、金沢が日本海側に立地することで持っている性格について、少しお話ししたいと思います。(パワーポイント併用)
〇これは年間の降雪量です。右側が太平洋側の諸都市。静岡は0ですが、左側は仙台を除けば、日本海側に属している都市で200cmです。『世界の気象』という本で、年間200cm以上の雪が降って40万人以上住んでいる都市を探したのですが1つも見つかりませんでした。すなわち年間2m以上の雪が降るところで40万人住んでいる都市をまだ私は見つけていないということです。それほどこの北陸は雪が多い。
〇これは年間の降水量です。香港・台北・シンガポールは金沢より雨が多い感じがしますが、そういった東南アジアのモンスーン地帯の都市よりも北陸の方が雨が多いということです。世界の都市は、ロンドン・パリ・ローマ・モスクワ・ニューヨークと出ていますが、大体500〜1000mm。東京が1500mm。2500mmを超える都市で40万人住んでいる都市も『理科年表』で調べますと0です。そういう意味でいいますと、金沢を2000mmの雪と2500mmの雨ということで考えると、世界でも特異な都市だとこのデータからいえるわけです。
〇日照時間数を調べますと、一番少ないのが秋田で1600時間ぐらいです。金沢が1667時間。これは30年間の平均ですから、ほぼこんなものだとお考えいただいて結構かと思います。東京・大阪・名古屋あたりは1800時間以上。要するに雨が多く雪が多く日照時間が短いという条件です。こういう条件がどういう影響を及ぼすかということについて、武光さんにも少しお伺いしたいと思いますが、私の分野の建築の方からまず、見てみたいと思います。
〇国勢調査が人間1人あたりの住宅の畳数はどれだけかというデータを出しています。それによりますと、1人あたりの畳でいくと富山・秋田・石川・新潟・青森ときます。非常に大きい。この大きい順が、先程の雪が多い雨が多い日照時間が少ないということと一致しております。すなわち、日本海側の居住環境として、大きな家に住んでいるということは冬、雪で前庭や奥庭などの外部空間は生活できず内部で生活しなければいけないゆえに、内部が大きくなっていることを明確に証明しております。こういう日本海側と太平洋側の気象の違いが人間の精神構造、生活構造にどんな影響を及ぼしているのでしょうか。私はこの時期にヨーロッパへよく行くのですが、アムステルダム・パリ・ロンドンの上空へ来ると下はびっしり雲なのです。ところが、バルセロナやローマへ降りるときは晴れています。すなわち、太平洋側と日本海側の感じがちょうどヨーロッパのラテンとゲルマンとそっくりなのです。これはなかなかおもしろいなと思っていつも見ているのですが、先生から見るとどうですか。
(武光)大きい目から見ますと、雪国の方が早く文明が発達するということはまちがいないことらしいのです。古代で縄文時代がまず発達するのが北陸から東北地方、そして古代文化が最初に栄えたのが出雲なのです。古代文化のふるさとは大和といわれますが、しかしそれは出雲の文化がじわじわと大和に及んで、大和で発展したということになるわけです。古代の縄文時代の様子を見ますと、とにかく東北地方から北陸地方にかけて大型住居といわれるものが非常に多く発掘され、縄文時代から雪に閉ざされた生活の中で人々が集まってその大きい家に住み、そこでいろいろと作業をやったりしていた。そういったことから、たぶん早い時期に文化が発達していく。  金沢にチカモリ遺跡というのがあって、木柱根とよばれる巨大な柱が建てられています。ああいった木柱根、それから青森県の三内丸山遺跡で有名になった巨大建物、そういったとにかく高いものを造って神様を祭るという文化がまずそこに発達してきます。そういう縄文時代のさまざまな宗教・文化の発達を受けて、まず日本海側で出雲地域に出雲文化という独自の文化が生まれてくるのです。これが出雲に生まれた理由というのは、日本海の航路を考えますと、九州から対馬海流に乗って最初に行き着くあたりで平野の開けているところというと出雲地方になるわけです。そこで元からある縄文文化を柱にして、大陸からの新たな文化、青銅器や鉄器を受け入れて出雲王国というものが生まれ、それがさらに日本海沿岸を通 って北へ北へと浸透していくわけです。  その意味で、出雲特有の大国主命の信仰、それは自然を大切にして人間が自然と協調して生きていこう、農業を生活の基本においてまじめに働いていこうとするものですが、そういった発想の信仰が北陸地方に長く残ることになります。そういうことで、とにかく文明の発達は日本の場合、雪国から起こったといっていいと思います。そこからの加賀藩の成立という話は、一度切って後程お話しさせていただきます。

(水野)チカモリ遺跡という縄文の遺跡が金沢にありますが、金沢の周りにはそのほかに御経塚、あるいは金沢市内の古府の遺跡、能登の真脇遺跡、それからこの間発掘された有名な小矢部の桜町遺跡、それからずっと三内丸山まで、縄文がずっと日本海側にありますね。
(武光)結局、海と山の境の平野にぽつんぽつんと人々が集まって住む文明の拠点ができて、それが密接に陸上・海上の交通 路で連絡をとりながら、文化交流をしながら発展していく。そういう構造が長かったわけです。弥生文化が九州にやってくることがなければ、つまり縄文文化がそのまま発展したならば日本の文明は雪国から開けて南へ南へとやってきたような気がします。
