分科会1 「創造都市の“新”活動」
     
大内 浩
増渕敏之
     
相馬千秋 傍士銑太  
   

大内  浩 氏(芝浦工業大学工学部建築工学科教授)
相馬 千秋 氏(フェスティバル/トーキョー プログラ・ムディレクター)
傍士 銑太 氏(日本経済研究所専務理事 兼 地域未来研究センター長)
鱒淵 敏之 氏(法政大学大学院政策創造研究科教授)



挑発する仕掛人の存在が文化創造に不可欠

(大内) 皆さん、こんにちは。先ほどこれまでの10年の映像をみていまして、随分いろいろなことをやったなというふうに考えております。今日は、それはそれとして、新たに何かここから再出発をしなければいけないということで、敢えてセッションのタイトルを「創造都市の“新”活動」というふうにしてみました。
 その趣旨について簡単にご紹介いたします。先ほどから代表幹事、代表副幹事のおふたりからいろいろ説明があったように、2009年6月にユネスコのクラフト創造都市i
金沢市が認定されて、「金沢の手仕事を世界へ」といった副タイトルも付けられているようです。
 それに関連して、例えば、つい10月には先ほどご紹介のありました「世界創造都市フォーラム in KANAZAWA」でありますとか、「おしゃれメッセ」でありますとか、「世界工芸トリエンナーレ」という3年に1回の工芸イベントのプレ開催というようなことも行われてきました。
 お手元に「きらめく城下のまち・金澤」というパンフレットがあるかと思います。あとでご覧になっていただければ結構なのですが、金沢市は創造都市の指定を受け、その推進プログラムとして、一つは文化のビジネス化、2番目に次世代を担う人材育成、3番目に世界への発信という三つの重要な課題に関して、これからさまざまなプログラムを立ち上げていこうという決意を述べられています。
 ただし、それではあらためて創造都市・金沢を確固たるものにするためには、私たちは一体何をするべきなのか。先ほど代表幹事から、「創造都市の定義というのは、創造的な文化の営みと革新的な産業活動の連関によって活躍する都市」というようなお話がございました。そこで、本日は、ここにお招きしたゲストのお三方、大変幅広く活躍されているゲストをご紹介しながら、その趣旨をご紹介します。
 文化創造というのは具体的に何だろうということですが、私は三つの仕組み、あるいは三つの役割があるように思います。文化というと、演劇あるいは音楽がまずあげられますが、ここでは文化というものにスポーツも含めておりまして、幅広い私たちの日常のもの、あるいはプロフェッショナルなものも含めて文化活動だと考えています。
 皆さんよくご存じのとおり、例えば役者さんをどなたにしよう、どういう役者さんが演じられているか。あるいは、どういう演奏者が演じられているか。あるいはどういう作家がいるのか。もちろん、小説の作家もいれば、工芸の作家もいます。いろいろな作家がいるわけですが、そういう方たちも演者のうちの一人ではないかと思いますし、スポーツであればプレイヤーという言い方もあるかもしれません。こういう方たちは、まさにそこで演じていますので、ある意味で私たちには非常によく見える存在としてあります。もう一つ、そういう方たちがどういうところで活躍されるかという「場」も必要です。それが劇場であったり、美術館であったり、あるいは展示場だとか、野球であれば野球場、サッカーであればサッカー場ということになりましょうか。そういう場がなければ、彼らはそこで演じることができません。

 この二つは非常によく分かるのですが、実はこの二つだけでは文化創造はできない。もう一つ、非常に大切なのが仕掛け人です。仕掛け人という言葉を敢えて使わせていただきましたが、別の表現であれば、例えばプロデューサーでありますとかプロモーター、プロダクションというような言い方もあると思いますし、企画をしている方、あるいは広報、宣伝役をやっている方等々、非常に広い方たちが何らかの形で仕掛け人となって、いろいろなプログラムや、演者あるいはその場を有効に使うということ、演者が演じやすくなるように、そして場を有効に活用するように考えていらっしゃるから、実は文化がつくれるということであると思うのです。では、仕掛け人とは一体何なのかということで、今日はお三方においでいただきました。

 相馬さんは、フェスティバルトーキョーという大きな演劇のプログラム・ディレクターです。実は私は今日初めて相馬さんにお会いしまして恐縮ですが、相馬さんが仕掛け人としてどういうことをしていらっしゃるのかということを、仕掛け人のお仕事のご紹介も含めて、最初にプレゼンテーションをお願いしたいと思っています。傍士さんは実は銀行マンなのですがプロスポーツの仕掛け人でもいらっしゃいます。増淵先生は音楽についての仕掛け人でいらっしゃいます。まずはワンラウンドしていただいて、それぞれお話をしていただこうと思います。それでは、相馬さんの方からよろしくお願いいたします。


(相馬) 私が金沢にお伺いするのは、実はもう何度目かです。ナント市というフランスの都市から、市長をはじめ文化関係の一行が、金沢市を視察に訪れました。既に3〜4回お邪魔しているかと思いますけれども、その際に、私はかばん持ち・通訳のような形で、市長さんや文化担当の方々のお世話をするためにお伺いさせていただき、山出市長はじめ皆さまに大変お世話になりまして、金沢の最も素晴らしい文化的な拠点ですとか、歴史的なエリアを見せていただきました。そういった金沢の素晴らしい景観や文化的な活動が、今日この場にいらっしゃる皆さま方のご努力によって培われてきたものであるということを、今日あらためて拝見しまして、非常に光栄に思っております。
 今申しましたとおり、私は学生時代にフランスにおりまして、フランスで文化政策やあるいは都市における文化活動について、専門的に勉強をしてまいりました。リヨンというまちなのですけれども、都市の規模としては金沢と同じぐらいで、非常に住み良い、素晴らしい文化都市です。リヨンもユネスコの創造都市に認定されておりまして、今日は後半の議論の方でリヨンの話も少しずつさせていただきますが、まずは私が今、横浜と東京で行っている活動についてご説明させていただきたいと思います。

 私の仕事を一言で申しますと、大内先生の方からお話があったとおり、仕掛け人ということになるかと思います。演劇やダンスを中心とした、いわゆるパフォーミング・アーツの分野です。一言でプロデューサーといっても、いろいろなタイプの人がいるわけですが、私自身はこの仕事を始めてから、いろいろな形はあるのですけれども、常に行政と一緒にアートプロジェクトを立ち上げるということをやってきました。行政と一緒にやるということは、具体的に言いますと行政機関が作った枠組み、あるいはそこにある資金、公的なお金をいただいて、そこに我々文化のプロフェッショナルが、何かその都市に対してできることを提案するという形で、文化事業をやってきたということです。
 ですから、例えば完全に民間のプロデューサーであれば、必ずしもそういった都市に対する応答というか、提案というのを考えなくてもいいと思うのです。個人のプロデューサーがやりたい、信じることを実現していけばいい。ただ、私の場合は、やはり公共のお金を使って、都市のローカリティ、リアリティに対して、どういうアートプロジェクトを立ち上げるべきかということを割と意識して活動してきているような気がしています。私の具体的な活動の場として、今日は横浜市と東京都の二つの行政とのプロジェクトについて、お話をさせていただきたいと思います。

 まず横浜です。「急な坂スタジオ」という、若干奇妙な名前のスタジオを、2006年に横浜市と一緒に立ち上げました。もともと市営の結婚式場だった建物を活用した演劇やダンスの稽古場です。金沢は芸術村という非常に素晴らしい稽古場をお持ちですけれども、横浜には稽古場がなかったわけで、こういった結婚式場をリノベーションする形で、再生して使っています。
 ところが、ここは私どものNPOと横浜市で共同で立ち上げはしたのですけれども、実際にはスタジオですので、この中で作品を上演するということは難しいわけです。

 スタジオの中のスペースをご覧いただきたいのですが、ここは昔、神前結婚式をやっていた場所であったり、例えばホールにはシャンデリアが付いていて、まるでこのホテルの会場そっくりなのですけれども、かなり寿な感じのスペースになっています。こういうところであっても、演劇やダンスをやる人にとっては場所があるということが非常に重要で、ここに値段が書いてありますけれども割と安価な形で、民間の稽古場に比べればだいぶ安く提供することができています。
 ただ、こういった作品を作る場所ですと、どうしても内にこもってしまって、外に対するアプローチがしづらいということがあります。私が2006年にこのスタジオを立ち上げてから、作る場所としてはここは機能するだろうけれども、それを都市空間の中にどうやって出していくか。作ったものの成果をどうやって都市の中で問いかけていくかということを考えまして、幾つかの都市空間における演劇の新しい形というものを模索しました。

