金沢学会プロジェクト報告
「大手門中町通りの再生」
 ― 中町通り修景整備事業と沿道のまちづくり ―
     

報告者:米沢 寛
 
おはようございます。平成14年11月に、この大手門の中町通りの再生という提言をさせていただきました。それ以後の経過報告をここでさせていただきたいと思います。(以下、スライド併用)

● まず、なぜ中町通りの再生を提言させていただいたかというと、お城に入る門は、ここに書いてありますとおり、10ヶ所ありました。しかし、現存するのは石川門だけです。そういう意味で石川県民、金沢市民は、石川門が正式な門だと思われている方が結構いらっしゃいます。そういう意味では唯一の公式門であり前田家、徳川家、天皇家だけしか出入を許されなかった大手門の認識をしていただきたいことと、参勤交代もこの場所から出発しておりますので、そういうことが一点ありました。

●もう一点は、これは江戸時代の図面ですが、ほとんど今と変わっておりません。これが金沢城ですが、もちろん江戸時代の前田藩の前は一向宗がここにおりました。そして、江戸時代は前田家、その後は軍隊、その後が金沢大学と。この本当の金沢の中心部は金沢市民というか、一般の人たちが全然出入りできない場所でした。どうしてもこう迂回するとか、直接ストレートに行けば非常に近いですが、ここが通れなかった。そういう意味では、文部科学省から、初めて県民、市民の手にこの場所が戻りました。
 ご存じの通り、今は金沢城公園として整備されておりますが、そういう意味でこの辺りに兼六園がありますが、実は兼六園に来る観光客の皆さんも、ここでバスの乗り降りをして兼六園を見ていただき、それからまた、ここからバスに乗って長町の武家屋敷に行くか、この辺りのひがし茶屋街のここにバス停がありますが、バスで移動なさっています。そういう意味では、歩ける町づくりを目指している金沢とすれば、ここを通ってこのまま大手門へ。いい道ができて、ここを歩いていただければ、非常に回遊性が高まるということで、魅力ある、歩けるような道を作れないかということが提言の理由でした。そして、11月に開催して、その提言を金沢市に翌年受けていただきました。

● これが現状の中町通りですが、約300mで、ここが国道157号で、大手門はこの辺に門がありましたが、300mありまして、ここを0としますと大手門まで高さ2.5mの勾配がありました。大手門の上の方からは、5.5mの高さの違いがあります。それから、ここにわき道がありますが、ここに木戸の跡が残っておりまして、ここから道が狭くて、ここから広くなっています。というのは、この辺りが前田藩の家老の重鎮の屋敷群でして、この木戸の前からが町民の町家になっています。

● これが現存の大手門から国道を見た通りですが、非常に何の味気もない道で、ここからここへ歩いていくというのは、非常に無理かなと思っています。
 金沢市にその提言を受けていただきまして、二つの会を作っていただきました。それぞれ9名ですが、非常によかった点は、この懇話会は大学の先生および歴史、郷土史家等の方たちが集まり、また建築士会からも出席いただきました。同友会からは私が出席させていただきまして、9名の会であります。今回非常によかったことは、推進部会というものがありまして、これは大学の先生にお二人入っていただきましたが、実は中町通り沿いの町会長さんにも入っていただきました。私もこの中に参加させていただきました。懇話会で話し合ったことを推進部会へ持っていって、推進部会からまた懇話会へ返しまして、それを市の事務局が調整してまとめていくという形態をとらせていただきました。

● 最初の基本的な考え方とすれば、暮らしの安全性、快適性の向上、歴史、文化を伝えるシンボル空間、都心の方向、ネットワークの形成という基本的な概念を作りました。

● その後、先ほど言いました懇話会と推進部会を6〜7回開かせていただきました。その中では、時代設定は江戸後期にするとか、藩政期から残る道路形状を生かす。史実のありようを伝える等の方向性、また金沢城の正面にふさわしい景観整備等をすると。私有地の一部を取り込み、モデル的な事業を行う。無電柱化を行う。また、歩道者を分離して、歩道幅をできるだけたくさん取るという基本的な考え方を詰めました。
 この懇話会と都市推進部会では、一番ふさわしいのは一方通行だろうという話になってきました。歩行空間というか歩道の幅を広げるには、どうしても今は狭い所に両方、車が通っていますが、一方通行にすれば両わきに歩道ができて非常によいので、理想とすれば一方通行ということで、一応一方通行の案がこの会では決まりました。
 それが本当に可能かどうかということで、同時に11月から、1日に約1万台の車があの通りに通っておりますが、その車の流れを、一方通行にした場合に、どの町会のどの道路にどれだけ車が流れるかという想定をしたかったので、その交通調査も同時に併せてやりました。
 そして、大体その案が固まったところで、平成16年4〜11月に、この周りに約16町会ありますが、夜、それぞれの町会に説明会にお伺いしまして、約14〜15の説明会を開催させていただきました。無電柱化や道路自体の整備については非常に賛成が多かったですが、一方通行には住民といろいろもめました。もちろん中町通り沿いで商売をなさっている方は、一方通行では当然、非常に商売にマイナスになることと、周りの町会は、そこを一方通行にすると、自分たちの町にどんどん車が入ってきてしまうという心配をなさいました。そういう意味では、自分たちの周りの道もきちんと確保してもらわなければ、一方通行は認めないということで、一年かかっていろいろご説明しましたが、なかなか調整がつかなかったのが現実です。
 それで、説明会をしたあとに、地元の皆さんに事務局から、今の経過報告の「大手門中町通りニュース」という手書きのペーパーを、全所帯に2回配らせていただいたのと、「今の計画に対してどんなふうに思われますか」というアンケートも取らせていただいております。
 それで、最後にこの会の締めくくりとして、平成16年11月に、いろいろな関係者町会と最終案の調整に入りました。地元の要望からすれば、やはり雨水、排水の設備は早急にやってほしいと。無電柱化も、大変きれいになる話だから進めてほしいと。ただ、一方通行については、こちらもいろいろ考えまして、今より車道は狭くすると。そして、片方の歩道は、幹線型の幅広いいい歩道を作らせていただく。ただし、片方は少し狭い範囲で、国道の拡幅がうまくいって、ほかの道路も整備された時点で、一方通行化するということで調整がつきました。それで、2月15日に懇話会推進部会として最終の案を決定して市町に提言させていただいております。
 それを受けまして、平成17年に地元の住民といろいろお話をしまして、自主設計に入りました。今の予定では、まだ議会に通っておりませんので、はっきりしたことは言えませんが、18年、19年に雨水排路、無電柱化工事を2ヶ年でやらせていただき、19年度に道路修景整備工事にかかりまして、それで道路上とすれば19年末に完成すると思います。