(水野)雪がプラスになった時期が縄文時代にあったというのは、何となく不思議な感じがしております。話は戻りますが、私は建築関係ですので建築で見てみますと、実は雪国の建築みたいなもの、あるいは雪国の知恵袋みたいなものは金沢も結構失っていっているのです。例えば、東の茶屋街、俵屋の飴屋さん、中屋の混元丹といった建物を思い出していただければわかるのですが、町家は軒のある方から出入りしています。道路が手前にあります。武家屋敷は棟が見える妻側から出入りしています。町家は敷地が狭いゆえに雪を前や裏庭に落とすかたちで密集して住んでいけるわけですが、最近、金沢の郊外へ行くと妻入りで家を建てるのが増えてきています。これはたぶん大雪が来たときに大変なことになるだろうと思っています。  ある家を建てたときに、お隣さんの屋根の雪が落ちてきてその家の窓ガラスを壊したのです。そのときに、その土地を買いたいので売ってくれと隣の人から言われました。その家は拒否したので、家の間に電信柱を立ててネットをかけて、雪が自分の家に落ちてこないように仕掛けをしてようやく逃げたのですが、そんなふうにして少しずつ我々金沢人の間にも雪に対する知恵みたいなものが減ってきております。雪国の記憶は衣食住のいろいろな面 であったと思います。近代化や機械工業を含めてグローバル化していく過程で少しずつ雪国の記憶を失っているのもまた事実ですね。
〇これはどういう図かといいますと、日本海側の都市は日本海に面しているのですが、平野が狭くてすぐ後ろに山や丘陵がある、白山連峰がある、立山連峰があると考えてもいい。その平野に都市ができる。都市ができると同時に漁村が近くにある、山村がある、農村があるというかたちで、都市とその周辺がワンセット揃ってできるのが北陸の特徴です。金沢があって、金石大野があって、二俣や湯涌があって、それから野々市近辺、あるいは津幡近辺の田園地帯があるというふうに考えればいいのですが、都市とその周辺がワンセット揃っているのはわりとおもしろいかたちです。
〇その都市は平野が狭いために連珠状に都市が連なるということです。例えば左の方から、福井、金津、大聖寺、小松、金沢、津幡、小矢部、高岡、富山というふうに考えていただいても結構ですが、そういうふうに連珠状につながっています。「リニアパターン」と我々はいっていますが、線状の都市をつくっていく。関東平野や大阪の平野ではネットワーク状に都市をつくっているわけですが、こういうリニアパターンの都市群が形成されているのは、山陰、山陽、北陸という平野が狭いところ、山が迫っているところ、海に面 しているところの特徴です。武光さん、こういう都市のつくられ方はいろいろなものの伝播に特徴があるのか。あるいはネットワーク状のような刺戟の多さがなくても、そこが成熟したりすることはあるのでしょうか。
(武光)そうです。それで日本の中で北陸地方というのは非常に特徴的な文化圏を生み出していくわけです。お配りしたレジュメをご覧いただきながら、多少そのあたりの視点で、加賀藩の成立ぐらいまでのお話をしてみたいと思います。  金沢に「加賀っぽ」とよばれる独自の気質があります。むしろ皆様の方がご存じでないかとは思うのですが、「加賀っぽ」とは、金沢の人の粘り強くて働き者である気質をあらわすものです。それは、穏やかでのんびりした性格で、けんかや競争は好きではないが、じっくりと勉強して文化的なものに関心を持つ。ある意味、京都の気質にも近いものですが、加賀には京都のものと異なる独自の地域の気質というのがあるらしいのです。  鹿児島や高知あたりの短気でけんかっ早い気質はどうも私は苦手ですが、あの辺に行くと、とにかくだれもかれもがそういう感覚で生きているし、昔からの江戸っ子というのもまた短気でやたらに格好をつけたがる。これもなかなか相手のプライドを傷つけないようにうまい具合につきあっていくのが難しい。大阪人気質ですと、妙に計算高いところがあって、あれこれ耳あたりのいいことを立て板に水を流すようにしゃべるけれども、なかなかその真意がわからないという、いろいろな気質がありますが、とにかく粘り強さ、穏やかさ、そういったものが「加賀っぽ」の特徴ではないかと思います。いろいろと考えていきますと、どうも前田家が支配する加賀藩の中で次第にこういう特徴がつくられてきたのではないか。もとからの北陸地方の気質のうえに、加賀藩の支配のあり方からできた、百万石の親方に守られて安心してのんびり生きられるというような環境の中で生まれたものが加わったのではないかと思われるわけです。  こういう「加賀っぽ」の気質がつくられた背景として、4つほど重要な特徴を挙げてみました。1つには、加賀にはいい意味で独自性を重んじる性格があるのです。加賀藩では長いこと津留政策といって、よその藩との交易を制限する政策がとられ、とにかく加賀藩は加賀藩独自の道を行くという発想が強かった。これが一番大事なことではないでしょうか。そして第二に、豊かな地域にあったおかげで、金と時間にゆとりを持った生活をみんながしていた。それから第三に、交通 が便利で、いろいろと新しい情報が入ってくる。特に京都からのいろいろな技術・情報が速やかに金沢に伝えられた。  そのうちに金沢の町の中でそこそこ競合が起こるようなつくりが生まれてきた。これが第四のもので、金沢の町の中で地域ごとに競い合ってほかの地域よりもいいものを作ろうということで、金沢独自のものを踏まえながら町の中で競い合ってきた。そういったことが独自の金沢の気質、金沢の文化を生んだような気がします。  今は何でもアメリカ的な感覚で、世界を均質の価値観で動かしていこうという動きが盛んですが、これは産業革命のころのイギリス人の、経済効率を第一に考える発想の中から生まれたようなもので、悪い意味で今世界中にそれがじわじわ広がっています。