 一つの、具体的な例をお見せしたいと思います。去年、ちょうど1年前にやった『ラ・マレア横浜』というプロジェクトです。アルゼンチンのマリアーノ・ペンソッティというアーティストを1カ月間レジデンスで呼び、彼に戯曲を書いてもらい、かつプロジェクトのコンセプトを作ってもらいました。これがどういうプロジェクトかといいますと、吉田町という横浜の関内からほど近い、ぱっと見は何ということのない商店街です。このストリート全体を劇場に仕立ててしまおうということをやりました。

 これが吉田町という通りで、関内の駅から徒歩2〜3分なのですけれども、割と空き店舗も多く、それほどにぎわっている商店街ではありません。ここで九つショートストーリーを同時に展開するという演劇作品を作ったのです。ちょっとDVDでご覧になっていただきたいと思います。

≪映像『ラ・マレア横浜』≫

 夜、交通規制をかけて、車の通りを全面的に止めています。パフォーマンスを始めるために、商店街の空き店舗とか、あるいは既にお店が入っているところをこの公演のためにわざわざ借り受けて、そこに、ある虚構の場面を九つ仕込みました。俳優さんは、彼もそうですし、実はこの通りがかりのカップルも出演者なのですけれども、九つの物語が同時に進行し、お客はそれを通りの側から見るというものです。
 俳優たちが考えていることが全部字幕という形でプロジェクションされまして、それが演劇の戯曲というか、ストーリーを伝える手段になっています。これは極めてリアルに見える本屋さんですが、これも実はフェイクで、全部作っているのです。
 この車イスの方がお客さんで、どこまでが俳優で、どこまでがただ通りがかった人なのか、ちょっと分からないような、現実とフィクションが混在するような形の演劇作品になっています。

 こういうキスシーンなども出てくるわけですけれども、普通の居酒屋さんの前で起こっているパフォーマンスで、後ろにいる人はただの居酒屋のお客さんだったりします。これももちろん舞台として作っている虚構のリビングなのですが、あたかも本当にまちのある一つの風景のように見えます。

 写真の彼がマリアーノ・ペンソッティというアルゼンチンのアーティストです。この作品のためにアルゼンチンからわざわざ来まして、1カ月横浜に滞在して、横浜ならではのストーリーに書き替えてくれたわけです。

 この作品の上演は、10月の3日間かけて3回公演を行ったのですが、最終日はあいにくの雨になってしまいまして、なかなかお客にとっても辛抱強くあらねばならない状況だったわけですけれども、それでも多くの方が鑑賞してくださいました。

 これももちろんフィクションです。演出家が役者に、雨の中だけど続けられるかという、演出の指示を出したりしているところです。

 残念ながらバイクが事故を起こして倒れているというストーリーのシーンに関しては、雨が激しくて途中で断念してしまいました。

 商店街が、あるアーティストのアイデアによって劇的な空間に様変わりするという、一つの例としてとらえていただければと思います。
 横浜市には、皆さん既にご存じの方も多いと思うのですけれども、日本の中でも創造都市の先駆けとして、この5年ぐらい非常にアクティブな活動をしておりまして「急な坂スタジオ」も、その一つの重要な創造界隈形成拠点ということでやっております。

 横浜市にも大枠の都市文化政策というのがあり、それに対してパフォーミング・アーツであれば「急な坂スタジオ」、美術であれば「BankART」というように、それぞれのジャンルに文化拠点を作って、一緒になってまちを文化の力で変えていこうことです。そのパートナーとして、私はNPOをやっているのですけれども、NPOであるとか民間の事業主体を巻き込んでいくという、行政と民間のパートナーシップが非常にうまくいっている、一つの例だと思っております。

 では、続きまして、東京の方をご紹介したいと思います。
 東京都は、皆さまご存じのとおり、オリンピック誘致に大変熱心に頑張ったわけですが、残念ながらオリンピックは2016年は来ないことになりました。ただ、そのオリンピック誘致の一環で、盛り上がったのか、文化も頑張ろうと。東京から文化を世界に向けて発信するための一つの枠組みとして、東京文化発信プロジェクトという、パンフレットの上にロゴが付いておりますけれども、こういった新しい枠組みが、2008年から出来上がりました。

もちろん東京都は大きな行政区であり、かつ非常にお金も持っているところですから、文化政策というのはもちろんあるわけですが、今までの東京都の文化政策というのは、どうしても箱物中心というか、美術館があり、劇場があり、箱物中心の文化政策であって発信力として世界に対しては弱い。それに対して、東京文化発信プロジェクトという新しい枠組みを作って、プロジェクトベースの事業を展開していこうということで、演劇部門に関しては世界的なフェスティバルをやることが、今回の政策の柱になったわけです。
 私どものNPOは、ずっと前から単独でフェスティバルを運営してきましたので、これを好機と考えて、行政と組んで、これだけの規模のフェスティバルを実現することになりました。

 フェスティバルトーキョーの第1回目は、春に行われました。今年の2月、3月です。第2回目が秋です。今ちょうどやっておりまして、今週のFT、今日も実は初日があって、私はここにいてはいけない人なのですけれども、東京都には内緒で来てしまいました。
 フェスティバルトーキョーは、世界的な演劇祭を目指しています。つまり、東京というまちが持っているポテンシャル、そこで舞台芸術というアートが持つ力というのは一体どういうものなのだろう、そこに東京というまちのリアルがどのような形で反映されるのだろうということを、大きな問題意識としてやっている演劇祭です。今ちょうどやっていますので、東京にいらっしゃる機会がある方は、ぜひ見に来ていただきたいと思います。

 その中でも、私がなるべく大きな軸として打ち出していることに、都市空間の中にいかに演劇あるいはアートを挿入することができるかということがあります。もちろん皆さんが通常イメージされる演劇というのは、劇場の中で、舞台の上で行われるもので、ある筋書きがあって、それをよくトレーニングされた俳優さんたちが再現する。そういうものだと思うのです。もちろんそういう演劇は、私が選んでいるプログラムの中にもあります。それはそれとして非常に素晴らしい、永遠に続く一つの芸術の形態だと思うのですけれども、一方で、今この場所、今ここでしか体験のできない、そして東京というまちの持っているリアリティが反映される演劇の形というのはどういうものだろう。それは都市の中で行われる、あるいは都市の中のある特別な状況の中にインストールされる、といった形であり得るのではないだろうかと考えまして、皆さんにとっては本当にこれが演劇なのかと思われるようなものを幾つか準備しました。今日は、その中で二つほどご紹介をして、私の自己紹介にしたいと思います。

≪映像『Cargo Tokyo-Yokohama』≫

 最初は、リミニプロトコルという、ドイツを拠点に活動しているグループです。彼らの劇場は、このトラックです。これはYoutubeの映像ですけれどご覧いただきましょう。今、東京から横浜の港湾地域で上演しているものですが、これはプロモーション映像なので、海外でやった時のものです。

 劇場の中ですが、これはトラックの荷台なのです。トラックの荷台に客が40人ほど乗って、移動しながらまちの風景を体験することが演劇であるという、そういう作品なのです。

 運転している運転手が二人いますけれども、彼らは本物のトラック運転手です。演出家と長い議論を経て、彼らがこの作品を上映している最中にどういうことをしゃべるかとか、どういう実人生を歩んできて、それをこの作品にどう反映させるかということを、一つの戯曲として演じています。

 お客さんは、トラックの片面が全部ガラス張りになっていまして、そこからまちの風景を見ることが、一つの演劇体験になるわけです。まちの風景といっても、この作品の一番のテーマというのが、物流なのです。なぜかというと、お客さんが荷物の目線でまちを見るわけで、ある物が、ある地点からある地点まで運ばれていく。そこに輸出入であるとか、あるいは経済の現状であるとか、さまざまな社会のリアリティが反映されているという作品です。

