鼎談 1 「金沢をうたう」
     
佐々木雅幸
     
増淵敏之 足立久美子  
   
音楽と映像の組み合わせで新しいメッセージを


  
(佐々木) 先ほども福光さんからごあいさつがありましたが、創造都市会議と金沢学会を2001年から始めまして、はや2007年で、もうそろそろ折り返しかなと思っています。取りあえず10年ぐらいのスパンでやってみようということで始めたわけですが、今日は、特に金沢がこれから先に日本の都市の中でどんなスタンスを占めていくのかについて、漢字の「金澤」、平仮名の「かなざわ」、ローマ字の「KANAZAWA」、さまざまな金沢の側面をどのようにうたうのか、一緒に考えてみたいと思います。
 うたうということでいくと、ご当地ソングの世界でどのように金沢が歌われているかということを一つの手掛かりにすることもできると思います。私の友人で音楽会社に務めるかたわら、大学院で勉強もされている増淵さんを今日はお招きしました。その増淵さんと絡んでどのように金沢をうたえばいいのか、あるいは、もし金沢をうたう番組を作るとしたら、どんな番組ができるかということで、足立久美子さんをお招きしました。当地の民放で、よくニュースや番組に出ておられたのでご存じだと思います。最初に足立さん、最近、金沢は関西からはどのように見えていますか。

(足立) 金沢を離れたのは10数年前ですが、なかなか来るチャンスがなくて。実は今年に入ってから今日で2回目なのです。1回目、10数年前ぶりに来たのがこの夏でした。辺りがすっかり変わっていて本当にびっくりしました。金沢21世紀美術館へも初めてそのときに行ったのですが、あの界隈も本当に美しく変わっていて。ただ整備されてすっきりした反面、昔の面影が少しうすれたようで、ちょっと寂しい感じもしました。今日も来て、駅の周りが夏に来たときよりもさらにすっきりとして、「金沢の町は今どんどんと変わろうとしているのかな」と思いました。
 ただ、やはり金沢というのは私が青春時代を過ごした町でもありますので、いろいろな物語が自分の中に蓄積されていますし、今の仕事のベースになっている文化とまちの発展に関する考え方の基本は、この町で学ばせていただいたと思っています。ですから、今日は、「金澤」「かなざわ」「KANAZAWA」と、いろいろなイメージの金沢がありますが、私自身ももう一度いろいろな金沢を探りたいと思っています。そういう意味で、うたうというテーマは実に面白いと思い、先生からお話をいただいて、ぜひ参加させていただきたいと思って今日は来ました。
 ただ、金沢のご当地ソングといいますと、どうもぱっとイメージするのが、北島三郎さんの「加賀の女」なのです。なぜそういうイメージがあるかというと、就職が決まって金沢に来ましたときに、いろいろな会を開いてくださるのですが、必ず皆さん「加賀の女」を歌って歓待してくださるのです。「あんたは、これから金沢でがんばるんだよ」ということで。今日は歌詞を調べてきました。