一番わかりやすい例を挙げますと、アメリカで作られたハンバーガーショップがとにかく世界中で見られるようになってしまった。そうすると、それが進出する分だけ各地の郷土料理がだんだん後退していく。こういう動きは決して望ましいものではなく、金沢の伝統を踏まえて新しいものを生み出していく方向が望ましいのではないかと思います。  前田家の前史として、金沢の地を含む北陸というのは交通路を通じて中央と深いかかわりを持っていました。弥生時代初めの文化の中心は出雲にあった。出雲から日本海航路によって新しい文化が金沢方面 に流れていた。ついで、大和朝廷ができると、今度は大和から京都盆地、そして琵琶湖を通 じて敦賀のあたりから日本海、そういうふうに新しい文化の流れが生まれます。とにかく便利な日本海の航路、日本海沿いの陸上交通 路を通じて、古代・中世を通じて進んだ文化が早め早めに伝わってきたのが北陸の特徴です。  図Aとして古代の交通路を挙げておきました。ここで日本海の航路を書いていますが、当時、朝廷が使う大きい船ですと、わりあい寄港地を少なめにして早く物資を運ぼうと能登半島を素通 りするような航路を通っています。ところがこの寄港地でないところでも、短距離の航路を地元の人間がいろいろと使っていて、日本海航路の人の行き来が非常に盛んでした。同時に、北陸道を通 じる陸上交通、あるいは海岸部から山のふもとまでの陸上交通も盛んでした。  奈良時代に入りますと、早い時期に東大寺領の荘園が北陸地方に多く開発され、そういった荘園の管理に下る役人を通 じて奈良の文化が北陸地方に入ってきます。  平安時代になりますと、とにかく京都から近く、交通 が便利ということで、京都の藤原氏をはじめとする貴族たち、それから東大寺・延暦寺などの大寺院が思い思いに荘園村落を北陸方面 に設定していくことになります。北陸地方は海岸と山の間の狭い平野が連なるようなかたちになっていますが、それがさらにいくつもの荘園村落に分割されることになりました。平安時代の後半に全国で武士団が生まれてくるのですが、関東のように三浦氏・大庭氏・千葉氏といった有力な武士がいて、彼らの下にピラミッド的な武士集団の組織が作られるというかたちと違い、北陸では1つの荘園村落を基礎にする小規模な武士団がいくつも分立するというかたちが長く続くことになります。  例えば木曽義仲が平家と戦ったときに、北陸の武士たちは木曽義仲について京都に行くといいことがあるというので、義仲の下に集まって京都に攻め上る。ところが、関東の武士のようにピラミッド的な組織ができていないものですから、少し義仲の旗色が悪くなるとみんなばらばらになって思い思いに帰っていき、あっという間に木曽義仲は没落してしまうのです。  図Bとして、鎌倉時代の主な武士団の分布を書きました。結局、戦国時代に至るまで特別 有力な武士は現れませんでした。加賀地方で一番有力だったのが富樫家ですが、彼らとて自分の力で加賀一国を治めるほどの力は持てません。鎌倉時代に親鸞が北陸地方に浄土真宗の布教を盛んに行ったおかげで、戦国時代に一向一揆という運動が起きます。これは農民運動とか宗教反乱という評価をされたこともありますが、実質的には一向一揆で主導権を握っていたのは1つの村落を治める小規模な武士たちでした。彼らが自分たちの間に、戦国大名としてふさわしいだけの有力者がいないから、その代わりに浄土真宗の坊さんを上に立ててまとまろうというかたちで、一向一揆が盛んになったのです。  図Cとして地図を書きましたが、とにかく一向宗が一番多かったのが加賀地域で、加賀から越前にかけて、一時期は一向一揆が支配するようなかたちがつくられます。一向一揆や小規模な武士たちが競い合う中で戦国時代も終わりを迎えました。  次に、図Dとしましたが、ここで初めて上杉謙信が西進を始め、それに対して織田信長が柴田勝家を送って北陸征服をします。結局、上杉謙信が京都を目指す途中で病死したために、加賀・能登・越中は織田信長の支配下になったわけですが、そこで成長してきたのが前田利家です。天正4年(1576年)に柴田勝家が越前6郡を与えられ、そのとき織田信長から不破勝光(直光)、佐久間盛政、前田利家の3人を与力に付けられて、この4人の力で北陸地方を平定していくように命じられました。そして、天正9年(1581年)に前田利家は能登4郡を与えられて七尾城に本拠を置いたのです。  前田家の膨張についてEとして図を書きましたが、最初は横線を引いた能登地域を押さえていたのが、だんだん加賀・越中へと領地を増やしてきました。前田利家は非常に進んだ考え方を持っていました。尾張の中級の武士から成り上がった人間だけに、いろいろと知識人の意見を聞く知恵を持っていたらしいのです。それで、能登に入るといち早く検地を行って兵農分離を行う。そして天正11年(1583年)、柴田勝家と豊臣秀吉が賤ケ岳の戦いで戦って柴田勝家が滅んだときに、前田利家は秀吉から加賀を与えられて金沢に移る。そのあと関ヶ原の戦いなどを経て、最終的に120万石の大名に成り上がるわけです。この前田利家の時代に、細工所とよばれる手工業者を集める組織を作ったことが注目されると思います。すなわち、非常に早くから手工業の育成に前田利家が力を入れていたわけです。  金沢の町は一向宗の金沢御坊という寺院をもとにつくられました。天正8年(1580年)に佐久間盛政が金沢御坊を金沢城にして、もとの寺内町を城に変えてそのまま利用したのですが、天正11年(1585年)以降、前田利家が本格的な城郭に造りかえていったわけです。  金沢城のつくりを図Fとして書きましたが、前田利家のときに、それまで大手門が西の京都の方向を向いていたのに対して、大手門を北側に向けたことに意外に大きい意味があるのではないか。北側は平野を挟んで海の方に向かっている。これは、前田利家が日本海の水上交通 からいろいろと新しい文化を取り入れようという考えを持っていたことをあらわすのではないかと思われるわけです。金沢の外港として粟津の港が整備され、そして前田家のもとで粟津の港と金沢との往来が盛んになり、京都や北陸地方の文化が金沢に入ってくるようになります。前田家の金沢支配までを簡単に、要点だけをお話しさせていただきました。
