分科会2 「歴史都市の健康増進」
     
水野一郎
あんまくどなるど
     
小原啓渡 小針 剛 宮田人司
   

水野 一郎 氏(金沢工業大学教授)
あん・まくどなるど 氏(国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット所長)
小原 啓渡 氏(株式会社アートコンプレックス代表取締役、大阪市立芸術創造館館長)
小針  剛 氏(フリーカメラマン、町家倶楽部ネットワーク事務局長)
宮田 人司 氏(株式会社センド代表取締役 クリエイティブディレクター)


都市の歴史と対話してこそ、創造的文化が生まれる

(水野一郎) 金沢が歴史都市に認定されたという話が何度も出ておりますが、歴史都市に認定したときのカルテがどんなものだったか、私は見ていないので分からないのですが、どういう理由で、どういう形で選定されたかという問題が残るかと思います。確かに、金沢は古都ではありませんで、利家とまつの話がありましたように、日本中に城下町が生まれた時代でございます。すなわち、平均年齢都市といってよいわけですが、その平均年齢都市が歴史都市といわれるゆえんの大きな部分は、やはり明治維新以降に都市の歴史を激変させなかった、ゆっくりゆっくり変えてきたということだと思います。
 激変の過程で、日本の多くの都市は過去のものを否定して、捨てて、近代化や欧化、あるいは産業革命に乗る、あるいは戦後の高度成長に乗るとか、そのために戦災に遭うとか火災に遭うとか、いろいろなことがあって激変してきたわけですが、金沢のような都市は、ゆっくりゆっくり来た、緩変都市だということだろうと思います。そのために、一向宗の時代の痕跡もあれば、江戸時代もある、明治もある、大正もある、昭和もある、そして平成もあって、今もあるという、いろいろな時代の層がある、それが歴史都市と言っているものではないかと思います。だから、中世都市でも近世都市でも、あるいは古代都市でもない、歴史的重層性のある都市というふうに考えていいのではないかと思っています。

 そういう歴史都市ですが、認定された関係で歴史というものだけに頼っていくと、何となく古びてしまって、元気がなくなってしまうのではないか。歴史都市に認定されたカルテ、すなわち健康診断書は健康だよといってくれるのですが、ずっとそのまま生活習慣病か何かに陥ってしまって、弱っていってしまうのではないかというのが、健康増進ということを考えたところです。

 健康であり続けるためにどうしたらいいのか。あるいは、創造都市ですので、強い生命力とか、旺盛な創造力を持ち続けるようにするにはどうしたらいいのかというのがテーマです。すなわち、歴史都市でありながら、どうやって健康増進をしていくかということを、今日は4人のパネラーの方々と一緒に話し合いたいと思っています。
 それでは早速、あんさんの方からコメントをいただきたいと思います。あんさん、それから小原さん、小針さん、宮田さんの順でお願いします。


(まくどなるど)国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのあん・まくどなるどです。ご存じかと思いますが、去年の4月、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットが設立され、私はその初代所長として金沢に住むことになりました。我々は、里山・里海を対象とした研究活動を中心としてやってきているのですが、今日は職場というか、ユニットの所長としての話というよりも、金沢の町家を借りて暮らしている一人の人間として話をさせていただきたいと思います。
 私は実は金沢に来る前までは、日本の田舎を中心に、およそ20年間暮らしてきました。最後に暮らしたのは、宮城県のかつて城下町であった松山町というところです。青葉城の次の城下町で、そこにおよそ8年間暮らしていました。私はカナダの出身なのですが、いつも思うのは、言うまでもないことですが、やはり現代は歴史の産物であって、歴史観のない国、まち、社会は、非常に健全ではないということです。
 私は歴史観のあるまちに常に住みたい人間の一人で、こちらに来たときにも、歴史観のある建物で、建物だけではなくて総合的な歴史観のある空間の中で暮らしてみたいということで、市役所の山出市長をはじめさまざまな人にご相談したところ、東山辺りはいかがでしょうかということで、いろいろ紹介してもらいました。それで2008年の6月にムービングデーを迎えて、宮城県からこちらに引っ越すことができました。
 今日のテーマは健康増進ということですが、やはりまちの健康状態、あるいは歴史まちとしての健康増進ということを考えると、私はやはりまちの健康状態は、まず個人から始まるのではないかと思います。別に斬新な言葉ではないと思いますが、やはり個々人の精神状態がきちんと健全であれば、そういう人たちが集まれば、健康なまちの維持・増進もできると思います。そういう意味では、やはり東山を中心にして生活したりすると、まず自分一人の、個人の健康維持・増進を考えていくときには、フィジカルなものだけではなく精神的な部分も、やはり両方とても大事だと思うのです。
 歴史のまちとしての金沢の中で暮らしてみると、ひがし茶屋街の町家が多いところだけではなく、お寺や神社もあったりして、その中を歩く人間も非常に健全だなと感じるのです。やはり自然界が人の営みをつくり上げていく部分があって、逆にその自然界から生まれてきた人の営みをベースにして、また新たな文化がつくられていったりするので、建物だけでなく、自然界との融合がとても大事だと思います。
 やはり金沢は川のまちであって、河川や用水、緑だけではなくて水というものが常に流れていて、その音がする。我々の無意識のところでの健康維持も、古くからある自然界が、今日の健康状態も支えてくださっているのではないかと思ったりしていて、金沢に毎日はいないのですが、いる日は必ず、朝あるいは夕方、近所の浅野川をジョギングしたり、歩いたりしています。そこが精神の一服の場でもありながら対話の場、一人の一服の場でありながら、すれ違う人たちとの対話の場でもあり、また友禅流しの場でもありながら、スポーツと文化が浅野川沿いで生き生きと保全されているような気がしています。
 また、そこの周辺で自分の個人的な健康維持で考えてみたりすると、やはり銭湯ですね。町家保全は町家という建物だけではなくてまち全体を保全していると思うので、銭湯文化がものすごく私は大事だと思うのです。やはり対話の場が常にあることが大事だと思うので、食卓、また狭い廊下で迷子になるときにそこで誰かとすれ違ったりして、そこで一つの対話が生まれてきたりするとか、また夜の銭湯の場で、他人でありながら、そのうち対話が成り立っていったりといろいろあるのですが、やはり健康維持は、くどくて恐縮ですが、精神と体力を個々が維持していき、そこからまち全体の健康増進にもつながっていくのではないかと思います。

 健康維持は大事だと思いますが、ガチガチの保護ではなくて、やはり保全が大事だと思うのです。その健康維持の中で、柔軟性も大事だと思います。今日、パート1でさまざまな画期的な発表があって、柔軟性をまちの中でどうやってつくり上げていくかという話だったと思いますが、実は私がこちらに来て感じたのは、歴史を保全しながら、かなり斬新な柔軟性を持つ金沢もあるということです。

 我々のユニットで去年の9月に、里山里海生態系評価プロジェクトの日本全国の第1回の会合があって、70人ぐらいの研究者が金沢に集まりました。北海道から沖縄まで、また海外の人たちも来たので、金沢なら金沢でしかできないような宴会をやりましょうということで、町家を使ってというか、武家屋敷の中で何か宴会ができないかと、鏑木さんに無理な相談に行ったのです。そうすると、非常に寛大で、さすが歴史観のある人たちだなと思ったのですが、貸切状態にしてくださって、どの部屋でも入ってもいい。重要文化財の九谷焼が置いてある部屋でも大丈夫、飲みながら食べながら、飲み放題食べ放題のパーティー、宴会場を作ってくださいました。そういう歴史あるところでの夜の宴会は、また、我々の精神的な健康維持にもなると思います。

 歴史まちとしての健康維持を考えていくときには、やはりまず経済構造を維持しなければいけません。金沢経済同友会はまさにそのシンボルで、シンボルであるだけではなく、実際歴史としてのまちを維持してくださっています。やはり経済構造が歴史保全を評価しなければ、消されていくのです。日本のあちこちのまちはそれを語っていると思うのですが、歴史がここで健康的に維持されているということは、まず経済基盤がそれを評価して、保全・保護でなく生きた歴史のまちを保全しようとしているということなのです。
 もう一つは、やはりメディアです。北國新聞をはじめ、こちらの新聞紙、テレビ報道を見ると、必ずどこかに歴史に触れる記事があります。これは市民の潜在的な意識にメッセージを送っていると思います。
 最後はやはり、何より行政です。私は昨日、たまたま山出市長にお会いしましたが、彼は政治家というよりも哲学者だと思います。彼をはじめ、哲学を持つリーダーが行政のトップにいるかいないか、それによって歴史のまちとしての健康維持が全然違ってくるのではないかと、総合的な健康維持者がいるからこそ、健康維持・増進もできるのではないかと思います。長々とすみません。ありがとうございました。

(水野一郎) 健全で繊細な感性をお持ちで、町家の空間、水の音、風の香り、あるいは人の付き合い。銭湯で背中なんか流しているのですか。

(まくどなるど) そうですね。金沢には銭湯がたくさんあって、特に東山辺りには、私の家から歩いて15分ぐらいの距離に4〜5軒があります。本当に皆さん、非常に気楽にお互いの背中を洗ったり、洗いながら会話があったりしていて、なかなか風情のある銭湯文化がこのまちにはあるのですね。