 道すがら、パフォーマーが登場してきてちょっと楽しませてくれたりもしますが、この背後には大きなコンテナヤードがあります。つまり、このトラックは、実際の都市の物流拠点を回っているわけです。普段、演劇を見に物流拠点には行かないだろうと思うのですが、そういう意外なところに連れていかれてしまう。そういう演劇です。

 運転手さんたちは、ちょっと自分の実人生も話したりして、彼ら自身の生き様も通して、物流の現実というものが伝わってくる、そういう演劇です。

 今ご覧になっていただいた海外で行われたものを、東京と横浜の港湾地域にもう一度再設定し直して作品を作り、『Cargo Tokyo-Yokohama』ということで、ちょうど先週から上演しています。これは余談ですけれども、こういった特殊な車両を日本の公道で走らせるということはものすごく大変なことで、私も大したことのないプロデューサー人生ではありますが、ここまで劇場以外の場所で演劇をやるのは大変なのかということを思い知りました。
 特に、お客を乗せて走るには旅客運送業の資格を持っていなくてはいけないのですが、残念ながらフェスティバルはそういった資格を持っておりませんので、この作品を有料で公演できないということなのです。これだけお金と労力がかかった作品を、我々は無料で上演しておりまして、今日が後半第2期のチケット発売日だったのですけれども、先ほどうちの事務所から連絡がありまして、10分で全公演のチケットが売り切れたそうです。売り切れたといっても手数料300円しかもらえないので、売っていることにはならないのですけれども、そういう無謀な、でも何かわくわくするようなチャレンジをしているということです。

≪映像『個室都市 東京』≫

 もう一つご紹介したいと思います。『個室都市 東京』という作品です。フェスティバル東京の中心地は、池袋です。池袋に芸術劇場という大きな劇場があって、ここがメーン会場なのですが、その前に池袋西口公演という広場があります。高山明さんというアーティストは、私がここ数年ずっと一緒に作品を作っているパートナーなのですが、個室ビデオ店のイミテーションを作るというプロジェクトをやりました。

 『個室都市 東京』、一応、フェスティバル東京の企画であるということは何となくは分かるのですが、ぱっと見は怪しい個室ビデオ店なのです。この中に入りますと、ビデオがと並んでいます。ビデオの中身は、この広場を通りがかった人、ここにたむろしている人のインタビュー映像なのです。インタビューの中身は30個ぐらいの質問によって構成されていまして、実はこれは昔、寺山修司がTBSの番組でやった、「あなたは」というドキュメンタリー映像のイミテーションでもあるのですけれども、「朝食は何ですか」とか、「今一番欲しいものは何ですか」とか、そういうたわいもない質問から、「天皇陛下に会いたいと思いますか」とか、「この先戦争は起きると思いますか」とか、非常にそういうドキリとするような質問まで、30項の質問を矢継ぎ早にしていくというものです。

 実際に1カ月ぐらいかけて、350名の方のインタビューを取りました。それを許可を得てこういう形で陳列をし、お客さんはそのビデオを好きなだけ借りて、この個室の中にこもって見る。中はこんな感じで、いわゆる個室ビデオ店と一緒です。畳ルームだったり、マットルームだったり、リクライニングチェアルームとかいろいろあるのですが、そういう中で見る。

 その後に、実はツアーが準備されていまして、地図を渡され、ここから出発をして、ある場所に導かれます。そこは実際の池袋にある駅前のマクドナルドの3階なのです。ところが、3階は我々が借り切ったスペースで、そこにまたインタビュー映像が流れていて、その奥に明らかにマクドナルドをイミテーションしたスペースがあって、我々がいるこちら側とはマジックミラーで区切られているわけです。中にいる人たち、つまりマクドナルドの3階と思しきところにいる人たちには我々は見えないのです。
 我々は、彼らを見て、彼らはここにインタビューされている映像としても出てくるのですが、彼らを指名して彼らとおしゃべりをするという、そういう演劇作品なのです。

 これは、いわゆる出会いカフェのイミテーションです。こういう怪しい場所に入ってきて、マジックミラーの向こう側にいる、大抵の場合、女性だと思いますけれども、そういう人たちを外から見て、この人と決めたらその人と対話をするという仕組みです。

 この作品の中では、ここで指名をすると小さな小部屋に連れていかれまして、そこで実際に10分ほどの対話を楽しむのですけれども、たわいもないおしゃべりというわけではなく、実は先ほど自分がたくさん見たインタビュー映像で問われている幾つかの質問が、自分自身にも問われるという仕組みになっているのです。
 ですから、例えば「あなたが一番欲しいものは何ですか」「天皇陛下に会いたいと思いますか」「戦争は起きると思いますか」というような質問を、今度はリアルにある人から自分が問われるという、体験型の作品になっています。

 こういった、ある東京のリアリティを反映した作品をやるということが、自分が信じている演劇の力というものを問うことにもつながっていて、ひいてはそれが大枠の意味での都市の新しい可能性を引き出すプロジェクトになるのではないかということでやっているわけです。なかなか説明するのも難しく、東京都の方々も理解してくれているのかどうか、たまに不安にもなりますけれども、こういうやんちゃなことをフェスティバルトーキョーではやっております。こんなところで自己紹介とさせていただきます。

(大内) 大変面白かったのではないかと思います。現実と非現実の行ったり来たりであるとか、あるいは都市という空間そのものをアートにしてしまうというのはどういうことなのか。後ほどその苦労話と同時に、どうやって金沢ではやるのか。最初に飛田会長から、「金沢弁でまちづくりをやれ」というご注文もありましたので、その辺の話を次にしたいと思います。
 それでは、ちょっと皆さんに趣向を変えて、今度はスポーツの話に移ります。スポーツというと、皆さんの意識の中ではこれが文化なのかと。場合によっては肉体をいじめて汗をたらして、どちらかというと体育会系というのは文化とはなじまないのではないかというふうな意識も持たれているかもしれませんが、必ずしもそうではない、広い意味での文化ではないかということで、傍士さんの方から具体例と、それから仕掛け人としての傍士さんをご紹介いただけると思います。よろしくお願いします。


(傍士) 私は先ほどご紹介がありましたように、日本政策投資銀行のまだ銀行員でございまして、日本経済研究所というのは、昭和21年に発足した研究所です。政策投資銀行がかかわったのは昭和56年からでして、今日は専務理事ではなく地域未来研究センター長という肩書きでお話をさせていただきます。
 3年前まで銀行の岡山の支店長をしていまして、福武さんや大原さんに大変かわいがっていただき、今日のような話をよくしたものです。地域がいかに楽しく元気になるかというのが銀行に入ったときからの私の命題でございまして、今から10年前に支店長としてドイツで3年ほど生活をしたころから、今のような仕掛け人の稼業を裏でやっているわけで、相馬さんとは違って私は一人でできる全国時な仕掛けということをやっています。それを今からご紹介したいと思います。

 今日はユネスコの創造都市ということですが、特にヨーロッパの都市はすべて、スポーツ文化がある都市ばかりです。また、スポーツでもそのまちが有名で、自分のまちが大好きだということを表現している、その表現力が非常に豊かであるという、それが特徴だと思います。例えばまちの絵葉書が何枚もあったり、それは決して神社仏閣ではなく、まちなみを絵葉書にして、それをまたばらで売っている。あるいは、まちの写真集が必ず売られているとか、まちの紋章(エンブレム)があって、それをすごく大事にして、いろいろなところに使われている。これは日本の自治体のマークとは全然違う、企業がそのマークを使っているとか、そういうものがまた旗になっている。旗自体もまちに色というものがあって、そのカラーで旗ができている。極めてまちが大好きだ、それを表現する力がたくさんあるということです。

 そういうのを見てきて、私は去年までは地域デザイナーと勝手に名乗っていました。このデザイナーというのは、実は絵を描くという意味ではなくて、こうなったらいいなと思う人のことをデザイナーと自分で言っているわけですけれども、これはJR九州の車両のデザインなどをされている水戸岡鋭治さんが付けてくださった言葉です。この方は岡山の出身で、貴志川線の「猫の駅長・たま」の仕掛け人でもある方です。

