分科会まとめスピーチ
国際文化研究センター教授
川勝平太

 今日は朝11時から澁谷会長のごあいさつに始まり、飛田さんの基調の問題提起、そして、福光さんのこれまでの経緯を皆様お聞きになられました。そして午後に入りまして大内先生のセッション、佐々木先生のセッション、それから水野先生のセッション、それぞれ素晴らしいゲストが中身の濃いお話をなされ、堪能されているに違いないと思います。したがって、本来ならばこういうセッションはないはずです。ところがどういうわけでしょうか、朝から時間が見事に厳守されております。従いまして、レセプションまでの時間、少し空いているということになりまして、本来ならば今日の講師の先生方のお話をじっくり消化するといいますか、静かに自分の体の中、心身の中にしみ込んでいくのを待つべき時間に充てるべきではないかと思っているわけですが、しかしながら、しばらくお時間をちょうだいしたいと存じます。
 飛田会長のお話は、飛田さんご自身のお考えもありましょうが、今回、この金沢学会あるいは創造都市会議というものを主催されている経済同友会全体のご意見でもあるということで、その問題提起を三つの分科会、三つのセッションが受けた形で、何を引き出すべきかというそこを考えてみたいと思うのです。
 最初に都市遺産の価値創造ということで、価値は何かというところから始まったのですが、これは難しいですね。しかし、どこかで価値は何かということについて整理しておいたほうがいいと。そうすると、大きく分ければ何が真理か。真理というのは大きな価値ですね。それから、何が善かというのもあると思います。何が美しいかと。真・善・美というのは三つの価値ではないかと思うのです。真理に対しては偽りという、それから善に対しては悪が、美しいということに対しては醜いというマイナスの価値が対応するのですが、この都市遺産ということに対して、都市遺産は真理かと問い掛けてみますと、問い掛け自体がおかしいですよね。答えにくいですね。都市遺産が真理か、都市遺産が偽りかというのは。また都市遺産が善か都市遺産が悪かというのも、これも答えにくい問いだと思うのです。
 人類の都市遺産、金沢の都市遺産が、これは美しいものかと問うてみると、その美しいものを残さないといけないというところに来ると思うのです。ですから、美ということの価値に実はかかわっていると。これは金沢学会が設立されたときに、美しい金沢を作っていくと。そういう美しい金沢を作ることをとおして、美しい日本を、またさらに美しい地球へのメッセージを送っていこうということになっているのではないかと思うのです。
 そういうのを少し念頭に置きながら、大内先生のセッションで、大内先生が冒頭でアテネ憲章を引用されまして、1933年アテネ憲章において、人間が作ってきた人類の英知というものが造形的な美徳として都市に結晶しているという自覚を持つべきだという憲章を紹介されました。そしてベネチア憲章を経て、ついに1972年にユネスコが世界遺産、自然遺産、文化遺産というものを、まさに複合遺産ですね、こういう世界遺産というものを採択して、日本にも十指に余る世界遺産が今、登録されることになったわけです。そういうことに鑑みますと、この美徳というものが結晶しているという、こういう認識、これは非常に何といいますか、重要なメッセージを最初に言っていただいたと思います。
 我々は都市全体といいますか、こうしたものが一つの人類の、あるいは金沢なら金沢という都市民のそういう美徳というものの造形的な形であるという観点で見たことがなかったと思うのですよ。だから、こういうメッセージというのをしっかりと頭にたたき込んでおくということが大事です。
 そうした観点からアングルベール先生のお話を聞きますと、リェージュという古い町、そこに残されている城、あるいはお館でしょうか、日本で言う屋敷、館(やかた)ですね、マンションとでも言うのでしょうか、そうしたものの美しさに、これは地元の人だけではなくて、だれもが「なるほど美しい」と、そこには一種風格があるということを感ぜざるをえないわけですね。
 だから、都市の遺産の使い道といいますか、都市全体、この遺産をどう使うかという使い方というのは、お金の使い方もそうですが、どう使うかというところにその人の品格というか、その人の性格というか、それが表れてきますね。ですから、都市の遺産の使い方についても、これを子供たち、青少年たちにこれがどうして造られてきたのかという伝統技術を継承させながら、実際のそういう遺産に慣れ親しんでいくような、そういう人を作り上げるための試みを実に細かくご紹介していただきましたが、いい勉強になったとつくづく感じ入っております。