(水野一郎) そういうところと、あるいは金沢経済同友会のこういった文化活動、あるいは行政の哲学、そういったことを含めて、この都市を健全にする、健康にするのは人ではないかということが中心ではなかったかと思います。
 それでは次に、アートプロデューサーの小原さん、お願いします。

(小原) アートプロデューサーとご紹介いただきましたが、いつも困るのです。というのは、官民協働という言葉がありますが、何か自分自身が官民協働のようなところがありまして、市の方は指定管理という形で二つぐらいの拠点をやらせていただいておりまして、大阪府の方は非常勤という形になりますが、今、マスコミ等をにぎわしております橋下知事からの依頼で、週2日ほど府の方にも行っていて、府の文化政策をやっています。あと、民間としても、今からざっと紹介しますが、幾つかの施設を運営しておりまして、そういう意味で自分では、ソーシャルアントレプレナーという言葉を皆さんご存じだと思いますが、こんな言葉はきっとないと思うのですが、カルチュラルアントレプレナーだと思っております。
 最近、税収の激減等もありまして、行政の方も文化予算等のカットが続いておりまして、これは文化予算だけではなく、従来、公共の方に頼りがちな市民サービスの部分、福祉であるとか教育、文化というような部分が、なかなか行政だけに頼ってはいけないという時代になってきました。そういう中で、利益を追求するという形での起業ではなくて、行政の市民サービスというものを肩代わりしていくような業態、それも補助金や助成金というものを基本的に頼りにしないビジネスモデルを作ることによってそれをまかなっていくという形の、特に社会起業というよりは文化起業の部分を今までずっとやってきました。
 現在やっている部分だけをざっと写真等でお見せします。

 これはART COMPLEX 1928というものです。京都にあるこのビルは1928年に建ったもので、近代建築を文化、アートという切り口で何とか残していこうという形で、10年前に始めたホールです。こういうホールで写真展をやりましたり(これは荒木さんの写真展ですね)、エキシビションをやったり、舞台やショーをやったりということをしているのがART COMPLEX 1928です。

 あと一つ、指定管理者としてやっております大阪市立芸術創造館というのがあります。これはインキュベーションセンターで、ダンスや演劇のレッスンができる稽古場や劇場、あるいは録音スタジオなどがあるような施設です。これをやろうと思ったのは、指定管理というのは一体どういうものなのだろうということで、僕は自分でやってみないと気が済まないものですから、指定管理の制度ができて最初に手を挙げてやってみたということです。

 あと一つ大きくやっておりますのが、クリエイティブセンター大阪といいまして、これは大阪なのですが、4万平米ぐらいの造船所の跡地です。二つのドックと幾つかの倉庫が、15年ぐらい何も使われないでそのまま残っているということで、その場所を何とかアートという切り口で活性化できないだろうかということで借りて始めたもので、2000〜3000人クラスの野外イベントが大体週末ごとに行われています。

 これは夜の風景です。その中でどんどん倉庫を改装していった例ですが、先ほどの建物の4階にある、昔、船などを実寸大で設計していた場所を、インスタレーションやファッションショーなどに使っています。ここはタッパがなかったものですから、1階と2階をくり抜いてこういう空間を作って劇場にしたり、下のブラックチェンバーというところも改装して、ギャラリーを作ったり、カフェを作ったりということをやっております。ここは違う棟になるのですが、スタジオを作りました。STUDIO PARTITAというのですが、ここは音楽コンサートをしたり、ライブイベントやクラブイベント等をする施設にしています。

 また、CCO(Creative Center OSAKA)のちょっと外側に古い旅館がありまして、そこのオーナーさんが亡くなって、ぼろぼろだったのですが、ここの旅館業を引き継がせてやるからやらないかということで始めたのが、アーティスト・イン・レジデンスです。長期で滞在されるアーティスト専用に、本当はぼろぼろだったものを全部自分たちの手でセルフメードで作っていった場所です。ここにアーティストが滞在して、CCOの方でいろいろと制作されたりしています。CCOの一つのテーマである、一時代を終えた産業遺産を何とか活用して、まちの活力につなげられないかということを考えてやったものです。

 他にもいろいろなプロジェクトをやっておりますが、今回の「都市の生命力」「健康増進」というところで面白いかなと思うところについて言いますと、まちの中の地域財産というものをどう生かしていくのか。地域財産の中には、もちろん技術なども含めた「人」と「もの」と「場所」があると思うのですが、その辺でまず「人」という意味でやっているのが「200DOORS」です。これは3年目になりますが、ノンジャンルでワークショップを200集めた、いろいろなワークショップの見本市のようなものです。いろいろなジャンルのワークショップを1カ月ぐらいの間にやっておりまして、200人のワークショップがあるということは、200人の面白い人がいるのではないかということで、これも数がどんどん増えていっておりまして、今年は300をやる予定で、仙台の方でもやりたいということで、今年の夏には仙台の方でもこのDOORSというワークショップフェスティバルが開催される予定になっています。

 まちの中にいらっしゃる非常に面白い方々、いろいろな技能を持った方々、そういう人たちを紹介すると同時に、そういう人たちと交流を深めていただくというようなことで、4000人ぐらいの方が参加しておられます。

 人に関してはそのようなことかと思いますし、場所的なところで言いますと、造船所の跡地でやっていますNAMURA ART MEETINGがあります。4回目になりますが、これもだんだん知名度が上がってきました。これは今年やったものですが、倉庫の中にヤノベケンジさんの作品を置いてシンポジウムを開いたり、水都大阪と連携した企画では、やはりヤノベケンジさんの作品で「ラッキードラゴン」という火を噴く船、これも一応、現代美術なのです。これを水都大阪にリンクさせて運航したりしました。これは、ラバーダックという巨大アヒルをオランダの方から呼んできてやったものです。コンサートや、倉庫に巨大なスクリーンを張ってそこでアート作品と生演奏をするという試みや、夜はクラブで朝までというような形のことをやっていたりします。

 まちという意味では、まちの中をプロジェクションで彩るということをずっとやっておりまして、これはそのうちの一つです。京都の三条通というところにART COMPLEX 1928があるのですが、72カ所ぐらい、まちにいろいろな建物をプロジェクションしていくということで、今年やったのがマンガミュージアムです。こういう形で完ぺきにカスタマイズされた、これは映像ではないので分かりにくいですが、こういうものが映像として映っているというプロジェクトをやっております。

 これはパブリックアートといわれるもので、十数メートルのアヒルなのですが、大阪の天満橋にこういうものを設置して、皆さんに親しんでいただく。水都大阪というプロジェクトには約190万人のお客さんに来ていただいたのですが、ラッキードラゴンとこのアヒルが話題をさらいまして、ユーチューブ等を調べていただくといろいろな映像が出てきます。

 今取り組んでいるのが、一つは「チケッツ」という事業です。これは経産省と組んで始めたものですが、当日券情報というのがなかなかないのです。それを1カ所に全部集めて、ニューヨークのTKTSというところと提携して、当日券を全部集めてそれをできれば格安で売っていくという事業や、ショートプレイフェスティバルといって、15分ぐらいのパフォーマンスを何十もやっていくというものを今年もやるほか、ノンバーバルパフォーマンスを今、制作しています。これは府の予算でやっていますが、韓国ではナンタ(NANTA)とか、ブルーマン(BLUE MAN)という、海外の人が見ても楽しめるような言葉に頼らないパフォーマンスをロングランでやっていくという形で、今、作品を作っておりまして、来年度からそれを無期限でロングランしていくということを計画しています。

 今回のテーマが「歴史都市の健康増進」「都市の生命力」ということで、非常に擬人化されているのが面白いなと思ったのです。まちをひとつ擬人化してみるというのは非常に面白いと思います。例えば、「金沢君」というのがいて、「大阪君」というのがいて、「京都ちゃん」がいると考えた場合、社会の中には魅力的な人はいますよね。人を引きつける人というのがいると思うのです。そういう人というのはどういう要素を持っているのかと考えると、非常にまちの魅力づくりが分かりやすくなってくるのかなという気がするのです。
 人にはキャラクターというものがありまして、やはりキャラクターも非常に大事です。あるいは、職業も人にはあります。例えば、誰々さんはお医者さん、誰々さんはデザイナーだと、職業も一つのその人を表していくものになると思うのですけれども、そういうことを考えていくと、自分の周りを見渡したときに、どんな人が魅力的なのかと考えると、やはり非常にキャラクターがあって、明るくて、豊かであると。この豊かであるというのはどういうことかというと、単に経済的に豊かであるということだけではなくて、例えば教養があったり、性格が良かったりという部分もあると思います。
 魅力的な人、例えば福光さんなどが一つ金沢のキャラクター的な形のもので都市を考えてみるのも面白いかと思います。47都道府県の「金沢君」とか「京都ちゃん」、そういう着ぐるみのキャラクターグッズが集まった会議があったら面白いなと思ったりもしますし、そういう中で、とにかく都市を擬人化した上で、どういうキャラクターを作っていくのかという観点に立って、この創造都市戦略というものを練り上げていくのも面白いのではないかと思っております。