 ドイツにいたときに、まず最初にこうあったらいいなと考えたのがこれです。石川ナンバーは嫌だな、金沢ナンバーの方がいい。ご当地ナンバーを実は仕掛けました。これは6年かかって実現をしました。実は、ご当地ナンバーというのは3年前にスタートしておりますけれども、最初にまずレポートを書きました。いかに地域の意識が変わってくるか。それを配りました。そうすると、地方誌の一面の下のコラムのところに、全国で4誌か5誌載せていただきました。それがきっかけであります。
 次に、仙台と会津と伊豆の方々に会いまして、「皆さん昔からご希望されてますよね。いいアイデアがあります」と言って、伊豆の人たちと一緒に扇国土交通大臣のところに出向きまして、説明をしてお願いをしたところ、「分かった、検討させる」と言って検討を開始して、「では、どういう理由、根拠があるんだ。なぜナンバーを増やすといいのだ」と言われたものですから、「いやいや、会津というのは戊辰戦争以来、国に何を頼んでも蹴飛ばされてきた。これぐらい意識の自立、地域の誇りと愛着を持つ、自分のまちを愛する。金沢ナンバーの車が前で空き缶を捨てたら、金沢のやつはみんなひどいやつだというふうに思う。でも、どうぞと進入を譲ってあげると、金沢の人はみんな素晴らしい人だと思う。それぐらい、地名がどうであるかで変わってくるということ。そして、何よりも自分のまちに誇りを持つということ。それから、伊豆はなんといっても観光ですから。観光に非常に役立つということ。仙台は政令市でありながら宮城ナンバーだった。これは堺も同じだった」と、そういう理屈をつけながら、何とか制度の設立にこぎつけ、一方で全国を駆け巡って、欲しがっているところはないだろうかと、いろいろな首長さんに掛け合いました。そして制度を立ち上げたときに手を上げた中に金沢市もいらっしゃったということです。
 これは結構、国の運輸支局を作らずしてバーチャルに、システム化によって作るという提案だったものですから、非常に説得は厳しかったのですけれども、10万台という制限を付けられたために、唯一、奄美だけは涙を飲んだのです。ただ、2県にまたがるのは調整が難しいと言っていた富士山ナンバーは、実はあとで実現したのです。

 ということで、1県一つだったものから自分のまちのナンバーを作ったところ、もともとほかのエリアのナンバーが付けられていたものを自分のまちのナンバーにしたところなどがあって、豊田、岡崎、一宮、実はそれ以外にも愛知県は四つあるわけですけれども、一気に七つになって、東京都よりも多くなった。これは実は地域意識がそれだけ高いということであります。それだけ地域意識が高いということが、実は愛知経済、名古屋経済の牽引力かなと思っているところです。

 次に、今は空のご当地ナンバーを作れないかと思って仕掛けています。実はドイツのルフトハンザ機280機には、すべてまちの名前が付いています。例えば、キャビンに入ってすぐのところに魚のマークが付いています。これはカイザースラウテルンという人口20万のまちの紋章です。外側のボーディングブリッジがくっついている横にもカイザースラウテルンと書いてあって、この飛行機はカイザースラウテルン号ですとなっています。一機一機すべて、まちの名前が付いた飛行機になっています。そういう飛行機を飛ばしたいということで、今、エアラインに仕掛けています。これはそのまちからお金をもらえばいいだけの話なので、多分、コストはかからないということで、近々お目見えするかもしれません。もし応募があったときには、ぜひ金沢も飛行機に「金沢号」と付けられたらいかがかと思います。

 さて、今日はスポーツの話ですけれども、ヨーロッパで都市の風格というものについて調査をしたときに、三つ挙げられていました。一つは大学のあるまち、二つ目がまちの名を冠したオーケストラがあるまち、三つ目がプロスポーツのあるまち。どれも皆さん非常に誇りを持ち、かつ生活をしていて張り合いのある、楽しい、そういうものばかりです。

 創造都市のルーツであるボローニャは大学のまちで有名ですけれども、イタリア人が毎年コンテストをしている「住みたいところナンバーワン」平均点を取るとボローニャが一番です。ボローニャは、2004年にサッカーの中田英寿がプレーをしていて、ボローニャの塔に彼を縛りつけておきたいというほど非常に高い評価をもらいました。ボローニャには、イタリアでは過去7回全国優勝をしている名門クラブがあるわけです。このプロスポーツのあるまちというものについて、今日はちょっとお話をしたいと思います。

 日本の場合、スポーツというのは、体育、あるいは学校の広告塔、あるいは企業の広告塔、あるいはプロレスやプロ野球、大相撲のように、地域性のないというか、例えば金沢でプロ野球に参画することはできない。どちらかというと私もだまされた口ですけれども、高知にいてジャイアンツファンになってしまった。いかにおろかだったかということが東京に出て行って分かったのですけれども、そういう国民娯楽としてのプロスポーツしかなかったわけです。ところが1990年、冷戦終結、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一、EUができた、このときに、実はスポーツ界も壁がなくなったのです。衛星放送が始まり、生で世界のプロフェッショナルのスポーツが見られるようになった。これによって、スポーツ界も全く変わったのです。

 それがまず一つと、それからJリーグが1993年にスタートしています。これは地域性のあるスポーツです。スポーツで地域対抗、都市対抗が欧米のように可能になったことで、スポーツの価値が変わりました。プロ野球ですら同様で、戦前にはジャイアンツと阪神と中日しか地域名を付けていなかったのですけれども、今は横浜、広島、ヤクルト、パ・リーグは全球団が地域名を付けています。特にパ・リーグは、地域名を付けて、地域密着になることによって、大きな発展を遂げたということです。
 ちなみに、楽天がなぜ仙台に行ったか。三木谷さんに聞いたところ、「仙台は既にプロスポーツで成功している。そういう地域に受け入れられるようなところでやれば、絶対に失敗はしない。そういうことで仙台を選んだんだ」とおっしゃっていました。

 そういう流れの中で、実はスポーツ行政も大きな変革を遂げました。金沢経済同友会の皆様も、地方制度調査会の道州制はご存じだと思います。この制度調査会で教育委員会のあり方を答申したのが2005年12月9日のことで、文化スポーツ等は、学校、教育、体育以外は首長部局に移しなさいということを言いまして、去年から法律が変わりました。ですから、金沢も実は市民局市民スポーツ課というところに、スポーツの所管が移っています。文化はまた別のところに移っているはずです。プロスポーツのある多くのところが担当を変えました。それはなぜかというと、体育ではない、スポーツでまちづくりができるのだということに、みんなが気づいたからなのです。

 プロスポーツは全国にどれだけにあるのかということを見る前に、これを先に。明治の最初の国勢調査の都市の人口ランキングで、金沢は5位です。そして、平成の大合併の前のランキングは33位ということで、色を塗っているところは大きくランクを下げたところです。これを地図に直すと、赤いところが大きくランクを下げたところ、青いところが変わらなかったところで、この赤と青を足せば、極めて国の形がバランスが取れています。これが実は、江戸時代までの国の形であったわけです。
 それと非常によく似ているのが、プロスポーツの本拠地の分布です。Jリーグ40チーム、フットサル、プロ野球、独立野球、そしてバスケットのBJリーグ、これの本拠地をプロットすると、全国かなりまんべんなく広がっていることが見えるわけです。

 では金沢はどうなっているのだということになりますけれども、今、プロは38都道府県に90チームあります。Jリーグのチーム名は、都市の名前にニックネームが付いていて、企業のチームではありません。実はJリーグは、下に地域のチームを抱えていて、優勝あるいは3位までに入るとアジアの大会に出られます。アジアの大会に出て、そこで優勝すると世界のクラブ選手権に出ます。つい最近では、浦和が世界3位になりました。浦和というのは区の名前です。浦和という名前が世界に知られるようになったわけです。同じように、ガンバ大阪もそうです。今、金沢もツエーゲン金沢というチームが頑張っていて、今週末4チームのうち2チームに残ると、JFLという全国リーグに初めて入れるのです。全国リーグに入れば、金沢という名の付いたチームが全国紙に毎週載ります。そういう時代が来ようとしているというのが今の状況です。ツエーゲン金沢が頑張るか、金沢ナンバーが全国を走るか、全く効果は同じことですし、何よりも住んでいる人たちがそれでもっと誇りを持てるのではないでしょうか。