 ただ、最後の大内先生の質問の中で、金沢についてどう思うかと言われたときに、金沢らしい、日本らしい、きれいな建物がある、ところがヤンキーのものが多いと言われましたなあ(笑)。これはやっぱりそのとおりだと思う面がありますよね。
 そうした観点から三宅先生のお話を聞くと、先生が挙げられたのは鎌倉ですよね。これは中世ですよね。ですから、もちろんここには南宋の影響があります。しかし、中国のいわゆる南の臨済禅、五山というのは臨済ですから、鎌倉五山、お庭あるいはお茶、それから絵、そうした仏像以外の周りの景観というものを大事にした、そういう町、これが今に残っているということを上からの航空写真で見せてくださったわけであります。
 それから石見銀山、これは江戸時代、中世末から江戸ですね。ですからこれもアメリカと関係ありません。
 それからもう一つ横浜を見せられました。横浜はもちろん日本の最初の貿易港の一つなのですが、戦前の姿が基本です。戦前の日本と欧米との関係というのは、基本的にはヨーロッパとの関係ですね。日本はヨーロッパの影響をいちばん強く受けております。
 アメリカに影響を受けるのは戦後であるということがありまして、ここでアメリカを抜いた形での、東京の下町の雑然とした所を見せられました。これは東京というのはやっぱりアメリカとシンクロするところがありますね。焼け野原になってアメリカの影響を受けて日本は戦後復興して、その中心が東京でした。だから、東京はニューヨーク、シカゴ、ワシントンなど、そうしたものとの親近性のほうがある都市ではないかと思います。そこがかなり汚いような所があるということでした。
 そんなことでヨーロッパというのが出てきたなと思って、そして次の佐々木先生のセッションで、これは大阪と京都から、それぞれ名人といいますか、目利きがお越しになりました。そして小原さん、実に面白かったですな。特に杉浦さんがやっぱりUFJ、お金を扱ってらっしゃるところだけあって、実に整理された話をなさいました。そこでいわば佐々木創造都市理論の、どういうものであるかということにおけるヨーロッパのナントとリールの事例を言われて、芸術、あるいは音楽、あるいは市民を巻き込んだ熱気といいますか、そうしたものが町に活気を与えるのだという事例を言われました。
 市民力というものがキーワードだというふうに杉浦さんが言われたわけですが、小原さん、その市民力を三条通りで明かりで実践されている模様を言われました。これはやっぱり感動しましたですね。青年たちの顔もいいし、そして、町の人たちが応援しようとしているのが短い画面から伝わってまいりまして、いいことされているなあと。これはどういう人なのだろうと思ったら、この大阪の造船所、これスクラップとも見られかねない所に魅力を感じて、そしてついには柄谷行人や磯崎新や浅田彰さんなどを呼び込むようなセッションや、あるいは音楽会や、いろいろなイベントをされておられて、もう変貌するわけですね。
 これは美というものが「ああ生命だ」と、生き生きしているということだと、感動だというようなことが、美というとなると何となく止まっているような感じですけれども、そういうものとして都市の遺産というのは生き生きとしたものでないといけないというメッセージを、恐らくこの会場にいらっしゃる方々は「小原さんみたいな人を呼んできたいな」とだれもが思ったに違いないわけですね。
 ここで要するに20世紀の遺産、これは後半の遺産、特にソ連とアメリカとの冷戦の中で、ともかく生産力を上げると。効率的に計画経済でやるか自由主義でやるかどちらが生産力をたくさん上げられるかということの競争だったわけですが、そうした中で忘れられたものがあると。そして、いわば負の遺産になっているようなものもあって、今や廃墟になっているような所があるのではないかということで、その問題提起に対して、見る人が見ると違うという目利きがいるということですね。目利きがいるということですね。その目利きを活用すると、これはいろいろな人を巻き込んでいくという話でなかったのではないかと。まさにクリエイティブ・シティーということの事例を、ヨーロッパと日本で佐々木先生、見事にここで紹介していただきまして、大変ありがたく存じる次第です。