(水野一郎) 大変アクティブにいろいろこなしておられてびっくりしました。ちょっとお聞きたいのですが、こんないろいろな活動を支えてくれる仲間たちというのですか、それがかなりいないと、これは全部できないのではないかと。例えば、200DOORSにしても、NAMURAにしても、大変なプロジェクトだなという感じがするのですが。

(小原) そうですね。一つ一つ挙げてお話ししたいくらいなのですが、人的に言うと、うちの会社の従業員という形でのスタッフは20人ぐらいしかいなくて、ボランティアスタッフの方たちに非常に活躍していただいています。うちの場合はそのボランティアスタッフの中から社員に引き上げていくというシステムになっておりまして、そういう意味ではボランティアスタッフの方たちもこういう仕事に興味のある方が、そのままこういう仕事に就いていけるというのもあって、意外にボランティアスタッフの方が集まるのかなという気もします。

(水野一郎) ボランティアというのは学生さんですか。

(小原) そうですね。学生さんもいますし、今はフリーターといわれるような方々も多いですし、それからやはりアート関係の仕事に就いておられる役者さんであるとか、そういう方たちも非常に多いです。ただ、うちの会社はそういう方たちが就労しながらそういう活動を続けていけるようなシステムを作っておりまして、仕事に就いてしまうとそういう活動ができなくなるような就労条件というものを見直そうという形でやっておりますので、うちの社員等も、相変わらず今度演劇で公演があるので何日間休みますとか、稽古があるから休みますとか、次にこういうプロジェクトがあるのでそちらの方をやりたいのでということはありますね。

(水野一郎) 実は金沢には四十何万人の人口がいますが、二万数千人学生がいるのです。その存在がまだ目に見えてきていない。そういうときに、一緒になっていろいろなことを起こしていくパイになるのではないかと思って、お聞きしておりました。

(小原) 今は当然、労働基準法やいろいろな縛りがあって大変だとは思うのですが、なるべく自由な就労条件を作ってあげるということは意外に大切なことで、アートだけで食っていくというのはなかなか難しいので、単にアルバイトという形でなくても、正社員として雇うこともできますし、その辺を整備することは大事だと思うのです。
 というのは、こういうクリエイティブな仕事をしている人間というのは、非常に独特な発想を持っていたり、アイデアを持っていたりしますので、意外にそういう人間は役に立つと思います。どんなお仕事をされていても、そういう考え方があったか、そういうアイデアがあったかということが自社のお仕事に結び付いていくということは十分あると思いますし、日本社会でそういう発想やクリエイティビティというものがブレークスルーする大きな要素になると思いますので、ぜひ経営者の方々、そういう方たちをどんどん雇ってあげて、しかもそういう方たちに活動を続けさせてあげられるような状況を作ってあげていただきたいと思います。

(水野一郎) 健康増進のためのエネルギーみたいなものですね。はい。
 それでは、小針さん、フリーカメラマンでありながら、町家のお仕事というか、何というのでしょうか、よく分かりませんが、ご本人からご説明いただきたいと思います。




(小針) 京都から参りました小針と申します。私は東京生まれでして、京都はまだ22〜23年といったところです。15年ほど前から、町家といわれる築百二十数年たったおうちを借りて、今も直しながら住んでいます。
 問題は、その町家といわれる建物を借りたときから起こりました。ずっと写真業でフリーでカメラマンをしていますが、知り合いになりましたお坊さんがいまして、私は観光客との接点があったり、一時、伝統芸能のメーキャッパーをしていたことがあります。京都ではメーキャップというと、白化粧のことをいいます。舞妓さんや芸妓さん、それからオペラや時代劇のメーキャップですね。そんな接点がありながら、古いものが好きだったものですから、まちの中を歩いていたときに、知り合いのお坊さんが、「実はまちの中には空き家がごろごろあるぞ。でも、空き家のままで放ったらかしになってるんや。もし、そういうのが好きやったら探してみたら」という一言がもらえたのです。それで私の空き家探しというのが、実は95年に始まりました。

 当時、毎日、朝昼晩、夜中、歩いてみましたが、空き家がなかなか見つかりません。というのは、京都の空き家というのは、先ほどお話にありましたように、金沢に七千数百軒の古い町家があって、1000軒が空き家だと。私が調べた当時、京都市内の中心部の四つの区部だけですが、古い町家といわれる建物が2万8000軒残っておりまして、うち2500軒が空き家でした。私が歩いたのは西陣といわれる、今も西陣織の帯を織っているところです。そこの地区だけで大体600軒ほど空き家がありました。その1エリアだけで。そのうちの100軒ほど見つかったのです。
 ただ、100軒ほど見つけるまでには、いろいろ大変なことがありました。京都の空き家は、前に使っていた人の表札がそのまま残って空き家になっています。持ち主は貸そうとしないのです。ですから、空いているかどうかすら分からないので、持ち主に交渉ができません。ですから、朝昼晩、夜中、早朝と歩いてみました。それでも分かりません。最後にはメーターを見ます。電気メーターがぴくりとも動いていないと、これは待機電力もないと思い、空き家と踏むのです。中をのぞき込むと、ガラス越しで目の前におばあさんの顔があるのです。「人んちのぞき込んで何やってんねや」と怒ってガラッと戸が開けられます。一言、「電化製品は持ってないんですか」と聞かんとならん(笑)。

 そんなことを繰り返して空き家のオーナーさんにたどり着いても、実はことごとく断られました。貸すつもりがないから空き家にしている。貸すのが怖いから空き家にしている。実は一度貸してこんなことがあって懲りた。維持していてこうこうこうだったので今は放ったらかしにしている。一番多かったのは、相続がもうすぐ発生しそうなので、人に貸したのではトラブルになりそうだとか、まともに貸そうと思ったら直してからでないと駄目ですと言われましたとか、空き家で置いていた方が融資が受けられやすいとか、いろいろな理由です。そんなこんなで、実際の問題を生で勉強できたようないきさつがありました。

 一人でまちを探して他人のうちをのぞいていますと、私に肩書きが付いていきます。最初は、「不審者」という肩書きです。それが毎日、毎日、歩いて2週間ほどたつと、肩書きが変わってまいりまして、「よく顔を見る不審者」というふうに今度は付くのです。途中ではあらゆる通報をされまして、泥棒、痴漢、放火魔、暴力団、風俗営業のマネジャー、勧誘、訪問販売、それぞれに職質まで受けました。最終的には、明治の中ごろに建ったおうちを借りることができまして、直して住み出すと、今度は「変わった兄ちゃんが入ってきた」というふうに肩書きが変わります。つまり、当時は和装産業が低迷して、なかなか難しい時期でもありまして、会社が倒産、廃業されるエリアでもあります。それは今も少しは続いているのですが、そんなところによそ者が家族を連れて仕事を持ち込んでわざわざ傷んだおうちを借りて自分で直して住んでいるというふうに言われました。そうなると、今度は地元の新聞社が取材に来ます。「昔、帯を織っていたおうち、120年たった格子戸の奥で、今、写真を撮っている」というような小さな写真記事が載ると、1日60本以上の電話が鳴り響きました。きりがないのでいろいろ話をまとめて、私が町家を探したときの経験談でもよかったらお話ししましょうと言って、その知り合いのお坊さんの大きなお部屋を借りたら、これまた70人も80人も集まりました。「どうやって借りたんですか」「ほかに空いているところはまだありますか」と聞いてくる人がとても多かったのです。というのは、持っている人たちにとっては邪魔者だったり悩みの種だったおうちが、実は周りの人からは魅力的だった。少なくともそう思っている人がいくらかはいたということです。

 10年ほど前まで、京都には京都市議会の中での定義として、一般市民の住んでいる町家は、20世紀の負の遺産という定義がありました。つまり、産業・観光の中心地区に低層木造旧住宅がたくさん残っているので、産業・観光の発展の妨げになっているというのが定義でした。つまり、ごみ扱いだったのです。ところが私が入ったあと、1カ月後に2軒目が決まった。その次に3軒目が決まりました。つまり、「あそこも空いてたよ」と少しずつ教えたのです。そうして3年で30軒使うことができたのです。ほとんどがアーティストといわれる方でした。西陣型、中京型、室町型と、職業と住むスタイルに合わせて、京都の町家は建て方が変わっています。西陣型のおうちには、機織り場が付いています。私の家は、4部屋プラス20畳の土間です。そこで帯を織っていました。吹き抜けで、高さが4m半あります。実はその空間は、絵を描くにも、陶芸をひねるのにも、焼くのにも、私にとっては小さなスタジオにもなりました。住みながら自分で作品を作って表の部屋で見せて売ることができる。それが大体30坪ぐらいのおうちですと、5LDKか6LDKございます。今でも京都のお年寄りは、そこら辺のおうちを家賃5000円から1万円で借りています。つまり、持ち主は家賃収入で食べていないのです。ところが、私が借りたいと思ったときに交渉した内容では、それまで借りていたマンションの家賃並みには払えますとお話ししました。つまり、5万円や8万円は払えますと言ったのです。ぼろぼろになっていますが、持ち主さんは「今までの10倍くれるの」と。それで、「ぼろ家のままであなたが勝手に直して住んでくれますか」と。同時に、ただ寝に帰るのではなく、昼間、顔の見える存在、まちの構成員になるという大前提で貸してくれたのをきっかけに、自分の城が持てるということで、アーティストがたくさん入ってきてくれたのです。