 Jリーグがなぜまちづくりに関係あるかというと、実は自治体、スポンサーあるいは地域の企業、商店街、住民の人たちに支えられて成り立つものだからです。クラブは独立して経営はしていますけれども、皆さんで支えていく。しかもそれは大きくお金を出すということだけではなくて、いろいろな支えられ方があって、例えば甲府の場合は散髪屋さんが選手の散発をただでしてくれる。パン屋さんが賞味期限切れ直前に夜食の差し入れをしてくれる。あるいは、お風呂屋さんが練習のあと、ただでお風呂に入れてくれる。クリーニング屋さんがユニフォームを全部洗ってくれる。すべて自分の商売の中で、キャッシュではなくできることをやる。そういうことで自分のまちのためにかかわってくれています。

 実はそれが今のJリーグで、昨日、北九州が新たに増えて、今は40チーム近くになりました。北九州には、3年前に仕掛けました。大体仕掛けは脅しが多いのですけれども(笑)、「北橋市長、政令指定都市でプロスポーツがないのはこちらだけですよ」という資料を作って見せるのです。そうすると、大体「そうか、それはいかん」ということになります。あるいは、政令市の会議に出ると自分たちだけのけものになってしまうという体験談もよく聞きます。そのような形で、大体一人でも仕掛けられるのです。
 まちづくりと言いましたけれども、プロ野球と何が違うか。浦和レッズの例を取りますと、2週間に1回、試合ごとに数千人のファンが移動するのです。相手チームが観光客を連れて来てくれる。浦和の場合も、今年、大分に6000人来たと言っていました。新潟や仙台は特に多いのですが、どのチームもそうやって連れて来てくれる、あるいはこちらからまた行くという、スポーツ観光というものが起きることが、実は大きな特色です。

 それから、次の仕掛けが「スポーツのあるまちの駅」という仕掛けです。2年前、JR四国管内で、松山駅の松の左のスペースを使って、愛媛FCというJ2のチームのエンブレムをただで貼らせてもらいました。期限は無期限です。そういう約束で、覚書まで交わしました。
 これはJリーグだけではありません。四国には四国アイランドリーグがあります。金沢にも独立リーグがありますよね。そのアイランドリーグのチームのエンブレム、それからバスケットのBJリーグのエンブレムが貼られています。うちのまちにはこんなチームがあるんだと。あるいは、関東ですと、発着チャイムが応援歌になっています。大宮駅や浦和駅、ジェフ千葉の蘇我駅では、発着チャイムが応援歌になっています。これは水道橋にジャイアンツの応援歌が流れているというのが元祖ですけれども、これは結構、今、普及しつつあります。ぜひ金沢駅でもそういうものができればいいのではないかと思います。

 それから、よく「うちの県は野球だよ」とか、「うちの県は何とかだよ」と、すぐに仲間割れをするようなことになる。いやいやご心配なくということで、例えば仙台にはバスケットボールと野球とサッカーと三つありますけれども、合同後援会を作ってみんなで仙台を応援しようよということでやっています。楽天のゲームのマウンドには、試合前、ベガルタ仙台のJリーグのチームのシートがかけられています。それから、ベガルタ仙台の試合前のセンターサークルには、楽天のシートがかけられています。そうやってみんなで地域を応援する、種目で仲たがいをしない。新潟はもう六つもそれがくっついています。そういう議論に巻き込まれた場合は、ぜひそういうことをしていただければと思います。

 それから、これから仕掛けようとしているのはベンチです。イギリスのスコットランドからイングランドの田舎のまちを回っていくと、木のベンチがあって、いろいろな方向を向いています。そのベンチを見ると、変なメダルが打ち込んであるのです。よく読むと、我々はこのまちが大好きだったけれども去らなければいけない。その大好きだったあかしにベンチを寄付したい。あるいは、亡きお父さんはこの場所が大好きだった。その父のために、ベンチをここへ寄付したい。そういうたぐいの、まちを愛することを表現するベンチが、たくさんあるのです。ロンドンのケンジントン公園にもありました。

 行政がやるのではなくて、まちの人たちがまちを愛する気持ちを表現していく。そういうことがすごく大事なことだろうと思います。そういう気持ちを沸き起こらせるためにも、スポーツ文化というもの、つまり地域意識を表現する力。そして、そのチームのため、地域のためにボランティア活動をしたり、応援に駆けつけたりする個人の自立の力、個の自立を促す力。そして、人と都市をネットワークしていくような力が必要とされるのです。
 まさにスポーツは、創造都市のネットワークの共通言語なのです。ゲントなどはベルギーで一、二を争うチームのあるところです。そういうことから言うと、プロスポーツというのは、いろいろなまちづくりの問題を解決できるようなキーワードとして、これから重要になってくるのではないかということで、私のお話を終わらせていただきます。どうもありがとうございます。

(大内) 傍士さんはJリーグの理事でもいらっしゃって、そもそもJリーグの立ち上げにも随分いろいろと貢献されたと伺っています。スポーツでまちづくりが大いにできるということは、先ほどの相馬さんのお話に比べると、スポーツははるかに分かりやすいと言えば分かりやすいのですが、どういうふうにしたらいいかということには、いろいろな秘密があるのではないかと思います。また後ほどいろいろとお話を伺おうと思います。最後になってしまいましたが、増淵さんは、実はソニーミュージックに長い間おられて、Jポップの仕掛け人でもいらっしゃいます。ぜひお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

(増淵) 法政大学の増淵と言います。いまだに「法政大学の」というのはすごくなじみが悪くて、ソニーミュージックという方が近いような感じがして、こういうところに出てくると、キャラクターを使い分けるのがなかなか難しいなと思います。
 去年は学会の方で、金沢のご当地ソングのテクノバージョンというのをご披露させていただきましたが、その後は大して進展しておりません。
 ここのところ私はコンテンツツーリズムの研究をやることが多くなってきているのですが、今、千葉商工会議所といわゆるマンガコンテンツを使った観光マップを作っています。先週ようやくさまざまな許諾が下りて、「浦安鉄筋家族MAP」というものが出来上がりました。お客さんを集めて、180人ぐらい集まったのでびっくりしましたけれども、浦安のまちを、そのガイドブックを見ながら2時間ぐらい観光しました。舞浜の方ではない、昔の漁師まちの浦安の方を歩くので、いろいろな古い家とか、観光ガイドブックには載っていないところに遭遇できたので、非常に面白かったです。
 これは、今仕分けにかかっていますが戦略的大学連携で、日本とイギリスの間のフィルムコミッションのシステムの比較研究をやろうかと思っています。それから1970年代、80年代の札幌の創造都市空間の検証という研究テーマがトヨタ財団に採択されて、何を検証するのか分からないですけれども、とりあえずバックストリートでいかにカルチャーが生まれるか、そういうことを2009年の12月から始めようと思っています。

 仕掛け人というか、プロデューサーということを考えてみると、自分もかつてそんな仕事をしていたかもしれないというふうに思いました。テレビ番組の製作をしていて、その後、ローカル局のラジオに移り、それからレコード会社に行ったという、割と節操のない転職ぶりで、幾つかの小さな成功と数々の大きな失敗を繰り返してきました。
 要するに、コンテンツやメディアの世界では、ヒット効率は非常に低いので、多少当たればすごくラッキーというような、そんな記憶があります。
 ただ、流れ作業というか、間が結構テンパって進んでいくものですから、残念ながら失敗の分析ということをほとんどしていないので、今振り返ると非常にまずかったなと思います。

 それから、アーティスト、クリエイターたちとかかわっていく仕事なのですが、基本的に初期教育がなかなかうまくいかないケースが多い。要するに、最終的に「わがまま放題ランド」になってしまって、猛獣使いをしていたつもりが猛獣にお尻をかまれたみたいな形になるケースが多々ありました。
 それから、明らかに戦略に当たったケースは、僕の場合はありません。偶然です。それから、これは個人の性格なのですが、割と飽きっぽいので、そこがもうちょっと粘れれば、もうちょっとうまい形になったかなという反省も多々あります。
 それから、好きなことを仕事にする難しさというのがあって、逃げ場所がないのです。ファーストプレース、セカンドプレース、サードプレースというような、要するにずっとファーストプレースみたいな24時間になってしまって、一時期、家や通勤のときに音楽を聴くのが非常に嫌だった時期があります。音楽が耳に入ると、売れるか売れないかで考えてしまう自分がいたりして、これは最悪なので、一時期、本当に商売だけでしか音楽を聴かなかった時期があります。

