分科会3 「都市遺産からの刺激」
     
伊東豊雄
立川直樹
 
水野一郎  
   
(立川) 最後にバルセロナの話を伊東さんがおっしゃっていて、僕は今、イサム・ノグチのミュージカルを作ろうというプロジェクトに・・・

(水野) ミュージカルですか。

(立川) ええ。もう5年ぐらい、あの人はすごいやっぱり面白い人生を送っているし、マーサ・グラハムの舞台美術なども全部やっているので、そういうのでやろうとニューヨークの財団とも話したら、面白いから、できるかできないかという。僕はできるかできないか分からないものをやるのが好きなので、牟礼にあるイサム・ノグチの庭園美術館に行って、25歳の時からずっと、今、66歳なのですけど、ずっとイサムの石を実際の切り出しとか、石を集めて吊るのも全部やった和泉さんという方がいらっしゃるのですね。今も実際に彫刻を自分でやってらっしゃるのですけど。
 彼と話したときに、当時そのイサム・ノグチが、庵治(あじ)という町と牟礼と両方、石の産地で有名なのですが、ユネスコの庭を作るときに最初に庵治に来たのです。64年にイサムと和泉さんが会うのですが、そのときに香川県知事の金子さんという人が、「とにかく香川県というのは産業がないので、建築などの文化を持ってくるんだ」というのを、何かいい意味で思いついて、実際にそれをやってしまったのです。だから今、猪熊弦一郎の美術館とか、イサム・ノグチのものとか、あと三つくらいあるのですが、それが残っています。
 また、山本さんという、ヘルシンキオリンピックの時の三段跳びの選手がその金子知事の下にいたのです。これはすごくいい話だなと思ったのは、今のオリンピックに行くような選手は、コーチがいて何やらいろいろしているけど、戦後すぐの時代だからコーチなんかいなくて、自分の力で行った選手がオリンピックのあとに役所に入ってやっていたので、とにかく根性があった。それでさっき「本当に今、コンピュータで作る建築が多いが」とおっしゃっていましたが、とにかくコンピュータなんて全くない時代に、何かやろうとしたら人の力でしかないではないですか。
 だから今、ヨーロッパの人たちの議論好きとか、ああいうのは僕はやっぱりものすごく大事なことだと、造っていて思うのです。だから、何かやっていて「できない」と言ってしまうようなことが・・・やっぱり都市で何かやろうとすると、必ず規制もあるし、「こうじゃなきゃいけない」ということがあると思うのですよ。
 だから、ちょうど今年やったのですけど、新宿のコマ劇場という、これはやや都市遺産に絡んでくる話なのですが、3年くらい前に、ロックグループのクイーンのミュージカルで「WE WILL ROCK YOU」というのをロンドンで初演を見て、「すごくいいから日本でやろうよ」という話をして、当然プロモーターとテレビ局がのって、実際にやったのだけど、最初はテントでやろうという話があったのですね。テントは建てる場所と費用と考えたときに、途方もない金がかかる。それでふと思ったのが、コマ劇場です。皆さんご存じのように、結局、座長公演というのができる人が年々減っていくわけですね。1ヶ月やれるのが北島三郎とか何人かしかいなくなったので、コマ劇場は実際かなり経営が大変なのと、老朽化したので建て直すみたいな話もあって、「パチンコ屋に売っちゃおうか」なんていう話も漏れ聞いていたのです。
 それで、阪急グループにちょっと話をつけて、「コマ劇場でそれができないか」と。そしたら、ちょうどその3ヶ月と言っていた時期に北島三郎の公演が入っていたのですね。やっぱり「北島先生のところは手をつけられない」と。だから、さっきの行政の人と同じようなものですよ。「怖いからいけない」と。「では、会いに行っちゃっていいんですか」と聞いたら、「何が起きても知らないよ」みたいなことを言うわけですね。でも、さっき水野さんもおっしゃったけど、プロデューサーって結局そういうことをやるのがプロデューサーなので、「じゃあ、僕、行ってきます」。
 それでコマ劇場でやることになったときに、思い切り、中を改装したのですね。じゅうたんも全部替えて。そしたら結局コマ・スタジアムというのがクイーンのものが終わったあと、そのままの内装で「そこも使っていいか」と。結局、これから空いているときは、ロックのコンサートなどでも使えるようになってしまう。やっぱり会った勢いというのはすごく大事で、結局、都市で何かやることというのは、全部そういうのが密接に何かかかわってきているのではないかなと。とにかく話をしないとだめだし、ギブ・アップしないでやるしかないかなと、今思っています。
 あと病院で面白いなと思ったのは、たまたま僕のところに今ステイ・ホスピタルというプロジェクトの相談が来ているのです。いわゆる日本の病院というのは何か暗いではないですか。かなり医者として成功している人が、熱海の左前になったところをそのまま自分で買い取って、全部ホテルのようにすると。それから、人間ドッグとか何か入りたい人とか、人間ドッグではなくても、ちょっと一週間くらい医者がいる所で何となく普通に、ホテルに泊まっているようにして体のチェックをして、リラックスをして帰るみたいなものがこれからビジネスとしていけるのだと。それの環境をどういうふうに造るかというプロジェクトを立ち上げるのでという相談が来たのです。ですから、今、伊東さんがやってらっしゃることと、自分が今度・・・。僕は結局ソフトの側の人間だから、造ったハードに何を入れるかというのが僕の置かれている立場です。
 ちょっと今日、話を聞いていて、僕がやっていることというのは、市民の人が参加するなどというのはあまりなくて、割とだれとだれを結びつけてやるから、どうしてもそこには、全く建築と同じとは言わないけども、アーティストによっては億単位のお金が動いたりすることをどういうふうにやって行政やクライアントと話していくかということが必要だし、そこに今度この建物で何かできないかという相談が来たりする面白さとスリルはすごくあるかもしれない。