 30軒の数を見たときから、様子が変わってきました。頑なに貸したがらなかった持ち主が、「実は私も家を1軒持っている。自分で直しながらそのおうちをいとおしんでくれて、活用して、いろいろな人が訪ねてくるおうちになるのであれば、そんな使い方をするのならば、いい人がいたら貸してもいいけれども」という相談を受けるようになりました。今度は、いろいろなお店ができます。つまり、アーティストの工房、ギャラリー、ショップができてきます。聞いたのですが、この陶芸家のおうちにはどうやって行くのですか。ここで絵を描いていると聞いたのですが、どうやって行くのですか。今度はスタジオを訪ねてくる人が聞いてくるようになります。そんなことを繰り返しているうちに、この14年ほどで200軒活用することができました。定住者は今約500人です。
 
 その中で特徴的なことを申しますと、ワラビもち屋さんという小さな小さなお店でお菓子を売っているおうちがあります。そこには今現在、1年間で2万3000人のお客さんが来ます。そんな売れっ子になったお店を含めて、200軒のおうちを活用するようになって、実は地元の人からまた違う相談を最近受けています。「うちは町家なんだろうか」と。住んでいる人が、京都で代表的にいわれている町家かどうかという自覚がないのですね。京都はほとんどの場合、借家が多いです。持ち主よりも借家人が多くて、借家人である限り、町家といわないのです。京都には京町家という言葉があって、それはその人を表すステータスにもなります。成功者が大きな大きなお屋敷に住んでいる。そのお屋敷は京町家と呼びます。長屋に住んでいる人は、「私は町家の住民です」とは言わないのです。私の借りたようなおうちは、町家とは言いません。織屋建(おりやだて)のおうちといいます。ただ住むだけのおうちは、京都の人は仕舞屋(しもたや)といいます。友禅染をして布を染めていた人は、小さなおうちの後ろに15mほどの反物を伸ばせるトンネルのような工房を持っています。それは染屋造。頑丈な格子があったら米屋造、酒屋造。全部その使い方によって、建物の名前を変えたのです。

 ところが、ブームになりました。京都市が手のひらを返します。「ごみ」と言っていた町家は「京都の大事な資産」だと。そのころから、マスコミと業界・学会の人たちが、町家、町家といわれているけれども、町家とは何ですかということを聞き始めて、幾つかの条件を付けたところ、全部、町家と呼びましょうと言ってしまったので、今、実はギャップが起きています。長屋であっても、小さなおうち、平屋であっても、格子戸が付いていて土壁があって、通りには吹き抜けがあってというと、全部、町家といってしまうのです。京都の人にとっては、お屋敷の人にとっては、「あんな平屋のちっちゃいおうちと一緒にせんといて」というプライドが邪魔をします。小さなうちの人は、「町家ですね」と言われると、恥ずかしい思いもします。つまり、町家を活用するときに、もともと持っていた人たちと共通の認識が取れていますか、誰が残そうと思っていますか、そこら辺を考えたら、一番大事な人の携わる気持ちというのがよく見えてくると思います。
 全体的なお話はそうなのですが、実は私が家族でマンションから町家に越したときに、とても楽しい出来事がありました。仕事としても町家を使うことのメリットがあります。でもそこで私は子育てをして、家族をはぐくみたいと思ったのが、大きなもう一つの理由でした。プライベートになりますので、もしそれもあとからお話ができるのであれば、したいと思います。まずはそんな触りでした。ありがとうございます。

(水野一郎) 町家に入りたいという人は、何が魅力だと言ってきているのですか。

(小針) 一番分かりやすいのは、今、私の話の中で出なかった言葉、「保存」とか「活用」とか「まちのため」には来ないのです。自分のために来ます。町家の一戸建てというのは、マンションとか賃貸住宅の場合、住宅専門物件なのです。ところが、町家はオーナーさんがその人のやりたいことを許可さえしてくれたら、販売も製造も住居も認められるのです。つまり、一つの建物の中で自分の夢がかなう。それが意外とリーズナブルな値段でできる。保証金、権利金がなくても店が持てる。例えば、今はそこでカフェをやったり、ブティックをやったりしている人も増えていますが、若い人たちが自分の夢がかなえられる。持ち主はそれを応援するパトロンにもなれる。人と人の気持ちが町家というものを通して結び付けられることが、いいことなのだと思います。

(水野一郎) そうすると、そこには住むだけではなくて、何らかのアクティビティが生まれてきているということですね。

(小針) 生まれます。

(水野一郎) では、宮田さん、何回もこの会には来ていただいているのですが。

(宮田) 今、小針さんの「世界一受けたい授業」のような素晴らしい講演を聴いて、僕もすごい感銘を受けたのですが、今日、私がここに来たのは、eAT KANAZAWAという、今となっては全国的に非常に有名になりました金沢ならではのイベントがありまして、このeAT KANAZAWAは皆さんご存じだと思いますが、デジタルコンテンツやクリエイティブにかかわっている方々を1年に1度金沢に呼んで、このまちでそういう方々のお話を聞きながら、金沢でそういう方面を目指している方々を刺激して、このまちでこういう産業をどんどん作っていこうという目的もあるイベントです。

 私もそれにずっと参加させてもらっていまして、そういったことで、今は本当にこの国でトップランナーで走っているゲストの方々がいろいろいらっしゃって、皆さんいろいろな刺激を受けるのですが、それをそろそろ、eATというものを産業化していこうという動きもありまして、産業のeAT化というものをいろいろ進めているという状況です。
 このeAT KANAZAWAのイベント自体が、もう十数回以上やっていますので、これが金沢に非常に重要な資産になっているというふうにも考えています。この金沢発信の新産業といいますか、金沢モデルというものをこれから作っていこうというふうに考えていまして、その金沢モデルというものをゆくゆくグローバリゼーションといいますか、世界に向けて新しいものを提言していこうということもありまして、今日はその流れの中で、ちょっとスライドを使いながらお話をさせていただきたいと思います。

 スライドに「eATガニゲセンター」と書いています。ガニゲというのは、ちょうどこの時期のカニのことではなくて、マンガ・アニメ・ゲームというガ・ニ・ゲを取って、漫画家のしりあがり寿さんという方が命名した造語です。今までeATでやってきたようなものすべてを集約したものがガニゲだと思ってください。そのガニゲセンターというものを作ってみてはどうかという構想案です。

 この金沢というのは非常に歴史も文化もあるまちで、今日のお話でずっと出ていますが、それでユネスコの創造都市にもなった。金沢がやはり面白いなと思ったのは、工芸というものを手仕事というふうに呼んでいまして、私がやっているような仕事というのも、デジタル手仕事という広いくくりでとらえています。例えば僕らがアニメーションを作ったり、音楽を作ったり、そういうものも手仕事である、それを産業として育成していこう、そのための拠点づくりとしてガニゲセンターというものを考えてみてはどうかと。これは未来を担う知財産業、クリエイターが作り出すものすべては知的財産でありますので、これはゆくゆく非常に大きな資産になっていくであろう、それのインキュベーションですね。いろいろ書いてありますが、クリエイティブからITまで含めてとらえていったインキュベーション事業というものを考えております。それをこの町家とかそういったところも使って、今、ちょうどアーティストの方がたくさん入ってこられたというお話がありましたが、まさにそれを目指すようなことを考えております。

 このeATガニゲセンターは、実際に何をする組織なのかというところです。基本的には、インキュベーションに近いもので、プロダクションのマネジメントや知財管理、ビジネスマッチング、この辺は個々のアーティストの非常に弱いところです。個人で全部これらのサポートが自分でできるかというと、なかなかできないところで、そういったところをしてあげるというのは意味のあることであるとです。さらに、作ったものを発信していくサポートも必要であろうと。今、インターネットのあらゆるテクノロジーがそろってきましたので、こういったこともやっていこうということです。

 これは去年発表した金沢バンド構想の一部で、金沢でインフラ配信設備なども持ちながら、アーティストの方をサポート、バックアップしていく考え方です。

 あと、制作の支援機能です。これもやはり個人ではなかなか限界があるところで、そういうところをある程度サポートしていくようなことを考えてみる。これらを担うガニゲセンターというものを金沢の中心部のどこかに作って、そこの周りに町家を使ったアーティストレジデンス的なものが点在し、そのアーティストの共生の場というものを提供しよう。それをすべて産業として今後発展させていくというイメージを考えております。