 私は1980年代にいわゆるメディアの世界に入って、まもなくローカルに移ったのですが、自分の中のコンフリクトで一番大きかったのは、いわゆる放送のシステムの中で自分たちが表現したいものが中央に届かないというはがゆさでした。ローカルだけ見ていればそれでいいではないかという話もあるのですが、若かったのでどうして届かないのだろうということはずっと思っていました。それでようやく、結果は人の不幸だったのですけれども、自分がプロデュースさせてもらったのが、こういうイベントだったのです。

≪映像「奥尻島救済コンサート」≫

 今は亡き忌野清志郎さんが映っていましたが、奥尻島救済コンサートというのを、その年にちょうど泉谷さんとお話をして、やることになりました。チャリティなので電気を使う楽器は使わないということにして、全員がフォークギター、アコースティックギターでやるはめになり、小田和正さん、桑田佳祐さん、忌野清志郎さんにギター一本で歌わせるという非常に強引なアイデアだったのですが、とりあえずこれがうまくいって、その後、普賢岳と神戸の震災のエイドにつながっていったので、自分はローカル局の単なるプロデューサーだったのですが、だんだん自分の仕事がつながっていくなというようなことを実感しました。
 その後、ローカルで人材育成というものを真剣に考えなければいけないと思った時期があって、それと平行して、ちょうど私が上司とうまくいかなくて干された時期がありまして、暇だったので札幌のライブハウスや芝居小屋などをいろいろ見ていて若くてちょっと面白い人間を見つけたわけです。
 その中に鈴井君という人がいまして、当時、年のころはまだ30歳の手前ぐらいでした。私は土曜日の明け方4時から6時という、とんでもない時間の番組をやらされていたので、「誰も聞かないから何でもできるじゃん」というような感じで彼に頼んだら、「好きなことをさせてもらえますか」「誰も聞いていないから問題ないよ」という話になったのです。

≪テレビ番組「水曜どうでしょう」≫

 その後、彼は北海道テレビで爆発的に当たることになり、ローカル番組の「水曜どうでしょう」のきっかけになります。深夜でラジオをやっていた、そのノリでテレビをやってしまったというそれだけの話なのですが、鈴井君は今、公開される「銀色の雨」という中村獅童さん主演の映画のとうとう監督にまでなってしまい、そして隣にいる大泉洋さんは国民的な性格俳優として世の中に認知されています。
 この番組は、ただ単にだらだらと車の移動のときにカメラを1台回しているだけというすごい番組です。DVDは今約70巻ほどを超えているはずです。北海道のテレビ局で黒字になっているのは唯一北海道テレビだけで、このDVDの売上がほぼ売上の4分の1から3分の1を占めています。これもローカル発の一つの形としては成功事例だったのだろうと思います。

 その後、私は東芝に移りまして、一番長く担当していたのが、辻仁成という芥川賞作家で、今は中山美穂のだんなと言えば分かりやすいかもしれません。私にとってはなかなか厳しい、辛い時代でありました。ちょうど担当している間に芥川賞を取ってしまったので、状況が変わる変わるで、先生と呼ばなければいけないとか、いろいろな問題が多々生じた記憶があります。
 彼とレコーディングしましょうという話になり、とりあえず自分の曲の中で一番いい曲だと思われるものを、辻君がシナリオを書き下ろして、そして彼の代表曲を歌わせようという作戦に、私たちは打って出ました。それがこれです。

≪歌『ZOO〜愛をください〜』≫

 菅野美穂のシングルを先行リリースさせて、その後に本人のシングルをリリースさせて、合算で100万枚。私が業界で唯一ミリオンを、合わせ技で達成したという記念すべき1枚です。リリースした時点で僕は担当を外されていて、非常に辛い思いをした記憶があります。その後、また干されまして、新人発掘のところに飛ばされました。若干悔しいなと思いながら、初めて福岡の担当の人が、「いい女の子がいるんですよ」と。言い方が変ですね(笑)。面白い女の子が、面白くはなかったんだな。「いい女の子がいるんですよね」と紹介してもらったのが中島美嘉です。歌は決して良くはなかったのです。自分が想像していたより小柄だったし。だから目力ですかね。目の力が普通の方とは違う感じで、やがてこういうアーティストになるわけです。

≪歌「GLAMOROUS SKY」(『NANA』主題歌)≫

 これはマンガ自体が4000万冊売れていたもので、ちょうどうまくキャラクター的にもはまってヒットしましたし、中島自体もとりあえずまだ第一線で頑張っているなという感じがいたします。
 私が新人を見つけた時代は時間の関係上カットしますが、オレンジレンジを沖縄の北谷(チャタン)で、うちのチームが第一種接近遭遇し、ゲットして、最初のアルバムが200万枚売れて、一応会社には貢献できたかなと思っています。ただ、あまりにも急速に売れすぎたため、今現在どうしているのだろうという状態で、これは産業的なひずみかもしれません。そのあと、福岡の西鉄のコンコースのところで弾き語りのお姉さんを見つけてきて、それがYUIというアーティストになりました。この方も売れておられます(笑)。
 今まで自分でやってきたプロデュースというのは、しょせん産業の中でというか企業の中でのプロデュースという位置付けでしかないのですが、やはり重要だったのは人脈というか、マッチング能力のようなものです。それから、従来的なコンテンツ産業というものではバジェット管理が非常に重要で、お金が行ったり来たり消えたりしますので、これは非常に能力としては重要です。それから、アーティスト、スタッフ、関係各位のモチベーションやアイデンティティをどれだけ共有できるかということは、大切なポイントだと思います。アーティストを含めて、同時にスタッフも育成していく、そのシステムをどういうふうに考えていくかということも非常に重要です。

 僕が新人発掘をしていたときに、金野君という28歳の青年がいまして、持ってくるもの、持ってくるもの、絶対にソニーではあり得ないような、なかなかすごいものを持ってくるのですが、冷静に考えるとちょっと早いのかなという感じがしたのです。彼が持ってくるものが時代よりちょっと早いという意味です。つまり、僕たちが人材をピックアップしてから世の中に出すまでの間に、タイムラグが当然あるのです。1年ないし1年半。今、ピックアップしたときにこれはジャストだと思っても、1年後に時代が変わっている可能性があるのです。彼は癖として、ちょっと早かったのです。それでスピンオフして仙台でインディーズのレコード会社を始めて、3年間ぐらい悲惨な状況にあったのですが、その後、当時抱えていたカナダ人のMONKEY MAJIKというバンドが当たり、福島で見つけたGReeeeNというのが当たり、キマグレンというのが当たり、今はライブハウスを仙台の1番町に東北放送とジョイントベンチャーで作り、なかなかいい状況にあります。つまり、リリースするときに、世の中的にどういう状況になっているか、どういうはやりになっているかという、ここを読む。ほとんどの場合難しいのですが、でもその作業をしないとヒット効率は上がらないのです。

 それから、アーティストやクリエイターたちの創作目的や内容への理解。これを過度にやりすぎてしまうと、先ほど言ったように初期教育で失敗するというえらい目に遭うのですが、ここのスタンスが一番僕の経験では難しいのです。
 最初、若いバンドの人たちとミーティングなどをしていて、夕方になって、「じゃあ飯でも食うか」と言ってラーメンをおごったことがあります。それが半年後にばーんと売れて、逆に「鱒淵さん、寿司おごりますよ」と言われたときに、これで多分立場が完全に逆転するなというふうに思いました。大体そのとおりになりまして、いわゆるしもべ的なところに私もいってしまったケースもあります。
 人間関係というのが一番ベーシックにあって、相手をリスペクトしながら、だけど手綱を締めていくという、これがなかなか私は駄目でした。駄目だからここにいるのかもしれません。向いていなかったのかなと、今あらためて冷静に考えるとそんな気がします。自分自身のアピールをもう少ししておけばよかったなとか、そんなこともうだうだ考えてみたりもしました。
 ただ、まちづくりのスキームと業界のスキームとは、基本的に似ているような気がします。一番大きなキーというのは、従来型のコンテンツメディアの産業の中では、中央、東京に基本的にノウハウの蓄積が圧倒的にあるので、そこの優位性が揺らがないわけです。多分、インターネットの普及によって、多少の地方からの逆襲は可能にはなったと思うのですが、まだまだいわゆる縦関係は崩壊していないので、中央と地方、それから地方と地方間の、人材も含めたノウハウの移転、人的交流、ノウハウの交流というものを、新しくスキームとして考えていくべき時期に来ているかなという気がいたします。
 今日、プロデューサーの仕事というものを自分の経験の中で振り返ってみて、そういう自分なりの結論めいたものに達しました。