 最後の水野先生のセッションですが、伊東豊雄先生は最初の仙台の作品、お気づきになったかと思いますが、先生がパッシング・リマークで、たくさんの木があって、公園のように造るとおっしゃったでしょう。だから、伊東先生の作品というのは、環境というか、自然というか、あるいは風といいますか、そことの折り合いがものすごくいいわけですね。そこに風が通っているのですよ。密閉化された空間ではないのですね。自然とのコミュニケーションが素晴らしくいい、環境とのコミュニケーションが素晴らしくいいと。
 したがって、パリの病院においても、先生はそこで、ホスピスで亡くなられる方々が、あるいは世話をする人たちがいる場所に、庭というコンセプトを立てられて、それをどういうふうに人々が楽しむといいますか、そこで生を終えるなり、そういう人たちを世話するなり、そういう空間を庭というコンセプトでやっているとおっしゃいました。やっぱりここに、単に建物だけでなくて、それを取り囲む空間というか、自然といいますか、それも人間の造形がそこに入るわけですけれども、そうしたものを考えないといけない。
 そして、そうしたものがやがて遺産になっていくという事例はバルセロナにおいて、建築のいわばメッカでありますので、そこで新しい建築、人間が造って、人類の英知、人類の存在理由とでも言うべき、そうしたものが建築だというふうに思っている市民がいて、そこで実に、何といいますか、奇抜というか、あるいは人工的というか、あるいは大地に対して人間の英知がそこに結晶しているというか、そうしたものをお見せになって、かえってそこで自然と人間というものとの共在のしかた、これは緊張環境の中で存在しうるということのよさをお見せくださったというふうに思うのです。
 そして、それとの対比で言えば、立川さんからはまさにたくさんの人の名前が挙がりました。まさに人との折り合いが名人芸の方だと。この人にはこの得意芸がある、この人にはこういう個性がある、これをくっつけたらどうなるかという。たくさん自分はストックがあるとおっしゃっていましたが、そこでもう一つ我々が大事な、つまり、自然との折り合いだけではなくて、まさに人と人とのネットワーク、そういうネットワークを動かすことのできる人間の重要性ですね。これは小原さんの場合にも感じたわけですが、立川さんの場合にはもっとすごいレベルで、世界レベルで動いている仕掛け人とでもいいましょうか、プロデューサー、ディレクターが芸術の分野でいるという、それを目の当たりにして、そしてこの最後のところで、アメリカの重要性というものを、自分はペリー提督だと諏訪に行ったときに言われたと。そしてビートルズの出たリバプールについて、説明は実にアメリカというものの重要性を強調されたと思います。
 あそこはイギリスで一番アメリカに近い所で、移民もあそこから行きました。アイルランドの人たちもいったんリバプールに来て、そこからアメリカに移民していった所であります。だから、アメリカの文化がそこに入って、そしてロンドンのような言ってみれば古い所と違う文化を世界に生み出していく拠点になったのだと言われたわけですね。
 そういう観点でもう一回日本を見直すと、日本はやはり戦後、この建物もそうかもしれませんが、高く建てる。シカゴのように山がない所ですから、どんどん高く建てることによってかえって人工の山の美しいスカイラインを造っていくような、そういうところがありましたが、我々はそれにあこがれたことは間違いありません。金沢も例外ではなかったと。特に太平洋側の工業都市はアメリカの影響を受けたし、アメリカの影響を受けんとしたし、アメリカにあこがれたわけですから。
 したがって、我々はアメリカと接することによって今、何といいますか、アメリカという大きな文明ですね、ペリー一人が最初はもたらし、それが今、戦後日本、国民を挙げてアメリカ化したことによって、かえって自己とアメリカとの違いといいますか、日本に気づいて、それは案外ヨーロッパに近いのではないかと、こういう自己認識に至ったことが、ここではもう1回ヨーロッパを、つまり都市遺産を見直すときには、ヨーロッパ的なものが大事だと。