 先ほど、町家の使い方、業種によって造り方も呼び方も違うとか、僕も今日そういうことは初めて知ったのですが、何かそういうことも、アーティストからしてみれば非常に刺激を受ける部分だと思うのです。「ああ、ここはこういうふうに使われていたんだ、じゃあ自分はもしかしたらその延長線上で何かできるかもしれない」とか、そういうことはやはり地元にいて初めて分かるということもありますから、このガニゲセンターというのは、そういった情報を集約しながら、アーティストの方と密に、「あなただったらこういうところがいいかもよ」というサポートなどもできると思います。

 産業としてのイメージですが、ガニゲセンターは、この金沢と人々をつなぐ手仕事のソーシャルネットワークみたいなものになるのではないか。このまちでは、これから作っていくものを含めて、文化のビジネス化ということをやっていくべきであろう。その全体をプロデュースしていくことが、ガニゲセンターの役割になるのではないか。そこで培われた人智、文化の循環というものが非常にこれからの資産になっていく、要は、まず人々がここに集い、そこで出された知恵が文化になり、それが産業になってまた人々に返っていくというイメージを考えています。

 この手仕事と我々のようなクリエイティブをやっている人間のことを、僕は脳業といっています。脳みそを使う仕事なので、こういった文化を根付かせて、新しい産業を作っていける状況に、今、金沢はあるであろうと。これは、個人もそうなのですが、例えばゲーム会社であったり、アニメ会社であったり、漫画家さんであったり、デジタルエンターテイメントを手掛けられている方々、ありとあらゆるジャンルの方々に広く知ってもらうことも、まず大事なのかなと思います。ちょっと重複していますが、そこでそのガニゲセンターは何を提供するのか。要は、常駐のオフィススペースがあったり、スタジオブースがあったり、住むところまでも含めて、あらゆる提案をしていくようなイメージを考えております。

 まず、住むということが僕は非常に重要だと思っていまして、実際に僕も金沢に来て10年近くたちます。今は東京に住んでいますが、やはりこのまちに住んで初めて分かることとがあると思うので、僕も今、こちらで生活することをかなり前向きに考えておりまして、そういう人間もこれからどんどん増えていくと思います。
 なぜここでこんなことをするのか、そういった意味も、僕の中ではいろいろ解答もあって、このあとちょっとお見せしたいのですが、僕も金沢に来て思い付いたことがたくさんあります。

 去年、この場で発表させていただいた僕の作品が一つあるのですが、それは金沢21世紀美術館で発表させていただいたアップルの携帯端末iPhone応用のアプリケーションです。これはちょうど去年の今ごろ発表して、世界に向けてこの作品を出したのですが、これは僕は金沢にいて思い付いたものです。こういったことをどんどんいろいろな人に知ってもらいたいですし、今ここに書いてあるような金沢ならではの部分も、もっと積極的にPRしていくようなことをしていきたい。今、実際、金沢を舞台にしたこういったものがいろいろ用意されているようです。これから金沢をPRするためのCMなども作られるようですし、その辺でも、このガニゲセンターというのは、今後、金沢に集ってくる人たちにとってまず窓口になり、なおかつサポートして、一緒に何か生み出していくというような組織を、この金沢につくっていくべきであろうと考えています。

 先ほどの、僕が去年発表したiPhoneのアプリケーションのお話をさせていただきたいのですが、これはもともとどんなものなのかというと、iPhone用のアプリで、世界中の人々の思い出をアーカイブしていこうというコンセプトでつくられたアプリケーションです。これは去年の10月に21世紀美術館で発表したのですが、おかげさまで今日までに全世界で50万人の方々がダウンロードされています。ここで使ってくださっている方もいらっしゃると思いますが、その50万人の方々が毎日写真をアップロードしてくるようなアプリケーションなのです。
 その50万人の方々が毎日送ってくる写真の中から幾つかピックアップしたものを、今日はビデオにしました。去年ここで発表したときにはそんなにたくさんの数はなかったのですが、今、ちょうど幾つかございます。

≪デモ「MemoryTree」≫

 68カ国から写真が毎日送られてきます。
 長いのでこの辺で終わりますが、この写真も、世界中からこのアプリケーションのためだけに撮られたものです。今、そういう写真が毎日毎日送られてきていまして、これを僕は人々の思い出というふうにくくっているのですが、今までに大体1億枚の写真がサーバーに入っています。これはもう信じられない話で、要は、これは写真を使ったコミュニケーションツールのようなものなのですが、恐らくインターネットのこういうサービスは、ほとんどのものが海外から入ってきたものばかりで、日本から始まって世界でこれだけ使われた例というのを、僕はほとんど知りません。これも、僕はこの場所だから思い付いたものなのです。だから土地から受けるインスピレーションは非常に強い。これはアーティストだとなおさらそれはあると思うのです。
 ですから、今回のガニゲセンターというのは、そういった方々にインスピレーションを与える組織でありたいと思いますし、こういったものを今後このまちで展開していきたいと思っている次第です。

(水野一郎) 今の宮田さんの最後の、都市から受けるインスピレーションという話は、最初のあんさんの話とも結び付いてくる、ぐるぐる回ってくるような感じがしますね。

(水野一郎) ちょっとそれでは私から、私は建築ですので、建築で歴史的な建築に対して現代が手を加えると過去のものが生き返る、元気になるという、そんな事例を少しお話ししたいと思います。

 これはルーブルのピラミッドです。1600年代の王宮で、そこに美術館と大蔵省が入っていたのですが、ミッテランがこれを大改造するというのでいろいろ考えました。

 その前にポンピドゥーもやったのですが、ポンピドゥーはここから現代アートを出して、現代アート美術館、ポンピドゥーセンターを造りました。
 これはもう皆さんご存じのように石油プラントのようなものが保存地区、レアール地区に出現して、パリの大問題になったのですが、今や世界で一番人が入る現代美術館になっています。

 大蔵省を出して、それからここから19世紀の印象派を出して、それをオルセーに入れるのです。そして少し身軽になった上で、さらにこのガラスのピラミッドを造るわけです。

 ガラスをピラミッドを造るのはなぜかというと、ルーブル美術館というのは、こういうコの字型をしているのです。ですから、回るときにぐるぐると遠回りしているというのですか、回りきれないような建築になっているのです。
 そこで、中庭のど真ん中に地下を掘って、そこを玄関ホールにして、全部のところへ簡単に行けるようにしようという動線改革をして、ようやっとルーブルは見やすくなりました。この大改造によって、有名なものへの早道コースとか、何とか派1日コース、3日間たっぷりコースとかと、何でも可能になったのです。
 ミッテランは、これとオルセーとポンピドゥーセンターという三つのところに世界のアートシーンを展開することに成功して、この三つが歩ける距離にあるものですから、世界の愛好家がパリに何日も滞在せざるを得ないという戦略を組んだのです。古い建物を新しいものを入れて生き返らせた上に、まち全体も活性化させたという施策です。

 その中の空間です。非常にきれいな空間です。明らかに現代なのですが、ガラス越しに遠くに見えるルーブルの古い建物も非常にきれいに見えます。非常に調和した、いい建物です。

 これはロンドンの大英博物館です。大英博物館にもべらぼうなコレクションがございまして、そのコレクションを見るのに、やはりここも中庭を囲んでロの字型になっていて、ぐるぐる回らないと見られなかったのですが、その中庭に屋根をかけたのです。イギリスの建築家、Norman Fosterです。先ほどのルーブルは、アメリカの建築家、Ieoh Ming Peiです。

 これが中庭に架けた屋根です。ぐるぐる回っていたのが、この中庭に出ることによって、休憩もできるし、近道もできるし、どんなコースも可能になったということで、非常に動線も良くなったし、それからものがいっぱい詰まっていたので、どこへ行ってもものだらけの空間しかなかったのが、息抜きの空間ができるようになったという大改造です。しかし、これは屋根を架けただけです。

 これはベルリンの現国会議事堂です。ライヒスタークといいますが、右下が1948年、終戦のときの焼けただれた議事堂で、そこに人が集まって新しい国を造ろうと言っています。それが東ドイツになって、そのまま放っておかれていたのです。東西ドイツが併合して、この古い議事堂に連邦の議事堂を造りました。そのときに、先ほどのイギリスの建築家Norman Fosterが、右の屋根の真ん中にあるドームの屋根、ガラスのキューポラを乗っけたのです。この案がコンペで通りまして、このキューポラには誰でも登れるのですが、今やベルリンの観光ガイドブックの表紙を飾っています。それほど人気のあるところです。これがその姿です。この右の写真を見れば分かりますが、ダブルスパイラルになっていまして、この上に登っていくとベルリンのまちがよく見える。それから、ガラスのやじりのような、恐竜のしっぽのようなものが右の方に付いていますが、これは下の議事堂に刺さっていまして、議事堂を上から見ることができる。すなわち、今まで帝国議会議事堂であったものが、民主主義の議会議事堂に生まれ変わる、その仕掛けとしてこのガラスのキューポラを乗っけて、そのキューポラの下もガラスにして議事堂が見られるというものです。右下の写真は議事堂から上を見たところです。