(大内) 今、増淵さんが最後に言われたように、確かに従来型、在来型のコンテンツなりノウハウは中央に蓄積されているのかもしれないけれども、バックストリートから文化が生まれるという言い方もありましたように、新しいものが生み出されてくるのが本当に中央なのかどうかというのはかなり怪しい。むしろ、やはりグラスルーツから新しいものが逐一生まれているのではないかと思うのです。
 お三方のお話を伺って、3人に共通するものは何かなというと、ちょっと言葉は不適切かもしれませんけれども、ある種の挑発屋さんかなと。人を挑発していく、あるいは文化を挑発していく。新しいものを、とりあえずは確かに非常になじまない、場合によっては少し危ない。しかし、それを上手に挑発していく。そしてある形にしていって、それが多くの人たちに受け入れられるか、受け入れられないかは、少し時間がたたないと分からない。そういうのがある種のクリエーションであるという、そういう意味ではお三方とも非常に似たようなマインドを持たれて、そういう仕事をしているようなふうに私はお見受けしました。
 どなたからでも結構なのですが、もう一つ、金沢というまちを考えたときに、冒頭に金沢弁でまちづくりをしなければいけないと代表幹事からも言われました。確かにこのまちには伝統であるとかアートであるとか歴史というものがあるのですが、私などはどちらかというとそれに安住していて、場合によってはお行儀が良すぎるよなというところも場合によってはあるように思えるのです。
 しかし、だからこそ、そういう歴史とか文化があるからこそ、新しいものに挑戦することの面白さのようなものが逆にあるのではないかと思うのです。何か事例等々を挙げてご説明いただけるとありがたいのですが。相馬さん、例えば横浜でやるというと、確かに東京のリアリティというものが反映される。マンガ喫茶のようなところに入っていく姿だとか、流通の現場をトラックの荷台から見るなどというのは、まさに人間が流通しているわけで、確かにすごい東京のリアリティというものをそこから感じ取るというのはよく分かる感じですが、金沢という舞台でそういうリアリティをと言ったら、例えばどんなことをお考えになりますか。いきなりちょっと難しい質問を向けてしまったかもしれませんが。

(相馬) 私よりも金沢に住んでいらっしゃる皆さんにぜひ逆にお伺いしたいと思うのですが、先ほどの増淵さんと傍士さんのお話を受けて、ちょっとコメントさせていただきます。お二方の活動を非常に興味深く拝見しました。特に増淵さんのコンテンツ産業というか、マスに向けての音楽づくりとそのプロデュースというのは、私がやっているプロデュースとはある種対極だと思うのです。
 音楽で言えば、ヒットすれば何百万枚という受け手に伝わるものです。ところが、私のやっている演劇などは、本当にその場、そのときに、そこにいる人にしか伝わらない。個室ビデオ店で言うと1回マックス10人ですし、バスのやつは1回マックス45人です。あれを23回公演するのですが、1000人いかないわけです。しかもそういった数限りない人たちに向けて、その場、その時、その瞬間にしか成立し得ないことを、ただただ地道にやるということで、全く伝わる数が違います。
 フェスティバルトーキョーのコンセプトを考えるときにも、非常にいろいろな方と議論したことなのですけれども、例えばテレビだったら視聴率1%というと、非常に少ないように感じるけれど、実際に1%だと日本の場合100万人です。フェスティバルトーキョーなんて、せいぜいお客さんがたくさん来たと言っても5〜6万人の世界なのです。それでも日本で一番大きな演劇祭と言われるわけです。
 ですから、我々が目指しているのは、普及する人の対象の数ではなくて、一人一人の鑑賞者の体験の質というか深さ、そこにかけるしかないということなのです。演劇の負け惜しみというわけではありませんが、その一点においてのみしか、多分、演劇とか舞台芸術が持っている可能性は本当にないと私は思っています。

 これを金沢という固有のまちに落とし込んで考えたときに、やはり金沢もいろいろなメディアに乗って金沢のイメージが世界的に広がっていって、それが金沢を盛り上げるということはもちろんあっていいと思うのですが、やはりフィジカルにお客さんが金沢に来て、そこで金沢でしかできない何かしらの体験を持ち帰るということがすごく大事なのではないかと思うのです。
 ですから、世界中のどこの美術館でもやっている作品を見られるとか、あるいはどこの劇場でかかっているレパートリーを金沢で楽しめるということもすごく大事だけれども、一方で、金沢でしか成立し得ないような作品。それがトラックツアーなのか、個室ビデオ店なのかは置いておいて、そういったものをプロデュースできる才能を持った人を金沢に集めるとか、そういったことを考えられるアーティストに来てもらうとか、そういうことをして、何か金沢でしか体験できないある深いプロジェクトというものを立ち上げていくことができれば、面白いことになるのではないかと思います。
 それが何なのかは私には分かりません。私は金沢にツーリストとして来たことしかないので、それを発見できるのは、そこに住んで、そこに活動するプロデューサーだと思うので、ぜひそういった人を育てていける土壌ができていけばいいのではないかと思います。

(大内) 今のお話は、確かに一つ一つのプログラムを見ると、そこで確かに体験をしたり、インスタレーションなりを共有する人たちの数というのは限られているけれども、金沢というまちには何かそういう仕掛けがあって、何かが常に起きているというイメージがつくられるということはものすごく大事なことで、やはり世界の中の、ある種のアートがリードしているまちというのは、一つ一つ別に体験できなくても、誰かがそこに興味を持って、世界中からみんながやってきて、そこで何かが始まっているというイメージ、それはものすごいボリュームがあります。

(相馬) 恐らく両方必要だと思うのです。21世紀美術館ができて、あのイメージが本当に一瞬のうちに世界中に広がり、あの美術館を見るために世界中から人が集まったということは、皆さんにとって非常に大きな出来事だったと思うのです。
 ただ、そのイメージは、1回消費されればそれで終わるとも言えるわけです。1回体験してしまえば、もう2度、3度、訪れるモチベーションにはならないかもしれない。でも2度、3度、やはり訪れたい何かというものを作っていく必要があって、それが恐らく今私が申し上げたような、何かそこでしか体験できないものなのではないかと思うのです。それはもしかしたらスポーツかもしれないですし、また別な形であり得るかもしれませんが。

(傍士) すごく重要なことだと思います。今日、スポーツ文化と言ったときに、なんで文化なんだということを説明しておかなければいけないので、そこからちょっと話しますと、私はやはり金沢の人たちの情熱が一つになるものであったり、あるいは住んでいることの喜びを分かちあえるものであったり、あるいは外に向かえる、そういうものが文化だと思っているので、それがスポーツでも同じだし、実は開会式、閉会式を見れば、アートを使い、音楽を使ってやっているという意味では、スポーツ文化というのはもうその三つのミックスだと思うわけです。