(水野)古代から一気に前田家の時代まで概略をたどっていただきました。奈良・平安のころの荘園の跡地が金沢近辺に残っています。上荒屋遺跡へ行ってみると、奇妙なお庭と奇妙な建物、薄い水面 があったりして、何か不思議な空間になって復元されているのですが、ほかにも野々市の末松廃寺跡や東大寺領など、かなり多くの荘園の跡が残っております。  それから、金沢工大のすぐそばに富樫家の館跡があるのですが、何もないのです。記憶がないというか、ハードとしてはほとんど残っていない。それから、国際ホテルのところにお城の跡があるのですが、それもよくわからない。そんな感じです。  そういう意味でいうと、一向宗はイデオロギー革命なのですが、その一向宗の痕跡もハードとしてはほとんど見ることができない。そんな状況かと思います。ところが、前田家が入ってからの空間については明瞭にはっきりしています。その辺のことを少しハードの方からまた見てまいりたいと思います。では先程の地形のところをお願いします。
〇これは金沢の都心の地形ですが、丘陵の先端にお城を築きます。当然、一向宗が金沢御坊を築いたのもこの先端です。そういう意味で、一向宗がこの地を選んだことにはたぶん戦略的な意味がかなりあったかと思います。先程の北陸の連珠状都市の中で、福井も大聖寺も小松も高岡も富山もみんな平地にお城を構えております。全くの平地です。ところが金沢だけは丘陵が平地に落ち込む先端に城を構えるわけです。それは一向宗の跡地を継いだわけですから、尾山御坊との関係がかなり強いのではないかと思っております。
〇このお城を中心に都市を展開するわけです。そのために大変複雑な地形になります。坂を上ったり下りたりしなければなりません。そして城下町特有の曲がりくねった道をこれにはわせます。同時に、金沢の町の構造の特徴であります用水が張り巡らされます。用水というのは、皆さんご存じのように一定の幅です。深さも一定です。流れの速さも一定です。よどんだり早瀬になったりすることはないのです。一定の速さでずっと動きます。ということは、等高線をゆっくり下りるかたちで屈曲した用水が造られます。そのためにますます金沢は複雑な都市につくられていくわけです。  この地形と道路構造と用水網で、金沢に複雑なインフラストラクチュアが作られます。そこに町人だ、武家だ、足軽だ、下屋敷だと。あるいは寺院群がさまざまに配置されていきます。それがさらにいっそう複雑な都市をつくっていきます。また、河岸段丘の地形ゆえに斜面 の緑が大きく都心に残っています。同時に、明治維新以降の近代化のプロセス、あるいは戦後の近代化のプロセスの中で、こういうひだの深い、上ったり下りたり曲がったりしている都市を整備することができなかったことが、逆に金沢にとっては幸せだった。戦災に遭わなかったこともありますが、このような地形構造は非常に重要な意味を持っていると思っております。  それではここにどんな都市をつくったのでしょうか。それを私どもの仲間の増田助教授から、CGを使って説明してもらいたいと思います。

(増田)金沢工業大学の増田です。(CG併用)
〇では、金沢の歴史ということでご紹介させていただきます。まずは城下町金沢の構成です。これは私の前身の島村先生の研究室で進め、私も共同研究で参加いたしましたが、こういう古い城下町の絵図がたくさん金沢に残っております。これだけではなく、法務局の土地台帳を使って宅地割りを求め、身分別 にどう構成されていたかということを明らかにしました。  武士の住んだところはアイボリーの色のところで、今赤く「八家」と出たのは老臣八家、上級武士です。例えばこれは長家・村井家ですが、その隣に家来衆が住んでいます。足軽はカーキー色で示したところですが、アイボリーのところが武家屋敷ですから、かなり宅地の規模は小さくなります。町人は、現在の片町・南町・尾張町あたりに帯状に居住しました。これは寺町の寺院群です。
〇城下町CGの作成過程を示しております。先程の藩老の八家です。この八家も人持ですが、これは一般 の人持クラスの武士で前田、青山、西尾、上坂となります。これは天徳院ですが、それをこういうデジタルの宅地上に並べて建物のモデリングを行いました。最後に看板のようなものが立ち上がったのですが、これは樹木です。コンピュータの容量 の関係上、看板のように平板的に立ててあります。  このように建物のひとつひとつをモデリングして立体化しています。もちろん3次元で作っております。これはワイヤフレームといって線画で書いてありますが、これも立体的に作られていて、黄色で密集しているところが町人の町家です。土塀を巡らせてゆったりと構えているのが武家屋敷です。もう少し見やすく、隠れ線処理をするとこういう状態になります。全体で約23,000の建物がありましたが、全体を建て並べた初期の段階のCGです。立体ですので、どこからでも眺めることができます。例えばこれは犀川大橋付近ですし、ここは寺町の旧桜畠あたりの足軽ですし、ここら辺りは現在の菊川の足軽です。このあたりが本多家の下屋敷、ご家来衆が住んだところになります。これが全体です。周辺の田園地帯、農村部も含めて地平線まで見ることができます。