 こんなふうにして、古い歴史的なものに新しいものを加えて十分生き返っていくという、そんな事例が世界中にあります。これはご存じの21世紀美術館ですが、これも古い歴史的都市に新しいものを付け加えたというふうに十分考えていいと思います。ですから、新しいものを拒否するのではなく、どうやって古いものと対話しながらお互いに高めていくかということを、世界中でやっているということを少しお知らせしたくて報告しています。

 最後は駅のドームと、それからこれはひがし茶屋街にあった仕掛けです。

 以上、5人の発表が終わりましたが、あんさん、聞いていて何かパネラーの方に質問したかったり、あるいは何かご意見はありますか。あんさんからまずお願いします。

(まくどなるど) 頭の中で万華鏡のようにいろいろなものがぐるぐる回っていて、質問をいっぱいしたいのですが、それはさておいて、銭湯文化にまたこだわって言いたいと思います。パフォーミング・アーツとか、アーツとどうやって結び付くかということを考えていて、実は2カ月か3カ月ぐらい前の、ある場の対話をちょっと思い出しました。佐々木先生と福光さんと、21世紀美術館の館長である秋元さんとお話ししていて、大正時代の風情を生かした銭湯文化を、どうやって現代アートと結び付けるか、やはり遊び場も大事だねという話で、お酒を飲みながらではなくコーヒーを飲みながら盛り上がったのですが、パフォーミング・アーツとか、21世紀美術館の中だけの展示会ではなく、やはり町家、銭湯を生かしながら、ここを巡る、まちを回る一つのコンテンポラリーアート、パフォーミング・アーツみたいなものができたら面白いのではないかという話をしていました。つまり、いかに身近にあるものを考えなくなる、感じなくなっていく我々市民にインスピレーション、刺激を与えながら、外の力、エネルギーも取り入れて町家保全をし、new oldを作っていく、融合していくことも大事だなと思います。
 そのためには、やはり遊び心がとても大事ではないかと思います。今日の3人は、それぞれで遊びを内側にどこかで持ちながら、かなり古い文化と新しい文化をつくっていっている遊び人なのではないかと、3人の話をいろいろ聞きながら、ちょっと感じました。

(水野一郎) 小原さん、遊び人だということですが。

(小原) そうですね。やはり子どものような感覚なのだろうなと思うのですよね。何でも難しいとか、常識的に考えたら駄目だろうと思うのではなくて、やはり好きなこと、楽しいことをやっているとすごくエネルギーも出ますので、あまり常識とかそういうものにとらわれずに楽しくやっていくということは、大事かもしれないですね。

(水野一郎) 他の3人の方が町家を中心にお話になりましたが、小原さんは工場や倉庫、それからオフィスビルなどを手掛けられています。金沢にはもう一つ、大きな建築的遺産である社寺がいっぱいあるのです。これが少し元気がない状態で、いっぱいあるのです。こういう空間もなかなか魅力的な空間だと思うのですが。

(小原) そうですよね。京都等ではライトアップをしたり、特別拝観ということをやったりされていますが、どうしてもイベント的になってしまって、常にやっているということが大事なのかなという気がします。僕らも既に、京都で永運院というお寺のお庭が非常に素晴らしくて、そのお庭が見えるところがちょうど客席になるなと思ったので、そこの住職さんとお話をしまして、そのお庭自体を劇場にするという形で、常設の照明と音響を、お庭を見たときにそういう機材が全く見えないような形で配置して、一応、そこが会場になって、もう15年ぐらい、そのお庭がパフォーマンスの場所になっています。コンサートなどが多いのですが、琵琶のコンサートであるとか、ちょっとしたソロのダンスであるとか、そういうことをやっておりますけれども、本当にいろいろな方法があると思いますね。

(水野一郎) 小針さんも、先ほどお寺のお坊さんと付き合っているような話がありましたが。

(小針) お寺というのは、できたころから最先端だったと思うのです。それは、技術も医療も美術も学問も、お寺に集約してお寺から出て行きました。その元に戻ろうとすれば、何があってもおかしくない場所なのですね、実は。ですから、宗教活動がイコール布教するだけではなく、人が集まってそこで何かを得て、安らぎが伴えば、お寺はこれからいくらでもすてきな場所に変えられると思います。ただ、先ほど言っていたことの中で大事なことで、次にお話ししようと思ったのは、町家、寺社もそうですが、空いているところを「貸してくれませんか」「活用させてくれませんか」と言って口説いて使ったときにはトラブルがありました。何かで活用しているところを見て、自発的に、実は私のここを何とかしたいと本人が思って来た人は、何かトラブルが起きたときに自分で解決してくれます。それがとても今までの経験として大きかった出来事です。

(小原) 今やっているプロジェクトがありまして、それは寺社に関するもので、小豆島でやっているのです。小豆島というのは、実はお遍路さんが小豆島の中だけで八十八カ所あるのです。四国にも八十八カ所ありますが、小豆島というのはそれのもっと原形になるところで、アートお遍路というのを今やっているのです。要するに、お遍路さんというのは何かおじいちゃんとかおばあちゃんぽい世界ですが、そこをうちのアートスタッフが全部回りまして、アートという視点、アートという切り口でお遍路さんを紹介していくという形で、それをツアー化しているのです。
 例えば佐々木先生お勧めのコースとかというのがあって、単にお寺を回るというよりも、視点が違う。要するに、例えば工場や造船所などでも、持ち主の方はただのごみだと思っていたとおっしゃるのですね。でも、それが視点が変わると全然違ったものに見えてくるということで、それは寺社でも、今、仏像ということはよく言いますが、ちょっと視点を変えて、違う切り口を見せてあげることによって、それが十分魅力的なコンテンツになると思うのです。

(水野一郎) なるほど。小針さん、続けますか。

(小針) 大事なのは、持っていらっしゃる方、その人にとっていいことは何かという、わがままを含めた、出来上がればいいなということを、誰かが聞いてあげる。そして、お世話をする。ヨーロッパの方の児童心理学のおばあちゃん先生が、「communicateして、connectして、careをする。この三つのCはとても大事です」ということをよく言います。それは契約代行業が往々にして成り立ってしまうのに対して、間を取って後のケアまでしてあげるという、そのお世話方が大事なのかもしれないですね。

(水野一郎) 私のゼミの学生が町家を借りたくて、学生3人でシェアして借りたいといって、金沢のまちをずっと歩いたのですが、10軒以上断られて。

(小針) 甘いですね。僕は3000軒ぐらい歩きましたよ。もっと歩けと言ってあげてください。

(水野一郎) 13軒目に当たりまして。

(小針) それはラッキーですね(笑)。
 ただ、京都で最近の出来事で面白かったのは、約180坪、17LDK、蔵二つというおうちに、今、友禅作家さんが保証金・預け金なしで18万円で借りて5人で住んでいます。敷地だけで180坪です。多分、安いですよね、金沢から見ても。私の家も庭付きで6LDKぐらいあるのですが、それでも8万円ぐらいで貸してくれていますから、とても助かっています。
 面白いのは、うちの娘がそこで育ってきまして、小学生のころにいろいろな出来事があって、今も面白く生活しているのですが、小学校の3年生か4年生ぐらいになると、理科か生活、家庭科で家のお手伝いというのが出てくるのです。家のお手伝いを書いてきなさいという宿題です。一般の今の生活をしている子たちは、洗濯物たたみとか食器洗いのお手伝いとか、お風呂掃除とかと書いていくのですが、うちの娘はその当時、絵まで入れまして、「上の方から順番に、瓦直し、隙間詰め、壁塗り、薪割り、灰捨て、ネズミの死体処理」と、全部書いていったのですね。すると先生が、「君はいつの時代の子で、どこに住んでるんや」と言う話になって、最終的には学年全員で見学に来たという出来事につながりました。
 おまけにうちは今、まきストーブを使っていまして、冬の寒いときには暖を取っています。「まきは大変ですね」と言われますが、必ず近所で改装したり解体があります。その解体をしている大工さんに言うと、「え? まきをただでもらってくれるの」と言います。そこで出た廃材です。40〜50cmの長さにまとめて軽トラック山盛りいっぱいで、私のうちでは1カ月分ぐらいになるのですが、「長さだけそろえたらもらってくれるの」と持ってきます。
 例えばある年、近所のウエダさんのうちが二部屋ほど直して、壁・床・梁を取ったときに、廃材がきれいに一山出たのです。ということは、まきの山はウエダさんちだということが分かっているわけです。そうすると、うちにはたくさんお客さんが来ます。あのときで娘が小学校2年生ぐらいだったのかな、お客さんがいるところへ娘が帰ってきて、「お父さん、寒いからそろそろウエダさんち燃やそう」と言うのです。本人は至って普通にしゃべるのです。