 「君と出逢った 香林坊の
  酒場に赤い灯がともる
  ああ 金沢は 金沢は
  三年前と おんなじ夜が
  静かに俺を 待ってる町だ」

 2番目には天神橋が出てきたり、3番目には加賀宝生が出てきたりと、本当に「これぞ金沢」みたいな内容です。そういうのを歌って迎えてくださるのですから、皆さんすごく金沢に対する誇りがあるのだと、圧倒されてしまいました。
 ただ、やはり金沢イコールというか、北陸イコールになるのか、演歌という渋めのイメージがずっとあって、増淵さんに調べていただいたら、ご当地ソングはやはり演歌系の歌が結構多く、Jポップ系なんてほとんどないのです。しかも金沢といえば百万石のご城下というばちっとはまったイメージもあります。ですから、「金沢をうたう」というときには、バチバチと決まった金沢のイメージをもう少し変えてみる、違う角度から見てみるという作業が必要になってくるのではないか。何か植えつけられているイメージを払いのけて見るという作業が要るのではないかと思っています。
 百万石のご城下は金沢のイメージをつくる一つの要素としてとても大切なことなのですが、それが前面に出ているが故に見えない部分もあるのではないか。その辺りを今日はひもといていけたらいいなと思います。
 もう一つ「加賀の女」にまつわることですが、金沢に単身赴任のお父さんたちが来られると、カナチョン族とかいいましたかね(笑)。そういう方たちが今度金沢を去るとき、送別会の席に行くと、今度は、そのご本人が歌う曲、最後の締めで涙ながらに歌われるのがこの「加賀の女」だったのです。私も外から来た人間だからわかるのですが、ここは保守的だから、非常によそ者には冷たいなというところは確かにあって、何となくみんな少しつらいなという思いはしたと思うのです。でも、去るに当たって振り返ってみると、やはり「金沢はいいな」というところがたくさんあって、「ばか野郎金沢、だけど寂しい」というような感じで涙ながらに歌うお父さんたちをよく見掛けました。
 その印象をいろいろと考えますに、もしかしたらご当地ソングというのは、その土地をPRするという要素ももちろんあるのでしょうが、そのまちに関わった人のそれぞれの思いや、それぞれの物語を束ねていくような力が歌の中にはあるのではないかと思うのです。「そんな歌ができたらいいなあ」ということを、増淵さんに投げてみたいなと思って、今日は来ております。

(増淵) ご当地ソングは、全国的に見て描きやすい都市と描きにくい都市が多分あるのです。立教の溝尾先生が調べた年代別の資料を見ると、北海道が昭和40年代から少し増えます。それから、圧倒的にご当地ソングが多いのは東京なのです。東京、横浜、京都・大阪・神戸のワンセットと、九州は、福岡ではなくて圧倒的に長崎です。北陸は基本的に金沢が一番描かれているのですが、やはり演歌や歌謡曲ベースのものが主流です。都市イメージがきっちりしているところがすごく作りやすいのです。やはり、音楽というのは基本的に補完材でしかないと思うのです。音楽が独り歩きしてそれが何かを起こすということは、多分そこまでのパワーはないと思っていて、ですから小説や映画、漫画などとのいろいろなメディアミックスが一番基本になっていくのではないでしょうか。
 一番うまいなと思うのは、札幌が割とそういうのがうまいです。先ほど2等賞になっていましたが、僕も札幌に14年間住んでいたことがあるのですが、住んでいる分にはそこまでの町だとは思っていませんでした。しかし、いざあのように統計を取ると札幌は大体上位に来るのです。決して経済的には今はあまりよろしくないのですが、いわゆるクリエイターたちが自分の住んでいる町として表現しやすい町なのだろうと思うのです。
 札幌がなぜイメージがつくりやすいかというと、一つは漫画です。今の少女漫画の「別冊マーガレット」や「りぼん」の巻頭に来る漫画というのは、札幌在住の漫画家たちの作品で、いくえみ綾さんの『潔く柔く(きよくやわく)』が売れていますね。それから椎名軽穂の『君に届け』などは、おととい本屋に行ったらほとんど売り切れていました。それから、『高校デビュー』の河原和音さん。この辺が札幌に住んでいるので、自然に札幌の町を漫画の中で舞台として描いてしまうのです。そうすると、それに音楽やほかのメディアがミックスして札幌のイメージが外に情報発信されていく、多分そういうメカニズムなのだと思います。

(佐々木) 今、札幌の話が出ました。僕はあまりJポップの世界は詳しくないのですが、金沢というのは演歌で歌われている町でありながら、なぜJポップはあまり作られないかというと、若いクリエイターの人たちが住まない町だということですか。それとも、住んでみようと思わないというイメージがつい最近まであったのか。その辺りはどうですか。