 先ほど相馬さんが言われたように、何回も行きたいというのは、日ごろの、日常の生活の問題とすごくリンクしていて、例えば金沢のチームがあるときに、そのチームは毎週試合をするわけですけれども、地元では2週間に1回する。2週間が待ち遠しくてしょうがない。もう1回行きたい。その待ち遠しいという子どもの気持ちが持てれば、どんどん人は若返るはずなのです。年を取ってくると、もう過ぎてしまったというような感じになりますが、待ち遠しいけれどまだ何日かと。そういう文化が持てると、実はそこに住んでいる人は若くなれるということだと思うのです。
 試合は1週間に1回ある、もう待ち遠しくてテレビで見ていられない、行ってみたい、そういうものだろうと思うし、つまり、日常感じる長さがどのくらいかというようなことで、僕は究極はドイツのオーバーアマガウという村ではないかと思っています。キリスト受難劇を10年に1度やっている5000人の村があって、ちょうど来年5月にまた41回公演をするのですが、村人5000人総出で10年に1度の劇の練習を10年前からして準備している、もう待ち遠しくてしょうがない10年間というのが日常なのです。そういうものがあれば、本当に我々がとやかく言うものでは全くなくて、非常に幸せなわけです。そこの老人に聞くと、「私は今度の10年後はもう生きていないかもしれない」と涙ながらに言うのですが、でも楽しみにして練習をする。私はそういう日常感じる長さが非常に重要なテーマではないかと思っています。

(大内) そうですね。今のお二人の話は、明らかに、単なる私見る人、あの人演じる人という対極の考え方は、一切ないですね。自らそこの中に入っていったり、自分もその中へ入っていったりと、自分も見られる側、あるいは自分も見せる側、両方に入っていくという、そこがないと今みたいな話はできないですよね。

(相馬) そこがすごくチャレンジのポイントだなと思っているのです。従来は文化産業を作る側、受ける側と分かれていて、ある種、作る側は上段から文化やコンテンツを普及するという、消費社会にありがちな単純な構図があったと思うのですけれども、恐らく今、我々がこういうフェスティバルであるとか幾つかのプロジェクトを通してやりたいことは、そういう境界線を再設定する、超えるというのとはちょっと違うのですが、境界線を再設定するチャレンジをしたいなというのがあるのです。
 例えば、先ほどの個室ビデオ店のお話をちょっとしますと、豊島区の広場でやったわけです。そうすると豊島区は、当然、ああいう性風俗をある種イミテート、模したものというのは、区のイメージを悪くするからやめてほしいわけです。ところが、実際に見せている中身というのは全く性風俗とは関係なく、むしろそこにいる人たちのリアリティを万華鏡のように反映する、そこに生きている同時代の人たちの肖像画が300個並んでいるというものであって、実際にその作品を見たときに、豊島区の区長さんはじめ行政の方たちは、とても喜ばれたのです。
 ただ、そこに至るまでの議論が非常に大変で、まず「個室ビデオ店という言い方をやめろ」と言われまして、チラシには「個室のビデオインスタレーション」というふうに言い換えたりしているのです。そういったやり取りの中でも、我々もそこまでのリスクを取るというか、一緒に組んでいるパートナーである行政に不快な思いをさせてまでやるべきなのかどうか。行政側もアーティストがチャレンジしたいことを、なぜ行政のロジックである種検閲と言うと言葉がきついですけれども、やはりそれはやめてくれという権利がどこまであるのか。そういう表現と、行政の思惑のせめぎあいのラインを、常に揺さぶるようなことが起こってくるわけです。それは従来の舞台の上で再現するような演劇では決して起こらないようなことであるという意味において、大変だけどやった方がよくて、やることによって自分も問われるし、行政も問われる。それで何か新しい価値みたいなものが都市の中に生まれていくのではないかという気持ちがあるのです。

(増淵) その考え方は正しいなと思います。今まで従来型のコンテンツ産業というのは、行政とのかかわりはほとんどなかったのです。要するに、自助努力して経済を作れということで進んできていた。ただ、おっしゃられたように、僕は新しい局面に来ていると思っているのです。
 一つは、例えばジャック・アタリの『ノイズ』に書かれているような作曲のレゾー、つまり作り手が受け手になり、受け手が作り手になるという。これは確かにそうだし、是是非はありますが、札幌市の北区の札幌バレーにある小さなクリプトン・フューチャー・メディアという会社が、初音ミクというとんでもないものを作ったではないですか。要するに、人工合成音にどんな人の曲でも載せると初音ミクさんが歌ってくれるというソフトで、ソフトだけでも10万本売れていて、ソニーがうまく横取りして初音ミクでベスト版を2枚出して、それがオリコン1位、2位になったりしているのです。
 クリプトンも札幌市とは、かなり協力的にやられているようで、ユネスコの創造都市ネットワークをねらっているらしいです。下書きの段階に入っていると言っていましたが、そこにクリプトンがかかわってくるようです。要するに、どちらにしても札幌はITがベースなので、産業化が一つ具体的にできて、そこから進めていこうということです。僕は最近、仙台というまちがすごく気になっているのです。たまたま僕の部下が産業的にうまくいった事例もあるのですが、あのまちには小説家が数多く住んでいるのです。例えば、伊坂幸太郎君とか瀬名秀明さんとか、伊集院静さんとか、俵万智さんも今は仙台市民になっています。彼らは自分のコンテンツで仙台のまちを舞台にするケースが多々あるのです。そうすると、伊坂君の作品が映画化になると、必ず仙台が舞台になっていくということで、仙台としては棚ぼた的にラッキーというようなことがあると思うのですが、クリエイターやアーティストたちが住みやすい地方都市、そこが一つのこれからのヒントだと思っているのです。

 それはやはり産業を支えるボトムの部分、マンツーマンで自分の作りたいものを表現する、それを理解してくれるワンパーソンのためにという、基本的にはそれが原点なのです。私たちはすっかりそれを忘れていた時代があったというところが、今、反省として当然あるのですけれども、80年代から90年代は、この国のあり方と同じように、いわゆるコンテンツ産業自体も経済の方に思いきり偏重していたような気もするのです。ただ、今は恐らくもう新しいページに切り換わる、ちょうどそのタイミングのような気がしています。

(大内) ありがとうございます。もう少し議論をしなければいけないなとは思っているのですが、時間がきてしまいましたので、とりあえずここで簡単なまとめをさせていただきます。3点だけ皆さんのお話を聞いて感じたことを申し上げますと、一つは、先ほどクリエイターというか仕掛け人たちというのはある種の挑発屋さんなのだという言い方を失礼ながらしましたけれども、やはり新しいものを見つけながら、その中で既存のものに向けてある種の挑発をしていくというのは、一つの文化創造にとってはどうしても必要なことで、あまりお行儀のいい文化ばかり考えているというのはだいぶ違う。
 先ほどのスポーツも、いわゆる教育の中のスポーツではなくて、まちづくりのスポーツというのは、必ずしも学校で教育するタイプのものとはだいぶ違う種類のものだと思うのです。同じように文化もそうで、音楽の授業でやるような音楽というのと、私たちがまさに外で新しいカルチャーとして見せる音楽というのはだいぶ違う。そこには既成の枠であるとか、そういうものは必ずしもはまらなくて、全然それを無視しているわけではないでしょうけれども、常にそれを乗り越えようというマインドがあるわけですから、そこを台無しにしないようにしないといけないということがあると思います。

 最後に行政の話がありましたけれども、私は別に行政が関与してはいけないということではないと思うのですが、やはりそこは非常に従来型の、例えば医療行政であるとか福祉の行政とは、だいぶ違う種類のものに文化創造というのはかかわっているということは、やはり心しなければいけないということがあると思うのです。上手に遠くで応援団になっていただきたいという思いがあります。
 そういったことも含めて、まとめにならないようなまとめなのですが、新しいものを挑発していく。そして、できればジャンルであるとか既成の枠を取り払って考えなければいけない。今の新しい文化創造というのは、見る側も見られる側という枠もあまりよく分かりませんし、それからどこまでがリアリティなのか、どこまでがフィクションなのかということもよく分からない。今のデジタルの文化はそうだと思います。
 それからちょっと言い忘れましたけれども、何がグローバルで、何がローカルなのかというのも少しあいまいになってきている。ローカルなものがダイレクトにグローバルなものになるという可能性を常に持っていますので、そういう既成の枠も、私たちはちょっと取り去って考えなければいけないと思うのです。
 以上、幾つかまとめにならないまとめですが、なかなかそれぞれまさに仕掛け人として、最先端でいろいろなことをやっていらっしゃいましたので、面白い内容が伺えたと思っております。それぞれ皆さんなりに解釈いただくなり、今後のことにヒントを得られればよかったのではないかと思います。どうもお三方、ありがとうございました(拍手)。


 

 
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