(宮田) 事件ですよ(笑)。

(小針) そう、事件です(笑)。それでもとても楽しい出来事で、まきストーブに火をつけると何でも燃やしたがり病になっちゃいまして。

(宮田) ウエダさんもびっくりでしょう(笑)。

(小針) でも、ウエダさんを見ると、おかげさまで今年の冬は暖かくてと(笑)。ウエダさんは知らないのですけれどもね。でも、とてもコミュニケーションは密に取れます。そんなすてきなところを褒めてあげる。町家を残しましょう、大事な文化財ですからと説得しても、人は「うん」と言わない。褒めます。
 うちは最初、格子戸がありませんでした。うちの近所で格子戸が嫌やと言っていたおじいちゃんがいます。掃除がしにくくて、ほこりっぽくて、開けられなくて、暗くてと。でも、「格子戸いいですね、いいですね」と言い続けていたら、2年目ぐらいでおじいちゃんが「そうかな」と、変わるのです。「うちも明治やしな」とかと言いながら。最終的には僕も格子戸を作って復元しました。褒めてあげる、いいところ探しをすると、人は笑顔になります。

(小原) うちも、造船所の跡地の周りにクリエイティブビレッジ構想というのがありまして、それで民家というよりも空き家なのですが、いろいろなアーティストに来てもらって空き家に入ってもらっています。その経験で言いますと、要するに普通、賃貸をしますと、「原状復帰で返してね」ということがよくあります。でも、それをやるとまず駄目で、どういうふうに自分が改装してもいい、原状復帰する必要もないというような条件を出してあげると、やはり入ってくれる人が結構多いですね。空き家というのも、やはりそのまま置いておくとどんどん朽ちていきますし、防犯上もよくないということで、オーナーさんも、個人個人のオーナーさんでなく、いわゆる不動産業者の方々が持っておられるような部分もあるので、そういう部分で自由にセルフメードで作ったらいいという形にすると、やはり敷居が下がりますね。
 それが下がってくるのと、たくさん来るというのもあるのですが、見せてあげるのです。あまり建築家さんとかがやってしまうと、自分にはお金もかかるしできないと思ってしまうのですが、意外にセルフメードでできたものを見せてあげると、「あ、これだったら僕にもできるかもしれない」というふうに思うところがあって、それが連鎖していくということがあります。だからセルフメードで、敢えてそんなに建築家さんがばっちりリフォームするというような形でなくてやったものを、逆に見せることによってつながっていくという現象はありますね。

(水野一郎) アーティストにとって、そういう町家で活動する敷居の高さとか難しさというのはどこなのでしょうか。

(小原) 一つには、場所というのがあって、アーティストというのは、要するにそれだけで食えない場合が多いのですよ。要するに、例えばここは安いからと言っても、結局バイトをしていたりするわけで、そこからバイトするところまでの距離が遠かったら、ちょっとなということがあったりするのです。だから、どなたかおっしゃっていましたが、そのまちの中で同時に仕事のあっせんみたいなこともしてあげると、非常に下がるのです。アーティストに関して言うと、やはり本当に商品を作って売って、それで食えている人たちは少なくて、僕などは場所を提供するのと同時に、アルバイト先なども同時にあっせんしていくというやり方を始めています。

(小針) 京都では、ものを作ります。それをどこかに見せます。お店を経営すると、誰かに必ず来てもらってスタートという運命があります。でも、作家さん、アーティストなどは、そこが考える所、そこが作る所であって、売る・見せるは世界なのですね。そうすると、誰かが来てもらってお皿1個売れました、初めて電気代が払えます、2個売れました、初めて食費が出ます、ではないのです。だから、そこがアーティストにとって考えやすい場所、心地のいい場所だったら、その人はそこに居続けてくれます。そうすると、まちの構成員になってくれます。
 ただし、持ち主さんが貸したいと思ったときに、二つに分かれます。誰でもいいから1円でも高い家賃で貸したいと思う人も、当然、正直な気持ちあるでしょう。そういうときには不動産屋さんに預けて、ちゃんとしたルールの下で貸す。それもどなたかが教えてあげるべきです。ただし、昔のように、あなたにこのおうちを委ねますという、今言った改装自由、自分でメンテナンスしてくださいと言ったときには個人契約になりますから、そのときにどなたかが間に入るときには、「買取請求権を捨ててあげてくださいね」とか。つまり、直したものを持ち主さんが買い取ったりして、お金で賠償するということです。それから、原状復帰の前に、改装の前に、持ち主に一度相談をしてくださいとかというような、専門アドバイザーが必ずいた方がいいと思います。例えば、「定期借家契約があるから安心ですよ」と言って投げたのでは、実は不安なのですね。定期借家契約が持っている安全性と、裏にある落とし穴も教えてあげる。そんなことまで誰かが世話人として付いてあげることが大事かなと思います。

(水野一郎) なるほど。

(まくどなるど) 何かいろいろな話を伺っていくと、日本では町家保全はアーティスト系の人間でないといけないのかなと。フィンランドに姉が以前暮らしていて、2年前にクリスマスと正月をそこで過ごしたのですが、西海岸の方にラウマというユネスコの世界遺産指定を受けている、フィンランドで最も古い木造のまちがあります。そこを回ってみると、建物保全は義務づけられているのですが、その中にはいろいろな面白い店があるのです。例えば、木造の建物の舗道に面しているところをあちこちガラス張りにしてあって、美容室や自転車屋さんなどいろいろな、ある意味で普通のような店が、CD屋さんとかいろいろあったり、アーティスト系もあったのですが、そうではない普通の電気製品が売っている店とか。大きなガラス張りになっているので、中で動いている人間たちが、外をぶらぶら歩いている我々のための、ある意味何気ない風景がパフォーミング・アーツみたいなものに変わっていたりします。日本の町家保全は、やはりアート系のものもすごく大事だと思うのですが、私のようなアートの世界で動いていないサラリーマン、研究者みたいな人たちの町家保全する人口に、今後なり得るのでしょうか。

(小針) 京都では少しずつなってきています。つまり、多いのは、お年寄りでリタイアした人たちが、マンションのコンクリートに住むだけではなくて、小さくてもいいから障子とふすま、お庭の見えている昔風のおうちに住みたいという人がいます。でも、おうちが100年とか130年とかたっていると、どこか傷むのです。そうすると、お年寄りがただ住むだけでメンテナンスが大変になってしまう。だから実は私が入って、お隣もおばあちゃんが暮らし、裏もおじいちゃんが暮らし、実は隣も裏も、修理を担当をしていました。そういうコミュニティはあっていいのかなという気はしますね。

(小原) なんでアーティストかというと、やはりアーティストはあまりお金を持っていない。お金を持っていないのだけれども工房とかが欲しいので、広いところが欲しい。ニューヨークのSOHOなどもそうだと思うのですが、どうしても安くて広いところに入りたい。ある程度自由に自分が空間を創りたいというところで、どうしてもアーティスト系の人にいってしまう。だから、意外にそういう場所は不便な場所だったり、まちなかにある町家というのと、またちょっと離れたところの空き家やSOHOというのは、また別だと思うのです。だから、まちの中の中心地にある空き家などは、逆に言うと今では京都では取り合いというか、いろいろなレストランであるとか、そういうところが逆に取り合をしていますよね。

(小針) 「ぼろいけど安いよ、でも自分でメンテナンスしてね」でスタートしたのに、今は第3次のブームといわれているので、不動産屋さんがぼろい家が商売になると思って、がんがん食い付いてしまうのです。ですから、今おっしゃるとおり、中京辺りでは家賃100万円という町家も出てきています。それはちょっと困ったなと思っています。

(水野一郎) なかなか止まらないようでございます。せっかくこれだけのパネラーが来られていますので、何か会場からご質問、ご意見等ありましたら、どうぞ。
 雅男さん、一言ありますか。

(水野雅男) やはり京都と金沢とで随分状況が違うなというふうに思いまして、金沢ではこれから市民とかが町家に目を向けてくれると期待して、私たちは活動しているのです。そういう意味でもクリエイターのようなちょっととんがった人たちが町家を活用してくださると、そういう動きが加速するのかなと、今聞いていて思いました。

(小針) 金沢は賃貸ではなくて売りが多いと言ったじゃないですか。町家が建っている土地を売るときは、どういう売り方をするのですか。京都は「古家付きの売地」と売られていたのです。町家の評価ゼロだったのです。それがこの数年で「町家付き」といって売り方が変わってきたのです。

(水野一郎) それは同じですね。

(小針) ああ、やはりそうなんだ。本来、駄目なんですけどね。愛すべきぼろ家ではあっても、同じものがある日突然、文化財で値が上がってしまいましたというのは、実は違う見方をしていることになるんですけどね。

(水野一郎) 金沢で言うと、地価が下がっている時期に上がったのが町家の保存地区ですね。

(小針) それは町家に値が付いたという意味ですか。

(水野一郎) 町家とその辺の土地に対して。そこに進出したいという人が増えているという。

(小針) ああ、人気。

(水野一郎) 人気です。そのほかに何かございますか。佐々木先生、何かありますか。

(佐々木) 小針さんも小原さんも、京都でいつもおしゃべりをしている友達なので、今日はようこそ来ていただいてありがとうございました。
 小針さんは、例えば行政と実はなかなかフレンドリーではなかったのですね。住職の佐野さんなどとも結構激しくぶつかりながらやってこられましたよね。それから、建築基準法とか、特にさまざまな条例とか非常にうるさいものがいっぱいあって、それを結構上手に知恵を出して、抜け穴を探してやってきたというあたり、ちょこっとでいいですから、何かあれば皆さんにちょっと。