(増淵) 僕もそこまで調査していないのですが、ただ、札幌の場合は札幌を離れた方たちが個人的な望郷ソングとして、ご当地ソングを作っていく傾向が強いです。中島みゆきさんは帯広なのですがDREAMS COME TRUEとか、割と売れている人たちが、実は札幌の曲を数曲作っているのです。それがやはり大きく効いているのではないかとは思います。
 まず、札幌の曲というと「ふきのとう」というフォークバンドがいて、今は解散しましたが、1975年に少しヒットしたシングルで、「初夏」という曲があります。「噴水の前で 記念写真を 撮っているのは 新婚さんかな ぼくは座って それを見ている 鳩はつついている とうきびの殻を」、これは大通公園ですね。「時計台を見て たむろしている 大きなリュックの 黒いカニ族」、時計台です。「地下街はいつも 都会の顔して 狸小路を田舎扱い ぼくは地下鉄の電車を待っている センチメンタルに 浸った振りして」と、ここまで彼らは歌ってしまうのです。
 中島みゆきの1991年の「サッポロSNOWY」は、今年のテレビ朝日の札幌オリンピックのドラマの主題歌になりました。これは遠距離恋愛の歌ですが、「サッポロSNOWY」というタイトルそのままです。このアルバムの中には「南三条」という曲も入っていて、札幌の南三条通りという誰も知らないストリートを彼女は青春の思い出として歌っています。
 あるいは、1989年のDREAMS COME TRUEの「LAT.43°N」、これは北緯43度という意味で、つまりは札幌です。それで、「一緒に見る約束 ホワイトイルミネーション」、ここに来てしまうのです。雪が降っている札幌、そしてホワイトイルミネーション。別にこれは札幌市観光局が頼んだとは思いません。アーティストが自発的に自分の何かアイデンティティを持っている都市のことを表現していくことがすごく大事なような気がします
 これは軽くヒットしたぐらいの曲で、もういないのですが手風琴の「惜春賦」という曲です。これもこてこてです。「白いため息をガラス窓にひとつ 北のはずれの街のせいにした(中略)時計台にも春の風が間もなく吹いてくる」という、こういう中で札幌というのは割とイメージの増幅があるのです。札幌市がそんなにうまかったわけではないですよ。これは札幌に住んでいた人たちや札幌を経由してきた人たちが何らかのアイデンティティを持って表現をしているということが、いわゆる重層化されて一つの都市イメージをつくることに少なくとも寄与しているということなのだと思います。

(佐々木) なるほど。要するに観光協会か何かが発注して、言葉がパンパンと入った、そういうたぐいのものではなくて、アーティストの心象風景というかインプレッションというか、それが自然に出てくる町。あるいは、それが生まれやすい場があるということでしょうか。

(増淵) そうですね。だから、何か作為的に作っていくことに対して、割と時代的に忌避観が多分あるのだと思います。

(佐々木) 足立さん、今の話を聞かれて、どうですか。

(足立) 金沢は演歌というのを何となくイメージしてしまう。これからの季節はますますお酒がおいしいし、お魚がおいしい。そんな季節にお店で流れるのは決してJポップではなくて、やはり演歌かなと。でもそれは金沢というよりも、北陸全体のイメージのような感じもします。金沢も福井も富山もひっくるめて、代表選手の金沢を歌うというような内容が、今までのご当地ソングの中の「金沢」ではないかという感じがします。だから、もし金沢を歌うのならば、そういう外から貼り付けられたイメージを振り払い、何か内からわいてくるようなものがいいなと思うのですが。
 


(佐々木) では、少し視覚を変えて、足立さんが好きなJポップ系の金沢を歌った歌というのは何ですか。

(足立) 実は私は知らなかったのですが、増淵さんが見つけてくださったのが、何とユーミンの歌なのです。皆さん、ご存じですか。「ビュッフェにて」という曲なのですが、そこに「金沢」という言葉は出てこないのですが、歌詞の中に「城下町」というのがあって、それがどうも金沢をイメージしているということなのです。