● これが形状ですが、ここにNTTのケーブル、電力ケーブル、雨水、排水の管を下に設けます。道路幅としては、車2台が通るには非常に狭いですが、ここも歩道の環境を良くするということです。また、江戸時代にはここに水路が流れていたということで、それも表現しようということになっています。非常に狭くしましたが、なお車のスピードの速度が落ちて、周りの歩行者については、なお安全になるのではないかという気がしています。

● これは広い方で、若干NHKまでは広い空間なので、同じ形態です。

● これは町民の説明会で使った暮らしとして見たパースです。本来はこちらを広げたかったということですが、一応これは完成予想図でありまして、ここに水路が見えております。これが、今見えていませんが、後で説明しますが、県のほうで河北門の復元という話が出ておりまして、もし復元しますと、この通り沿いから河北門の姿が見えますので、非常に風格ある通りになると思います。
 大手門はここを曲がって、この左のこの辺にあったはずですが、史料がないということで、復元は非常に議論を呼んで遅くなるだろうということです。河北門については、明治初期まで残っていて写真も残っています。そういう意味では、復元が早いだろうということで、パースにこれを書かせていただきました。委員会では、この歩道の素材、石積み、すべて細かく話し合いました。

● この津田玄蕃邸ですが、江戸の時の大手門の前にあった屋敷です。これは、今は兼六園の公園管理事務所の物置になって残っておりまして、非常にもったいないので、経済同友会としても、この津田玄蕃邸を元の場所に復元し、持っていけばどうかという話をしています。

● これが中町通りですが、今言いました津田玄蕃邸はここにありました。ここの写真も残っておりまして、この横の水路の写真が残っておりますので、史実に忠実にしようと思えば、ここに津田玄蕃邸を移すのが最良だろうと思います。
 もう一点、将来のことになりますが、今ここにNHKは550坪あります。これが今、移転の話が出ておりまして、4〜5年先には移転なさる。そういう意味では、この道路は3年かかって非常にいい道路になりますので、私たちの思いとすれば、津田玄蕃邸のここへの移転と、このNHKの跡を道路に合わせて何を持ってくればいいか。また、何をすればいいかということが議論になると思います。
 この辺りを歩いていただきますと、ここに金沢文芸館ができました。泉鏡花記念館、徳田秋声記念館がそこにありまして、町名復活日本最初の主計町もここです。国の保存地区になりましたひがし茶屋街、そしてそのあと、ここに卯辰山の寺院群がありまして、最近「こころの道」と呼んでおりますが、それも非常に人気を評しておりますので、兼六園からお城の中を通られて、こういうふうに歩いていただければ、非常に金沢のいい風情が味わえる町になるだろうと思っています。

● これは河北門の復元の調査を開始するということで、ここに書いてありますのは、確かに史実に忠実ということで、資料が残っている河北門を最初に復元しようという話です。

● これは、河北門がどうかという鳥瞰図で、今の史料から想像で書いていただいた絵です。
 これは県庁の発表として、いちばんやりやすいと書いてあります。

● これは、前回の去年の発表の過程でCGを作らせていただいたときの資料です。
 石川門とほとんど同じ形をしています。尾張町の国道から見えるのは、この辺りが5.5mから、あそこですと7mもありますので、十分に国道からこの部分が見えると思っております。

● これも、この間、県で書いていただいたイメージ図です。
 あと、14年度11月の提言を、金沢市長にここに出ていただき、すぐにそれを受けていただきまして、推進部会を始めた結果、19年には道路整備ができることになりました。今回、非常に勉強になりましたのは、自分たちの思いと町民の方たちの思いが少しずれておりました。そういう意味では、その中に入って市役所の皆さんといろいろお話をさせていただいて、いろいろなアンケートを取ったり、ニュースを出したりという新たな試みをやらせていただきまして、市の皆さんも非常に勉強になったとおっしゃっていました。そういう意味では、新幹線ができる10年後までに、これがすべて実現すれば、新しい場所ができると思っています。以上です。ありがとうございました。
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