〇これを見ますと、加賀平野の中に忽然と密度の高い都邑が浮かんでいる状態がわかります。人口密度を算出しますと、およそ164人/haと100m四方に164人住んでいたわけですから結構密度が高かったことになります。現在は120人とか100人に落ちてきているのではないかと思います。  そういう人口密度を支えたのは町家です。これは金石街道から上がってくるところですが、このあたりは本町のあたりです。武士と町家で明瞭な差がありますが、町家や足軽で密度を稼いでいたことになります。武士は大小はありますが300坪、足軽は50坪、町家は代表すれば30坪程度。格式の差によるわけですが、町家は密集していても周りが武家屋敷ですので高密感は緩和されていたと思います。また、木が生えていて土塀で囲まれていましたから、武士の庭はおそらく延焼防止の効果 があったと思います。町家は生活ネットワークで結ばれていたということだったと思います。
〇これは上級の武士に構えられた長屋門です。これは典型的な武家屋敷で、屋根が非常に低い。手前の屋根が古いものです。これなども土塀が壊れていますが低い屋根です。現在の町並みと違って、こうした建物は様式を持っていました。それが美しい町並みの要因だったと思います。  このコンピュータ・グラフィックスも道を歩けるようにしてみたいと思いましたので、まだ部分的なのですが、これは里見町です。歩いているというよりも自転車で走っているような感じですが。木なども完全に3次元の木を採用しております。葉っぱが一枚一枚付いています。ですから非常にデータとして重たいわけです。こういうふうにアニメーションで動かすのは大変なのですが、私どものコンピュータの専門家が努力してくれました。  「森の都」といわれたように、武家の広い庭には大樹老木が茂っておりましたし、そうした武家屋敷が城下町の主要部にあったわけで、自然が広がっていた。そういう豊かな環境だったのであろうということです。
〇今度は対照的に町人です。これは春日町にある非常に古い町家です。蔀戸を上げて店をオープンにした状態です。これなどは少し粗めの格子、こちらは「きむすこ」が入っています。これは観音町の現在の状態です。これは大工町にある畳屋さんです。  町家の様式としては、例えば「きむすこ」のような格子、「さがり」、「袖卯建(そでうだつ)」、「虫籠窓(むしこまど)」です。この隣の家の「風返し」は、板屋根の板が風でめくれないように返しを付けていたわけです。
〇これは旧泉新町で北国街道が城下町に入ってくるところです。これが野町広小路のあたりで、これは初期のCGで木もまだ置いていない状態ですが、町家の建ち並び方がよくおわかりいただけると思います。  例えばここが片町、ここが現在の竪町ですし、ここが大工町になります。大工町を歩いてみたいと思います。大工町は短い町並みかなと思っていましたし、歩いてみるとさほどないのですが、これで見るとずいぶん長かったことがわかります。今は大工町も途中を犀川大通 りで分断されてしまっているので短い感じがするのですが、当時はかなり長かった。こういうふうに町家がびっしりと建ち並んでいて、今日的にいえば「都市型の集合化住宅」といえるでしょうし、吹き抜け、天窓、中庭といった仕掛けがあります。それから、「きむすこ」という格子も、あれ1枚で塀や前庭の代わりをしているといってもいいのではないかと思います。そして、歩いて買い物ができる生活圏でした。  おもしろいのは、もう1つ、足軽があります。こういう小規模なものですが一戸建てです。敷地が50坪に定められていましたから、かなり窮屈かもしれませんが、うまく最小限に収まるような建物のつくり方をしています。門を構え、わずかな前庭があります。現在、生け垣はほとんどありませんが、かつては生け垣を巡らせていて、武家と同じようなアズマダチの妻意匠を表に向けて示していたわけです。これが現在の寺町の旧桜畠あたりで、足軽の家が密集して300戸ほどあったところです。  足軽の居住地としては、最小限住宅としての一戸建て住宅で、生け垣を巡らせた前庭が連続しています。「田園都市」というのが20世紀の初めにイギリスでつくられましたが、それと非常によく似た設計方式だと思いますが、それをさかのぼること300年ですから、むしろイギリスよりも日本の方が進んでいたといえるかもしれません。  これらのことから、21世紀に我々はどういう都市づくり・まちづくりをしていけばいいのか。緑の都市環境もありましたし、知恵とくふうを凝らして町家の集合居住を果 たしていましたし、当然、安全で快適な歩行環境があったわけですし、何といっても美しい住環境があったということで、締めくくらせていただきたいと思います。
(水野)武光さん、今のCGを見ていかがですか。