【ビュッフェにて】
 「昔の友達と 今旅をしています
  遠くを流れてゆく山の雪を見ながら
  窓辺に運ばれた紅茶が揺れています
  想い出たどるうちに冷たくなってしまった
  もう少しで誕生日ね
  訪ねてゆけないけれど
  城下町の消印でカード出すわ」

(佐々木) これで、なぜ金沢なのですか(笑)。

(足立) 「城下町の消印」ですよね(笑)。でも、あえて「金沢」と言わず「城下町」という出し方が、やはりユーミンらしく物語があるかなと思うのです。
 城下町というと日本にはたくさんあって、松江もそうだし、萩、津和野、お近くの高岡もそうですね。でも、そんなにたくさんある城下町の中から、なぜに金沢をイメージしたのかなと思って、仲間内でこの歌をさかなに、日本酒ではなくワインぐらいにしておきましたが(笑)、いろいろ話して「この城下町って何を表しているのかね」というと、それはやはり時間の蓄積のようなことを象徴しているのではないかと。彼女は思い出にふけっているわけで、その辺をビュッフェや冷めていく紅茶と対比させて表現していて、城下町というのは特に、時間の蓄積だけではなくて、思い出や記憶のような時間の蓄積を浄化させていくようなイメージがあるのではないかと。
 そうしたときに、やはり金沢かなと思ったのです。ユーミンの歌い方がそうだから余計に思うのですが、これは結構ウエットなことを歌っているのですが、でも、どこかすごく乾いたイメージがありますよね。ウエットなままいくと、「北の宿から」みたいな、着てはもらえぬセーターを編まなければいけなくなってしまうのですが、そんな雰囲気はまったくありません。ああいう内容は金沢には合わないと思うのです。何となくどこか乾いていて、だけどウエットな部分もある。そういう二面性があるから、少し癒しの効果みたいなのがあって「いいなあ」と思わせるのではないかなと。そのようなことをワインを飲みながらくだくだと言っていたのですが、どうでしょう(笑)。

(佐々木) 確かに金沢というラベル、あるいは加賀というラベルをベタで張らない方がいいのですね。メタファーというか、直接表現しないけれども、人々の心に触れるようなフレーズだったり、イメージというのが、金沢の歌には合うのかもしれない。そういう意味だったら「なるほど」と思いました。
 増淵さん、こういう流れというのはどうなのですか。やはり今の全国的な新しい歌の流れの中にあるのですか。

(増淵) ありますね。実は、明治時代の後期から東京に地方の人々が流出していくでしょう。そこで、最初のご当地ソングブームが生まれるのです。いわゆる望郷の歌です。それと、その後に自分も東京に行きたいのだよねと言って、東京に対するあこがれを歌った歌が次に来るのです。それは集団就職の時代を経て、東京オリンピック、高度経済成長の方向に向かっていって、いわゆるJポップという昔はニューミュージックといわれたものの中にそういう概念が入ってくるのは、実は博覧会ブームや、「ディスカバー・ジャパン」という昔の国鉄のキャンペーンがありました。あのときに「anan」「non-no」という雑誌が大体同時期に出ていて、要するに女性が一人旅をするところで、恐らく展開としては松任谷由実「ビュッフェにて」だったのです。
 ところが90年代になって、日本のポピュラーミュージックの中からいきなり地名が消える空白の10年間が生じるのです。全国津々浦々に、新幹線の話もそうでしたが、例えばこういうことです。東北新幹線に乗ると非常に分かりやすいのですが、大宮駅、宇都宮駅、郡山駅、福島駅、仙台駅と盛岡まで行きますよね。ほとんど駅の前って同じ風景でしょう。すべてペデストリアンデッキがあって。要するに、全国的な均質化・均等化の波です。郊外に行くとイオングループがあって、中に紀伊國屋書店があったり、HMVがあったりして、ローカルでも東京のものが手に入るようになっていって、全国的な均等化・均質化が90年代の音楽コンテンツ産業におけるメガヒットをつくる構造なのです。
 ところが、デジタル化があって産業的に今少し変動しておりまして、2000年になってから自作自演型のアーティストの中で、自分の生まれた所や育った所に対するアイデンティティが再燃してくるのです。最近のヒット曲を見てみると、去年か一昨年にaikoの「三国駅」というヒット曲がありました。あれは僕は最初、福井県の三国だとばかり思っていまして、そうしたら違うと言われ、阪急の三国駅だという話になって、確かに歌詞の中に「ボーリング場」があるよねと。