(水野) なるほど。私は伊東さんの話の中で、文化的立場と社会的立場、それから判断するしかたとしてヨーロッパの遺産というのをきちっと感じますね。日本の場合はなかなか、機能的とか経済的とか社会的とか、そういう立場から相手が攻めてくるということが強いわけですが、それに対して文化的立場できちっと社会的に発言できるという、この辺の基盤、遺産のようなものはぜひ日本に欲しいなという。伝統的な都市であればあるほど欲しいなという感じはします。

(立川) だから、いい場所さえあれば必ず何かできるのだけども、ハードルがなかなか難しいんだよね。

(水野) 先ほどのアングルベールさんのお話を聞いていても、やはりこれが社会的コンセンサスを得られるようになるまでの大きな社会的な力の中に、文化的に判断するという判断力を感じますね。
 今度、少し立川さんのほうに聞きたいのですが、立川さん、ベネチアの国際映画祭で金獅子賞をもらった「悲情城市」ですか、ホウ・シャオシェンさんとか、あるいはやっぱり銀獅子賞をもらったチャン・イーモウ(張藝謀)さん。その辺の音楽プロデュースについて。

(立川) ホウ・シャオシェンはたまたまプロデューサーのキューさんという。だから、これも今、伊東さんが言っていたヨーロッパ的とか、日本ではないほうの人のマインドだと思うのだけども、ホウ・シャオシェンはとにかくインターナショナルに絶対なる可能性があるのだとプロデューサーとしては見ていたわけですね。
 それで次に新しく、かなり大きく、今までホウ・シャオシェンが撮っていた割とプライベートな感じの映画よりは、何か家族の物語だし、台湾で起きたすごく政治的な事件をテーマにしている映画だったので、彼がたまたま僕が何本かやっている映画を飛行機の中で見たりしていて、その辺がやっぱり日本人と違うなと思うのは、いきなり日本のエージェントに言って、僕の連絡先を調べて会いに来てしまうわけですよ。「仕事をしたい」と。「全部リスクは自分が負うからやってくれ。好きなようにしていい」と。
 それまでの映画を見ると、音楽はやっぱり非常に中国っぽい、台湾なんだけど、中国っぽい音楽。これだったら僕は絶対にインターナショナルなレベルにはならないなと思ったので、「やります」と言って、当時NHKで「海のシルクロード」というのをやっていたのですが、それをやっていたSENSというグループに音楽を作らせようと思って、大体僕がイメージを全部作ってやっていくのですね。僕はいつもプロデューサーの立場ですから、頭の中には実際何か頼もうと思う音楽家、美術家、照明の人間などは何人もストックがあったり、コンタクトを取ったりしていて、直感でこれにはこれが合うのではないかと思って頼んでやったところ非常にうまくいった。しかし、とても大変だったのは、すごく政治的な映画だったので、日本でしかポストプロダクションができなかったのですね。日活の撮影所でやったのですけど。
 それで最初に、映画というのはご存じの方もいるかもしれないけど、打ち合わせするときに、昔よりもやや便利になって、今はビデオが見られるので、台湾から台北に来いと言われたのだけど、台北に行く時間がなかったから、シネテレと言ってフィルムをビデオに移したものを持って日本に来るからと彼が言って東京で見たのですが、ビデオが5時間分あったのです。ところが、当時の台湾の技術ですから、ミスで全くセリフが入ってなかったのです。セリフが入っていないビデオを5時間見るのってすごくきついですね(笑)。