(武光)いま紹介されたものは、江戸時代の城下町のつくりの1つの例ではありますが、加賀百万石(実質120万石ですが)のもとの金沢が、当時、江戸に次ぐ地位 の城下町だったという意味は非常に大きいと思います。当時、江戸・京都・大坂の3都がありますが、京都・大坂はおおむね商業都市の性格を持っていました。前田家のすぐ下の大名といいますと、鹿児島の島津家が73万石で非常に差があるわけです。その意味で、金沢は日本の文化の中心地の1つで、3都に次ぐぐらいの位 置を占めていたことになるわけです。  当時の文献から金沢のまちづくりを見ますと、江戸と違っていくつも町人の居住地が分散して設けられているところに特徴があります。江戸ですと、初めから山の手と下町を分けて、武家屋敷を集めたところと町人が生活するところに分け、上野や浅草、さらに延びて本所といった、低湿地のようなところに町人を集めた。そして昔からの丘陵地のわりあい眺めも環境もいいところに武家屋敷を集めた。江戸ではこういうつくりをとったのですが、金沢ではそこまで厳しい区画でまちづくりが行われなかったために、町人の居住地が分散して、武家屋敷町の一角に武家を相手に商売する町ができたり、寺院が集中するところにまた別 の町ができたりしました。  非常に興味深いことは、金沢の町人の人数が武家の人数にほぼ匹敵するぐらいだったことです。加賀藩というのは武士の数が多いことに特徴がありまして、前田家の全盛期には前田家の兵力は3万人と俗説にいわれました。中流の武士から成り上がった後発の大名であったために、前田家は軍事力の整備に力を入れて、あちこちからいろいろ有能な侍を多く召し抱えて発展していったのです。  そういう背景のもとに、寛文4年(1664年)、17世紀の半ばの人口の統計があるのですが、このときの町人が5万5000人、武士が5万2000〜5万3000人ぐらいと推測されています。それに対して元禄時代、18世紀初めの江戸の人口統計が残っていますが、江戸は元禄時代には人口80万でした。武家や寺社の人数が45万人、町人が35万人であり、町人の方が10万人少ないわけです。また、江戸の町は元禄期に80万人で、のちに100万人の都市に発展します。そして金沢の町もこの寛文4年、17世紀の半ばに約11万人であった都市が、江戸時代後期に12万人に発展するわけです。  延宝期の金沢の城下町の地図を挙げましたが、そこで町人の居住地が分散していることを見てください。そのうえに「橋場町の店舗の町並み」というので、1つの町並みにどういう店があったかということを挙げました。右側に質屋があり、左側に古着屋などがいくつもあるという町並みができています。  金沢の商人と金沢の職人の統計をとった資料が残っています。人数も種類も非常に多い江戸・京都・大坂の3都に次ぐ規模の商工業者が江戸時代の金沢で活動していたのです。金沢で手工業が盛んだったために小間物屋が多いのが目立ちます。ほかに米屋や古着屋の数も多く、それから当時は灯かりは油ですから油屋も多いのです。職人関係では大工や染物屋、桶屋がずいぶんいるのです。  こういう金沢の町の支配を見ますと、このときの加賀藩の武士や町人に対する統制のやり方が今日の「加賀っぽ」の気質のある部分を作ったのではないかと思えるのです。前田家というのは、ある意味で新しく成り上がったものであるだけに、配下の武士たちに軽く見られてはいけないということで、非常に秩序を重んじて朱子学を重視するわけです。それで、加賀藩ではものすごく家柄の差が重んじられ、武家は「八家」とよばれる限られた名門の人間に権力を集めるようなかたちをとる。そして町人の世界にもそれと似たようなかたちの統制が行われます。  おおむね前田家が金沢のまちづくりをしたころからの豪商で、その大部分はもともと武家階級だったが商人に転向したような人たちからなる「家柄町人」に、町人の支配を任せるようなかたちがとられます。家柄町人の中から町年寄が選ばれて、町年寄という町役人が町人に対していろいろ細かい統制をする。そして金沢の町が細かい町内に分けられて、町内ごとに町肝煎が置かれて、町年寄の統制のもとに、やはり古くからの家柄の町人が町肝煎として細かい支配を行います。  こういう金沢の町、加賀藩の特徴から、上級武士のためのぜいたく品作りが栄えます。そのぜいたく品作りの職人が活動する場となったのが、前田利家が置いた細工所です。さらに、安永7年(1778年)に、八家の支配のもとで産物方という組織ができて、それが金沢の町の工芸の育成に非常に強い指導力を発揮します。  加賀藩では商工業については津留政策がとられて、金沢の産物は簡単によそへは売りに出されない。そういう閉鎖的なかたちで文化・商工業の育成が行われます。すなわち、加賀藩では、年貢米で集まった米は交易されて換金されるのですが、特産品は商品化せずに、藩の有力な武士だけで独占するかたちがとられます。  そういった金沢の町で、武家を中心に文武を重んじる気風が強まります。武芸の面 に比較的のちまで戦国武士の気風が残って、藩士たちがいろいろな武芸を身に付けるのですが、加賀藩は早い時期から、文化育成の方針をとりはじめます。儒学者の新井白石が「加賀は天下の書府なり」と書き残していますが、17世紀末に藩主の前田綱紀が非常に朱子学を重んじて、古典研究を盛んに行いました。綱紀の命令であちこちから珍しい古典を集めました。今それは尊経閣文庫本として、歴史を研究する人たちにとって非常に重宝なものになっています。  その綱紀のときに蒔絵・印籠・染物などが発展していきます。藩主主導のかたちで文化の育成・産業の育成が行われるのですが、その点で、金沢の町は町人が下から経済活動をおこす大坂のようなあり方とは全く異なったかたちで発展していったわけです。金沢、あるいは北陸地方を代表する豪商として銭屋五兵衛の名前がよく知られていますが、この銭屋五兵衛というのは加賀藩のあり方から見れば非常に異色な人間です。彼は粟崎の港などを押さえて長距離交易で財を成しています。加賀藩はこういう人間が出てくると自分のところの秩序が崩されるといって、目の敵にします。それで最後には、銭屋五兵衛は密貿易の罪で逮捕され、嘉永5年(1852年)、牢死しています。  結局、大坂的な、丁稚奉公から成り上がって、人が思いつかないような新たな投機的な商売でのし上がるということがなかったのが金沢の特徴といえます。そういった中で、加賀っぽ的な生き方、つまり投機的ないちかばちかという商売をやるのではなくて、粘り強く働いていこうという気質が作られていったと思います。