(佐々木) 阪急の三国か。

(増淵) はい。彼女が通っていた高校が三国駅のそば。ですからそういうアイデンティティが非常に強まってきています。
 何もない、餃子しかない都市の宇都宮という所があります(笑)。私は3年ほど住んでいましたが、ストロー現象の嵐の町でした。高校から大学への進学者の比率が、新潟県ほどひどくないのですが、新潟県はこの前調べたら、90.2パーセントぐらいが高校を卒業すると地元を離れるのです。ストロー現象ここに極まれりです。宇都宮もかなり効いているのですが、あそこはショッピングも東京です。
 それで、宇都宮商工会議所に音楽でまちおこしをできないかという雑ぱくな相談を受けたことがあって、何でやりたいかというと、ジャズでやりたいというのです。なかなか微妙なところがあって、まず、街の曲を一度作ってみませんかという話になって、街のシャッター通りになりかかっている、オリオン通りという商店街が宇都宮人口51万人のメインストリートなのですが。野外の2000人収容のライブステージを東急109の跡地に今年造ってしまいました。「オリオン通り」という曲を地元だけで売って、どこまでいけるのだろうと。「十字屋」というデパートが出てくるフレーズがありのですが、もうすでにないのです。宇都宮というのはほとんど百貨店が撤退してしまった街なので、最後に、足利銀行も去っていきましたが(笑)。僕たちも何かやらなければいけないだろうというわけで、地元出身のアーティストに頼んで、というか彼らが自発的にやってくれたのですが、「オリオン通り」という曲を作って、1年間、レコード屋さん以外にも乾物屋さんなどで売ってもらったのです。

【オリオン通り】
 「苛立ちの爪 磨く僕のリズム
  自己主張の裏通りには 情けない財布の中身
  十字屋を通り過ぎて 神社の階段を駆け上る
  海へ行こう 夏が来る前に 君を誘い出して」

 この曲を作った斉藤和義君は作新学院高校の出身で、浜崎君は宇都宮東高校の出身で、みんな町を離れているのですが、帰ってくるたびに町がぼろぼろになっていて、やはり自分たちとしても青春の風景が消えていくのがすごく寂しいのでということで、歌詞の中に自分たちの高校時代の風景を封じ込める曲を作って、これを商店街で売ってもらい、1年間で取りあえず5000枚売れたので、僕たち的にはよかったなと思っています。これをベースにして経産省に助成の応募などをしてみて、それが通ってしまったので、野外ステージを造ってしまって。今、これから宇都宮とジャズの関係というのを月一回ずつ議論を始めていて、なぜ宇都宮でジャズをやらなければいけないのか、ナベサダだけなのという話を今しています。
 もう一つは、ちょうど僕らが「オリオン通り」をやっているころ、「青森駅」というすごくベタなインディーズの曲が青森駅のキヨスクでメインに売っておりまして、結局全国展開したときに5万枚ぐらい売れてしまったのです。
 これはなかなかいいビデオなので、3分ぐらいなので見ていただければうれしいです。基本的にはロックです。この前解散してしまったのですが、マニ☆ラバというグループ。この後、「上野駅」という曲を作ったら売れなかったです。