 そうすると、ヨーロッパというものはご承知のようにいつも後ろを見ているわけですね。ルネッサンスから始まっていますから。古典古代がいったん、地中海がイスラムの文明圏になって、ヨーロッパ、地中海世界からはじき飛ばされて、いわば農業しか、あるいは土地しか富の源泉がなくなる時期が来るわけですが、そのあと12世紀からあったといいますね、12世紀、13世紀、いわゆる14世紀、16世紀のイタリアルネッサンスをはじめ、古いものを、日本的に言えば温故知新ですね、古きをたずねて新しいものを作っていくと。そして、ビザンチンの文化もオスマントルコに滅ぼされたあとヨーロッパに逃げてきますから、イスラム文化が翻訳されると同時に、中東のものが入ってくることによって、ヨーロッパが自己をアイデンティファイし直して、そして新しいインテグレーションの動きをしていくということで、そのまさに古きをたずねて新しきをという、そこにやっぱり我々が今ヨーロッパ的なものに回帰するというのは、そこにあるのではないかというふうに思うのですよ。
 そして、こういう今三つのセッションを聞いたあと、経済同友会を代表した飛田さんの話で、まず「気づくことだ」と、そして「大切にすることだ」、それから「発見することだ」と言われましたが、気づくというのと発見するのとどう違うかというのを考えていたのですけれども、ともかく都市遺産というものがあるということに気づくと。英語で言うと be aware でしょうね。それに気づくと。都市遺産というものがあるということに気づくと。
 それのために今月の20日に金沢検定という試験、これはすべての人にオープンなわけですね。金沢市民だけでなくて、国際的にも、世代を超えてだれが受けてもいい、それで3000人の人が受けたという。これは金沢を知らしめるといういわば広報というよりも、金沢大好きな、愛している人たちが、自分はこれだけ知っているはずだということを試しに来ているわけです。自己評価に来ているわけですよね。
 その評価する側、すなわち金沢経済同友会、これもやっぱり主体になられたわけですが、それと石川県、あるいは金沢市、これが協力して試験問題を作って、100問作られたそうですが、そうすると何が出てくるか分からないということは、出題者の側にとっても何を出すかということをやっぱり考えなければいけないということがあったに違いないと思います。したがって、出題者の側にとっても「金沢とは何ぞや」ということを改めて考える機会になったに違いないと思うわけです。
 ともあれ、何だかんだ言っても兼六園もある、辰巳用水もある、白山もあると。もうそれ全部合わすと、これはもう世界自然遺産としての白山、世界文化遺産としての兼六園といったようなものはどこに出しても恥ずかしくないはずだと。その説明づけもきっちりできるという話になって、どういうふうに体系づけるかは別にして、少なくともここの持っている遺産は世界遺産並みだという、そういうことで大切にしなくてはいけないという、それを二番目に言われたと思うのです。
 そして、さらに「発見する」というところで金箔の例と鈴木大拙の話をされたわけですね。金箔はあそこの伝統的な場所、ひがしに工芸店がありますよね。そこに行って実地で分かるわけですが、実に美しいですよね。実に美しいものです。これ以上の美しいものが作れるかというくらい美しい。その金のグラデーションといいますか、もうありとあらゆる色合いを出すことのできる技術というものが、ここに息づいているわけです。
 一方、鈴木大拙は『禅と日本文化』というのを戦前に書いて、戦後これはまた名訳で岩波新書に入っているわけですが、彼は禅を書いたときに、禅と武士道、禅とお茶、あるいは禅と生け花、禅とお庭だというようなことで、すべてのものに禅というものが重要だと。禅というのは「示す」偏に「単」と書きますが、これは中国語では「ぜん」と読まないでしょう。世界で禅と言っていますのは、これは鈴木大拙さんが「ゼン・アンド・ジャパニーズ・カルチャー」として本を書いたから「ぜん」なんですね。
 ですから、まさに日本の文化として世界中に知られているわけですが、この禅について彼が書いているところは、「禅は美学にかかわる」と書いています。美にかかわると。これは不立文字ですし、仏像を作りませんから。仏像を拝みませんので。したがって、その周りをきれいにするということをしていくと。心の平安を持つために一服のお茶をたしなむと。そしてまた、お茶をたしなむときに、そこにお花を生けると。そうすると、お花はまたガーデニングをさらに促進していくという相乗効果で、見事な禅の造形美というものが戦国末から江戸初期にかけてでき上がっていくわけですね。