(水野)先程のコンピュータ・グラフィックのハードウエアの町の中に、武家を中心とした百万石文化、それを支えた商人・職人、そういったものが満たされていた金沢の姿がありました。その金沢が、明治維新以降どういうふうに変わっていったかというところまで踏み込んで先生からお話しいただいたわけですが、だんだんその百万石の武家文化が町人の方へ移っていったのが明治以降です。  その明治以降についてですが、昨日も記念講演で出たのですが、明治の最初は金沢は12万人の人口がおりました。ところが明治30年ごろに8万人まで減りました。実は明治32年に第9師団が置かれるようになってからまた人口が伸びるようになるわけです。すなわち軍都としての歩みを始めてから人口が伸び始めていきます。あとは繊維機械工業が興ってまいります。  そのようなことから次第に金沢も成長してくるわけですが、日本の多くの都市が明治維新以降、近代化の中である1つの機能に特殊化していくことが非常に多いわけです。例えば港湾都市になろうとか、商業都市になろうとか、工業都市になろうとか、そういうふうに、国家の中である種の使命を果 たそうという役割を持つわけですが、金沢は国家に対してぱっと立候補して何かするわけではありませんでした。例えば隣県の富山を見ますと、電源開発をやるところはないかというとぱっと手を挙げますし、港湾建設でぱっと手を挙げますし、工業開発でぱっと手を挙げますし、戦後でいえば新産都市をやるところはないかというとぱっと手を挙げていく。そういう外力を導入して自らを変えていくということを多くの都市がやってきたのですが、金沢の場合はそれをせずに、ああいこうかこういうこうかと自分たちで決めながらいった。そういう意味では、宮本先生のお話ではありませんが、内発型の都市という歩みをしてきたわけです。それだけ自分の記憶、自分の力で生きていこうとした都市です。  それが幸いしたのかどうかわかりませんが、金沢は戦災を受けずにまいりました。焼けなくてよかったという戦後のスタートを切ったわけですが、15年ほどたちますと、戦災を受けた100以上の都市が戦災復興・近代化を成し遂げて、車社会に合った都市をつくり上げていきます。そうしますと、昭和40年前後の新聞に、「金沢は焼ければよかったのではないか」という投書が出るぐらい立ち後れ感がありました。  それからまた10〜15年たちますと、日本が高度成長を成し遂げて、日本人が世界の都市を見るようになる。そして、近代化を成しとげてみると、どこの都市も同じリトル東京ではないかと。要するにグローバリズムになってきて画一化してしまい、気が付いてみると逆に「金沢はおもしろいね」となりました。それを最初に言ったのが、実はアンノン族でした。あの人たちがスタートになって、もう一回日本の都市が見直される時期が来て、そのときにまた焼けなくてよかったという話が出てくるわけです。一周遅れのトップランナーとか、そういうこともこの時期に出てきております。  そんな時代を迎えておりますが、その戦後について、また私の方からデータで、時間もありませんので、簡単にご説明したいと思います。
〇これは国勢調査です。金沢市の人口は昭和40年に33万人です。平成12年に45万人です。県の人口が120万人ですから、4割近くの人口がここにおります。都市圏でいきますと65万人ですから、金沢都市圏で半分強の人口がいるということです。一極集中が進行しております。そのためにNo.2の小松、No.3の七尾、あるいはそれ以下が大変苦戦しております。
〇一方で旧市街地の人口を見ますと、昭和40年と昭和60年の比が出ていますが、63%に減っております。さらに十数年で88%も減っております。これは小学生の数字ですが、長町・松ヶ枝・長土塀・芳斉の小学校は昭和30年に5200人の児童がいたのですが、平成13年には623人の児童です。すなわち金沢の都市構造としては、金沢の大事な部分の人口がどんどん減っているということです。
〇金沢の増えている人口の住んでいるところがここに示されております。DID地区(人口集中地区)といっているのですが、どんどん拡大しております。真ん中の部分が旧市街地と考えてよろしいかと思います。昭和35年度時点です。 〇その拡大する郊外居住地の典型的な例を見てみます。これは窪です。高尾のところです。黄色く塗ってあるところに団地開発をしました。光ヶ丘・額です。あとは田んぼです。これは昭和44年です。 〇6年後、ここの黄色い部分に土地区画整理事業をしました。
〇そして、そこに人が住みました。今度、新しいところをまた区画整理事業をしました。
〇そしてこのように、昭和62年にここまで住んでおります。
〇平成9年、このようになっています。すなわち昭和44年の田園地帯が平成9年にこのような高密な市街地に転換しております。先程の人口で示しましたが、旧市街地に住んでいる人口は12%です。88%がこういう全国均質な住宅地に住んでおります。
〇道路と敷地と住宅の関係を比較します。今のかたちと金沢の旧市街地。これは東の茶屋街の図面 ですが、これが金沢の古い町家の形態です。先程と全然違う形態をしております。江戸の文脈がここに入っているわけですが、金沢の今の郊外の住宅地は、これを広島だと言っても、静岡だと言っても疑わない全国画一的な街割りです。