【青森駅】
 「明日の朝 君は発つ 向かう東 18年の想い
  最後の夜に二人きり 強く抱きしめた 雪のやまない駅
  走り出す 雪の中 君は街を離れてく
  長い夜  願い事 君が都会の人にならないように
  この想い 想い キレイナ星なら
  叶えてくれるだろう めぐり逢う頃に
  この想い 想い 君に届け 降り止まない小さな雪
  この想い 想い 君に届け 列車が君を乗せ 東へ向かう前に
  この想い 想い 君に届け 降り止まない小さな雪 
  変わらない青森駅 抱きしめた 冬の終わり
  君は都会の女性(ひと)になって 一人歩き出す 雪の駅」

 こういう感じの曲がちょうど3年前にインディーズで出て、メジャーからは発売されていないのです。東京のインディーズレベルと少し関係があるのですが、青森レコードというインディーズのレコード会社から出ておりまして、全国で大体5万枚ぐらい売れたのかな。日本のインディーズチャートの1位にはなっていて、東京の渋谷のHMVなども、CDが置いてあると「青森駅長推薦」と書いてあって、本当に素晴らしいなと思いました(笑)。
 歌詞も現代の「木綿のハンカチーフ」なのです。要するに、東京へ行ってしまう彼女へという話ですが、古典的な物語なのです。ただ、今、八戸で新幹線が止まっているので、青森はまだこの状態で在来線です。最近はコンパクトシティですか。何か郷愁みたいなもの。例えば上京した人たちにも、地域に残って生活されている方にも共通のアイデンティティがこの曲にはあるます。キヨスクのおばちゃんたちが一生懸命売ったという話を聞きまして、僕はそれはすごくいい話だなと思ったのです。
 こういう形が、2002年、2003年ぐらいから割と地味にですが、全国でかなり数が増えてきたのは現実です。

(佐々木) 確かに今の、メガヒットというのは出ないのですが、インディーズレベルが結構マニアの間というか、ファンの間に固く広がっているということなのでしょうね。
 足立さん、歴史街道の今の仕事の中で、あちこちの地域、まちづくりのお手伝いをしていると思いますが、関西で、インディーズの音楽とまちづくりでうまくいっているようなことなどはありますか。

(足立) 歌というものを中心に置いて町を見る機会が本当になくて。ただ増淵さんからいろいろな情報を頂いてあらためて見ると、いろいろなまちのイメージづくりの中に取り入れていけるかなとは思うのですが。
 そのときにやはり陥りやすいのは、ベタな観光振興的な売り出し方というのですか、たぶん進め方が違うのでしょうね。いかにも的キャンペーンではなくて、本当にそこに暮らしている人たちの自発性というか、わき出してくるものを、例えば映像にして映画として見せるか、曲に乗せて歌という表現をするかということなのでしょうね。今ふと思ったのですが、「青森駅」が余計いいなと思ったのは、映像と一緒になるからでしょうね。何とか百景とかをつくるではないですか。そういうのは景色だけなのですが、それとプラス歌のようなことで、もう少し言葉は格好いいものを増淵さんあたりに考えていただかないといけないと思いますが、1曲ではなくて、金沢のいろいろな風景を物語を重ねられるような組曲的なものができたらいいなとふと思ったのですが。

(佐々木) 例えば金沢のどんなシーンをどのように組み合わせるかというのは、後でまた聞くことにして、僕の関心で増淵さんに質問したいことは、やはりインディーズで一番ヒットしたのはMONGOL800ですよね。つまり、沖縄のインディーズというか、特にミュージックシティーのような形で、沖縄市は旧コザですね。とてもミュージシャンが多いではないですか。いろいろなタイプの人たちがいる。あれはなぜ生まれるのですかね。