 その江戸初期に日本は文化を作るわけですが、江戸の文化を残しているのはどこかと。本当の東京の江戸は、それを食いつぶして、東京文化といいますか、アメリカ文化、あるいは欧米の文化、これをそこに入れ込んでいったわけです。大体日本海側以外はそうです。太平洋側は大体それを食いつぶしてしまいました。それが残っているのはここではありませんか。金沢です。金沢には江戸文化のエッセンス、加賀百万石のエッセンスがやっぱり残っているのですね。これは美しいのです。そういう意味でこれはやはり面的なものだろうと思うわけであります。
 結局、また元に戻ってきて、美徳。都市の景観の中に、人類がこれまで集合して住まう所が都市でありますから、そこに人類の英知が造形美としてあります。これを美徳として見ようという、そういうのに帰ってきて、先ほどの話につながっていくということですね。
 だから、私はこれをどう育てていくかということで、やっぱりそういうものとして見たときに、これが人を作ると。こういう町のたたずまいが人を作っていくと。今度また人間が町のたたずまいを新しく造っていくと。これは伊東先生が、あるいは小原さんがなさっていらっしゃることで、一点突破で今その人類の遺産を遺産として造るのではありません。生きている人を元気づけて、そして喜ばせ、感動させる。感動させるものは実は真理とか禅とかというよりも美ですよ。
 しかしながら、やっぱり間違っているとこれはうまくいかないから。やっぱり真理ともかかわってくると。また、人のためになっているということですから善でもあるわけですね。だから真・善・美というものがすべて入り込んだ形での都市づくりではないかと思うのです。
 ですから、我々が初めて金沢総合都市会議で都市遺産というものを、都市全体を遺産として見るという見方を獲得しようということで今回やったわけですが、差し当たっては幾つかの個別の建物ということで始まったけれども、最終的にはすべてのものが反転して価値を持ちうる、人に元気を与えるという意味では、都市全体がその可能性があるということを学んだと思うのです。
 そうなると私は、白山は自然遺産だ、兼六園は文化遺産だというふうなことを言っていたらだめだと思いますね。大体、白山が自然遺産だと言おうと思ったら環境省に行かないといけません。文化遺産だということを言おうと思ったら文化庁にお願いしないとなりません。それだったら始めから複合遺産だったらいいではないですか。それなら環境省も文化庁も一緒にやりますよ。そうすると白山の水が、白山連峰の水が犀川に流れて、犀川の水が金沢の平野を、手取川もそうですが、それを潤して、それの芸術的な帰結の一つが辰巳用水であり兼六園であるということになりますから、これは全部遺産だと。そこには風が入っているのだと。山の景観が入っていると。
 伊東先生のお話で我々はそういうふうなことだと、建物は建物だけであるのではないのだということを学びましたので、全体を見ながら、白山から加賀まで一望しながら都市遺産を考えるという、そして、世界遺産への登録の運動をしていくということになるのではないかと思いました。
 価値としては真・善・美のうち、特に美というものが大事だということであります。しかし、それはとどまっている美ではなくて、人間が作られ作っていくという過程の中にある美として、人の心を育てる、そういう都市、また心を育てるような人を作るという形でこれからまちづくりをしていかねばならないということであります。
 そのことは結局、地に着いた学をしていくと。生活者がしていく学問ということで、まさに民間の人たちがやっている「金沢学」であり、その「金沢学」の中身をもし問えば、これは創造都市学だと言っていいかなという。そういう創造都市学として、あるいは金沢学としてまだ体系化されていません。ようやく試験問題を出すというくらいにきたばかりであります。ですけれども、ここに我々は間違いなく出立点に立ったということではないでしょうか。そして、やっぱり我々は常に新しいペリー提督といいますか、目利きというものがいるということで、この金沢は、最後は我田引水と申しますか、あれになるかもしれませんけれども、金沢市の人たちだけではそれは造っていけないと。やっぱり人類の進化といいますか、地球の進化の中の一翼を、一こまを担っているということからしますと、これは金沢は金沢だけのものではないと。すべての人のものでもあると。ということで、内外の人々と協力して、金沢創造都市会議を形にしていこうということになるのではないかと思う次第であります。どうもありがとうございました(拍手)。




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