〇これは屋根伏せです。
〇そんなかたちで金沢の旧市街地があるのですが、これから金沢をどうもっていこうかというときに、今、県庁移転と駅西が問題になっております。金沢というのは今までは、旧市街地での一点集中型、すべての機能がその都心にある。それも、都市では珍しいのですが、一回も都心を移動させていない一点集中型核都市でした。それを徐々に軸状の都市へ転換しようとしております。これが金沢の新しい構造です。たぶん21世紀はこれが推進するだろうと思います。  このような軸状都市への転換に際して旧市街地の部分をもう少し再編・修復しなければいけないだろうと思っております。前回のプレシンポジウムのときに「みやこごころ」というテーマを掲げました。都心という字を別 名「みやこごころ」と読んでいるわけです。金沢の今の旧市街地の都心はどこかと言われたときに、香林坊・南町・武蔵だと考えますと、昨日の仙台でも出ましたが、あそこは支店通 りです。金融通りです。経済通りです。すなわち、近代化の中で一番大事だと思っていた経済だけが単純機能で都心を占めております。  そうではなくて「みやこごころ」。都市が文化・遊び・驚き・興奮を生み出す拠点である都心でなくなってきたということの証明です。そのことを旧市街地に取り戻そうということがこの案には込められています。そういった都心経済の部分は軸上の駅西ゾーンなり何なりへ移して、旧市街地をもっと金沢の文脈、金沢の記憶を継続できるところにしないといけないだろうと思っています。12%の人口をもう少し増やしていかないといけないだろうというのが最後のこの図です。  ということで12時になってしまいました。皆さん方にご意見を聞くひまもなく来てしまったわけです。私も最後を少しはしょったのですが、いずれにしましても、今日は歴史的な話、あるいはハードの都市のつくり方の話を示して、金沢の都市の構造としての記憶はこういうものがあるのだというお話をしたつもりです。もっと議論をしたいところですが、また明日、全体会議がありますので、そのときに少し持ち越したいと思っております。武光さん、最後に何かありますか。
(武光)1つは、今の金沢のいろいろな工芸品が、加賀藩で江戸時代に作られたそのままのものではない点です。明治維新で金沢の町がいったん衰退しかけたときに金沢の町の人から工芸品を庶民相手に量 産化して、新たに商売としてやっていこうとする復興運動が起こって、その動きの中で上級武士相手の金沢の工芸品が新しいかたちに作りなおされたことです。  もう1つは、明治以降、金沢に文人をはじめとする知識人が非常に多く出ている点です。中でも金沢出身の三宅雪嶺が注目されます。彼は、東京で「文明開化」といわれて、ヨーロッパやアメリカのまねをするのがいいという風潮が盛んだったときに、それを修正するかたちで、明治の半ばに日本主義を唱えて日本のよさを見直そうと主張した。  今、金沢の人々は非常に勉強好きで、文化・学問を重んじる気質を持っておられる。今後、金沢が独自の工芸の伝統、あるいは学問の伝統を受け継ぎながら、東京にない独自の文化の発信地として成長していっていただきたいなと。そういうことをメッセージとして残しておきたいと思います。
(水野)
江戸時代は武家文化だったかもしれませんが、明治維新以降、思想・文学・工芸をはじめ、さまざまな成果 を金沢市民は創り出してきております。それは、町民としてかなり受け継いできている部分があったと自負していいのではないかと思っております。  同時に、私どものような建築や都市の方からこの都市を見ると、一向宗の痕跡もある、江戸はいっぱいある、明治もある、大正もある、昭和もある、そして平成もある。いろいろな時代の層がある。いろいろな価値観が一緒に味わえる、いろいろな美意識を体験できる非常に大事なところです。  これは、都市の記憶として、我々が次の世代に何かつくろうとするときのものすごいヒント、あるいは昔の人に負けてはいけないぞという励まし、いろいろなものを受けることができます。それがたぶん創造力というかたちにつながっていくのだろうと思っております。そういう意味で、我々は金沢という都市のストックをできるだけ永らえてあげることと、我々の時代が100年後に「昔の100年前の人はすごかったね」といわれるような新しい層を付け加えていくこと、この両面 が非常に大事な作業だろうと思っております。それではこれで終わらせていただきます。
(福光)ありがとうございました。あっという間に時間が来てしまいました。本当はご質問を受けようと思ったのですが、明日の全体会議もありますので、またそのときにでもお願いいたします。  両先生から「かがっぽ」の気質の根源が構造にすごく影響しているということを学ばせていただきましたし、コンピュータ・グラフィックスはすばらしい出来でした。意外に私どもは今の町並みが映っているような気もするわけです。そこがまた金沢のすごいところだというふうにも拝見いたしました。  武光先生から励ましのメッセージまでいただいて、これからいろいろ町が変わっていこうとしているときに、先々の難問も水野先生から示していただいたわけです。これからこの町をどうするのか。「構造」という切口から議論していただいただけで、これだけたくさんいろいろな記憶と将来の課題も見いだしたわけです。  それでは、これで分科会Aを終了させていただきます。皆様、両先生に拍手をお願いいたします。増田先生、ありがとうございました。それではご参加の皆様に感謝を申し上げて、分科会Aを終了いたします。ありがとうございました。