(増淵) これは仮説でしかないのですが、喜納昌吉さんもコザなのです。それから、MONGOL800はコザではないのですが、ORANGE RANGEはコザなのです。なので、いわゆる沖縄民謡の人からロック系統の人まで割とコザに多く住んでいる理由は、ロックの方は結構分かるのです。やはり米軍基地が隣接していますので、外人の方と生活空間を共有しているというのは、洋楽受容をする日本人としては非常に重要な部分です。
 もう一つ、1972年、返還前まで中央のメディアが入っていなかったでしょう。だから、沖縄民謡とか島歌とか、いろいろ解釈によっては語弊があるのですが、伝統文化が保存されてきたのです。それで、戦前のジャズ、戦後のいわゆるロックミュージックとのチャンプルーが起きて、オキナワンロックやオキナワンポップスとかいわれるものに一部変換していくのです。だから、中央のメディアがある時期まで入ってこなかったというのが、僕は最大の要因のような気がします。

(佐々木) そこで、僕は特に沖縄で感心するのが、三線をみんなが弾けることです。あの人たちは、こういうことを言っては何だけれど、あまりまじめに働いているところは見ないのだけれど、ともかく夜遅くまで飲んで歌って、みんな芸人ですよね。ベースがしっかりしていて、伝統芸能や伝統文化をコミュニティがきちんと教えている、継承しているでしょう。その沖縄ミュージックの旋律というのはその上にあって、ロックや先ほど言ったようにチャンプルーになってくる。だからオリジナリティーが高いわけですね。それとインディーズ、あるいはメディアの問題があると思うのですが。
 そこで、金沢というのも、謡や伝統芸能、お座敷の太鼓の伝統的な音とか、皆さん結構たしなんでいるのですが、それが片一方でずっと演歌止まりで、ベタなところで止まっていると思うのです。その新しい流れにうまくシンクロしていないのかなとも思うのですが、この辺り、金沢を江戸の金沢、明治の金沢、現代から未来への金沢を歌うといったときに、一つは、いろいろなシーンを歌うということもあれば、金沢的旋律で歌うのか、メロディがあるのか、リズムがあるのか、恐らくあると思うのですが。
 先ほどの青森にしても、コザの話にしても、非常に強烈な地域からのメッセージがあるではないですか。そのメッセージというのを、では金沢は今何を乗せて、あるいは直接ではないけれども、メタファーとして暗喩で乗せていくと思うのですが、そろそろまとめに向けて、足立さんならどんな組曲になるか。どういうシーンとどういうシーンを重ね合わせようと思われるか。もし増淵さんが、金沢創造都市会議に委嘱されて作るとしたら、こういうのを作るのではないかとか、どんなことでも結構ですが。

(足立) すごく難しいですね。具体的なシーンというのは分からないのですが、私は金沢は常に二面性があると思うのです。先ほど言ったように、ウエットな部分もあればドライな部分もあるし、古い部分もあればすごく新しい部分もあって、むしろその辺で折り合いをなかなかつけられずに、ぎくしゃくとしながらも、でも、それがエネルギーになって、何か複雑な魅力を町に与えているような気がするのです。白黒で割り切れない面白さみたいな。だからこそ、ユーミンが言うような、あの歌が合うのです。先ほどの女性は、別れた恋人への思いにはっきりけりをつけていないでしょう、まだ(笑)。思いを持っているのだけれども、また新しく歩きだそうともしている。これまで、何でも白黒はっきりつけるのが素晴らしいことのように言われていたけれども、すべてそんなにはっきり割り切れるものばかりではないと思うのです。特に私たち日本人は、そういうあいまいさと向き合う心を大切にしてきたと思うのです。そういう割り切れなさの美学のようなもの、ジャパン・クールといわれているのは、そういう部分も含めて関心が持たれているのではないかという気がするのです。メディアにあまり侵されすぎていない金沢というように私は思っているのです。例えば大阪。大阪などはメディアに弄ばれて、大阪イコールこてこてのお笑いというイメージを貼りつけられていますが、実は『細雪』の世界のように、本当にしっとりとした素晴らしい文化もあるのです。金沢というのは、何となくこういうイメージかなというのはあるのですが、未知の部分もある、謎めいているというようなところがあるので、その辺をうまく出していけたらなという思いを持っているのですが。