(小針) ええと、どれがいいですかね。例えば、東京の持ち主さんで町家を直した事例でいきますと、持ち主はおばあちゃんでした。娘さんが一人です。だんなさんがいます。そのおばあちゃんがある日突然、病院のベッドの下から鍵を出して、「京都に家がある」と渡したのですね。そのだんなさんが見に行きましたら、ぼろぼろのおうちが残っていた。もう売るか捨てるか壊すしかないと思ったのだけれども、よく見たら格子戸があって、今話題の京都風のおうちやないかいと。これは直るだろうかと相談を受けたのです。それを普通に直そうと思うと、大体1000万という見積もりが出ました。ただ、家をほとんど直しますので1000万でも安いのですが、まともに直すと今持っているおばあちゃんに1000万の収入が入ったということになってしまいます。そうしたらおばあちゃんは介護の保険も外されます。収入があるので税金も払わなければなりません。では、そのだんなさんが直したときにどうしましょう。その人のポケットマネーで直したでしょうか。相続人の奥さんが一人いました。その人と直した後の相続の分け方でもめることはないでしょうか。さあ、どうしましょうとなったとき、誰も教えてくれませんでした。まずは娘は建物の相続放棄手続きをして、おばあちゃんは娘婿に30万円で家を売って、息子さんは自分のお金で直しました。おばあちゃんは収入があるどころか、息子さんは年末調整でお金が返ってきましたというような出来事があったり。

(宮田) いい話ですね。

(小針) 急な階段を建て替えたいという相談があったのですが、建築基準法では建物の中で唯一、階段は重要構造物として建て替えられないのです。建築の方は皆さんご存じだと思いますが、つまり変更届けを出さなければいけない。届けを出した途端に家全体を耐震防火構造にしなければ許可が出ませんと言われたときに、果たしてどうしよう。散々悩んだのですが、今日はカメラを撮られているので残ってしまうと本当は困るのですが、急な階段がありますね。それを取って付けると駄目なのです。それで実は、「急な階段の上になだらかな階段を付けては駄目ですか」と聞いたのです。増設はいいのです。この急な階段はぼろいですから、1カ月後に「壊れてしまいましたが、駄目ですか」と聞いたのです。そうしたら担当課の人が「やめてください」と言いましたので、これはありなんだということが見つかったという出来事もありました。
 そんなことがちょこちょこと、こんなことができましたと言うと、佐々木先生が喜んでくれちゃうんですよ。ですから、また何かするたびに先生に、「こんなのがあるんですけど、聞いて」ということを言わなければならなくなるなと。
 今日は実は、小原さんとも先ほど盛り上がったのですが、佐々木先生は来年、オランダの方とアーティスト交歓交流が始まる可能性が出てきまして、またアメリカに続いてアーティストの滞在型の交流プログラムをやってしまおうかと考えております。また来年、お話が増えます。よろしくお願いします。

(水野一郎) 「歴史都市の健康増進」、結局、いろいろな町家にしても、広いからとか、大きいからというのもあるかと思いますが、やはりクリエイターが住むというのはそこに過去の時代の美意識や価値観があって、自分たちと違うものが存在しているということは非常に刺激的ですよね。そういう意味で言うと、その歴史的なものとの対話みたいな部分がかなりあるのではないかと思います。それは建築だけではなくまちなみ全体であったり、あるいは広見だったり、社寺だったり、いろいろなところであるのだろうと思います。
 先ほど、相馬さんに大内さんが質問した中で、例えばひがしの茶屋街のあの空間は、ものすごい舞台空間だと私はいつも思っているのです。あそこの2階にずっとお座敷があって、あの道でパフォーマンスをすれば、こんないい客席はないなといつも思っています。あんさん、そう思いませんか。あの空間、ああいう都市空間みたいなものも一つの財産ではないかと思っています。
 そういうことを含めて、いろいろな財産を使って小針さんや小原さんの好きなパフォーマンスを仕掛けても、何かまだいっぱい可能性があるのではないかと思っています。そういう意味では古びることだけの歴史都市から、何か歴史と対話しながら自分たちの時代のものを積み重ねていく、そういうことで健康になっていくのではないかと思います。
 宮田さんのように、もしかしたらそこから、先ほど飛田代表幹事が言っていましたが、産業が生まれるかもしれないということも予測されるし、アートの人たちから見ると、それが影響していろいろな地場の繊維産業や機械産業に波及するかもしれない。何かそんなようなことも考えられるのではないかと思います。そういう意味では文化の厚みというものを押し出しながら、さらに産業の創成まで含めれば、この歴史都市の健康増進というものは、多分、我々にとって生命力なり創造力なりを与えてくれる仕掛けではないかと思いました。時間も1〜2分過ぎましたが、これで終わらせていただきたいと思います。

(司会) ありがとうございました。歴史都市の健康増進の意味合いが深められた、大変楽しいセッションでした。今一度、盛大な拍手をお願いいたします(拍手)。
 ありがとうございます。それでは先生方、いったんお席の方にお戻りくださいませ。
 本日は、飛田代表幹事の基調講演に続きまして、10年間の活動をDVDでご覧いただきました。また、最初のセッションでは、「創造都市の“新”活動」と題して討議を深めていただきました。続いて「町家の現状報告」、そして今ほどのセッションでは「歴史都市の健康増進」についてご討議していただきました。ありがとうございます。
 それでは、これまでのまとめのスピーチを、大阪市立大学大学院教授の佐々木雅幸様よりお願いしたいと存じます。お願いいたします。

(佐々木) どうもありがとうございました。今日は、私どもが約10年かけて進めてきた創造都市会議というものの、いったん最初の10年がほぼ終わるというか、その節目に歴史都市という指定と、それからユネスコの創造都市ネットワークへの登録という、二つの出来事が見事に波長が合いまして、第一段階まで来たなということだったので、この次の10年とか5年とかいうものをどのように展望していくかということを考える素材を出してもらおうということで、二つのセッションを企画したわけです。その意味では、もう十分すぎるぐらいの非常に多様なダイバースといいますか、異なったポイントからのアイデアがたくさん、あふれるばかり出てきたと思います。ゲストでお招きした皆さん、本当にありがとうございました。
 私自身の感想で申しますと、いみじくも冒頭、飛田代表幹事が言われましたように、創造都市という言葉に恥じらいを感じるという、これは大変大事なことだと思います。僕は、恥じらいを感じない、つまり含羞といいますか含羞都市、恥じらいを持っていない都市というのは、文化都市ではないと思うのです。
 福光さんのお父さんに昔教えられたことがあって、金沢の文化というのはどういうものであるかと。例えば、金沢城の石垣の石、見えているのはごく小さい部分であって、その奥にずっと大きな石の本体があるわけで、本当に一部しか見えていないわけです。やはり、すべて見せては駄目で、見る方はその奥行きが分からなければいけないのです。つまり、受け止める力があるかないか。文化都市の深みというのは、そこを訪れて観賞する側も試されるといいますか、そういうことを教えられて、非常に恥ずかしい思いといいますか、した覚えがあります。それ以来、恥ずかしさというのは大事だなと思っています。ただ、一方で、1997年ですが、『創造都市の経済学』という本を、金沢にゆかりのある勁草書房から出したときに、当時は八田さんが社長さんでしたが、水野先生のところに持っていったら、「いや、よくこんなタイトルを付けるね、君は」と言われたのを今でも覚えています。世界でもあまりまだそういう言葉が一般化していなかった時期で、日本でも当然ですが誰も使っていなかったのです。それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、つまり恥じらいということと同時に、何といいますか、思いきりのよさといいますか、あるいは今日挑発とか挑戦という言葉が出ましたが、野心といいましょうか、この両方がうまくバランスが取れていないといけないと思うので、金沢は創造都市への挑戦をするというふうに本の中に書かせてもらって、それが一つの段階に到達したのだと思います。

 ユネスコ創造都市に認められたということは、ゴールではない。つまり、これはスタート地点ですから、もういっぺんゼロから新しく次のあり方を考えてみたいというふうに考えたので、歴史都市の中に創造性を見るし、創造都市の中に歴史を見る。つまり、この二つのセッションというのは、そういうふうに非常にリンクして、行ったり来たりしながらものを考えるように設定されたと思うのです。お話の中にも、町家だけれどもそこに先端的なアートがあったり、あるいは先端的なアートを古いまちのスポットでやってみたりと、いろいろな交互な事例が出てきましたが、そういう中でやはり大事なのは、いろいろなアイデアがあって、いろいろな事例がある中で、これも飛田さんが言われたのですが、金沢弁で考えたいと。つまり、ほかのどの都市でもない、どの地域でもない、サイトスペシフィックなというのは相馬さんが言われたことですが、その場所でしかない言葉、あるいは感性に全部置き直してみるという作業、そういったことが、金沢が世界の創造都市として、尊敬されるかどうか分かりませんが、そういったところにいくことになるのかなと思いながら聞いていた次第です。
 明日は市長もお見えになりますから、この次の新しいプログラムについて、幾つか方向が出せればいいなと思っております。今日はどうもありがとうございました。

 
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