(佐々木) 歌手でいったら、こういう人に歌ってほしいというのはありますか。

(足立) ユーミンもいいし、あとは「ゆず」が好きなので、彼らが歌ったらどんな金沢を歌うかなと思うのですが。

(増淵) ご当地ソング好きですからね。「桜木町」ですから。やはり音楽、曲だけではないなというのが前提にどうしてもあって、先ほどの札幌の事例でも、ほかのコンテンツがかなり大きいなと。小説でいえば渡辺淳一から始まって、今は大崎善生とか浅倉卓弥さんまであって、今、仙台は『重力ピエロ』の伊坂さんや佐伯さんとか、伊集院静さんも今仙台に在住されているので、その辺はかなり効いている感じがするのです。作家の在住率が結構キーになっていると思うのです。今、高崎が、絲山秋子(いとやま・あきこ)さんが去年東京から引っ越されて、絲山さんの周りでムーブメントが小さく起きているという話も聞きます。
 だからクリエイターがここに住むかどうか。その住むだけの魅力をこの町にあるか、もてなしがあるか。戦略的には、金沢出身の女性の小説家の唯川恵さんがいらっしゃいますね。短編集の『病む月』というのは全編金沢が舞台ではないですか。ああいうのをもっとうまく作戦としては考えて、それをドラマに持っていくか、漫画に持っていくかとか、そういう展開を少し考えながら、そこに音楽を乗せていくという戦略をするのだろうという気がします。

(佐々木) それは増淵プロデュースで可能なの?

(増淵) 可能ですよ。

(佐々木) そうですか。それは楽しい。創造都市会議というのは実験的プロジェクトをやろうという話がいつも前提にあるので、そういうことだったら、一つ実験的にやれますね。さて、どのように歌うかという話をしてきたのですが、今、世界の創造都市をめぐる競争が始まってます。それは、かつて、今から10年ぐらい前までは世界都市をめぐる競争であって、これは明らかにグローバルな金融の力の集まる所が一番大きな焦点でした。しかし、今はそうではなくて、先ほどから話題になっている、アーティストやクリエイターなどクリエイティブクラスの人たちが集まらないとその都市は発展しないという世界的な共通の話が都市論の先端のところではあって、それがクリエイティブシティ(創造都市)ということになっているわけです。われわれが2001年から始めたときも、金沢が21世紀にクリエイティブクラスから選ばれる都市、あるいはクリエイティブクラスが住みたいと思う都市にしたいということがあったと思うのです。
 では、どういう都市が選ばれるのか、今、アメリカの創造都市論のスーパースターはリチャード・フロリダです。彼はフロリダ生まれではなくて、ピッツバーグの人なのですが、よく「3(スリー)T」というように。タレント、テクノロジー、トレランスなのですが、結局、クリエイティブな人たち(タレント)が集まる都市というのは、トレランス(寛容性)のある所だということなのです。
 寛容性というのは少し分かりにくいかもしれませんが、アメリカでどういう都市が寛容性は高いかというと、例えばサンフランシスコやオースティンなど、いわゆるゲイやレズビアンという人たちが多い町がトレランスが高い。そういう人たちが実際はアーティストだったり、クリエイターだったりする割合が高いということと、その人たちはやはりこれまでにない新しい感性やアイデアを持っているわけですから、その人たちが隣にいるだけで、「嫌だ」「排除したい」「こんな気持ちの悪い人たちとは一緒にいたくない」というようなことだと、その町は発展しないのです。
 つまり、保守性というのはまずいわけです。その新しいことや、少しおかしな考え方を持っている人たちを受け止めて、その人たちと一緒に何か事が起こるような町、これが創造都市の条件だと言っているのだと思います。そういう意味で、金沢が例えば音楽の分野で創造都市だといった場合に、どういうトレランスが発揮できるのか。その辺りが一つのテーマではないかと思う次第です。
 この辺りで最初の「金沢をうたう」という場を閉じたいと思います。どうもありがとうございました。
 
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