 それでもう何をしゃべっているか全然、口をパクパクしているだけで、漢字の台本を、今も僕のエージェントをしてくれている人が全部、「立川さんこれこうよ、この人とこの人はこういう関係よ」と。「分かんないから、おまえ図をかいてくれよ」みたいなことでやって、そのあと今度台湾に帰って、曲のスケッチができたときに留守番電話で送ったのです。電話して「そっちでアンサー・フォンで録音してくれる?」と言って2分くらいの曲を3曲送って、「どれを選ぶ」と言ってやったりして、それででき上がったら結局すごくうまくいって、ゴールデン・プライズを取って。
 そしたら今度はホウ・シャオシェンが翌年、チャン・イーモウって今一番新しいのは高倉健と一緒に映画を撮っている、今はすっかり売れてしまった監督なのだけど、まだ当時は中国の鬼才と呼ばれていた時代で、「彼の映画をプロデュースするのでやってくれ」と。それで中国に行ったときの話ですが、ロケをやっていたのが北京から飛行機で1時間くらい山のほうの山西省の太原という町で、そこに「もやし御殿」と言われている本当にすごい屋敷があるのですよ。それは山西省の民俗博物館になっているのですが、そこを借りて、何かもう廃墟みたいな所を映画のセットに作ったのですが、去年15年ぶりにある雑誌の仕事でそのロケ地を再訪するというので行ったら、びっくりしたのが、周りに駐車場ができてお土産物屋が並んで、もうテーマパークのようになってしまっているのね。それはその映画が国際的に大ヒットしたことによって、観光客がものすごく来るようになって、全く1本の映画が村のような所を変えてしまったくらい何か影響力があった映画だった。北京から1時間ぐらいだけど、観光客もすごく来るし、多分いい意味で、来るから改修にお金がかけられる、それで話題になったから、今度中国のNHKのようなところが何か日本で言う大河ドラマのような、その建物の物語をやったりして、どんどん一つの映画のプロジェクトが、建物とか、ある意味で忘れ去られた土地を活性化してしまった多分極端な例かもしれないですね。だから、日本でロケ地でまんじゅうが売れたとか、そういうレベルをもう多分超えていると思います。

(水野) それは映画が遺産を作ったと。新たな都市遺産を作ったというふうに考えていいんですね。

(立川) そうですよね。「悲情城市」もそうだったのですよ。それは台湾の九分(きゅうぶん)という所で、これも台北から1時間くらい海の方に行った所の、昔それこそ銅山か何かがあって、ほとんど廃坑になったので忘れ去られた所に、景色がいいのでアーティストがけっこう住み始めて、何かちょっとアーティスト村みたいになっていた所をロケ班で探して映画をやったら、あれもすごく世界的に大ヒットしたので、今「カフェ非情城市」というのができて、やっぱり今は観光地です。だから不思議なことが起きるなと。

(水野) そうですか。それではこの辺でちょっと伊東さんにまた聞きたいのですが、先ほどの私の最初の質問なんですが、全くインターナショナルな、時代の最先端の仕事をされておられますが、建築はその建つ所の場所がありますね。その場所の環境なり、あるいは人々の営みなり伝統なりあるわけですね。それと全く無関係なのですかね。それとも関係しているのですかね。

(伊東) 例えば僕がヨーロッパへ行って、まだ行ったこともないような町で建築をデザインするということはあるわけですね。そうすると、そういうときに、一体どうしたらいいのだろうというのはもちろん考えます。
 今日アングルべール先生がチラッとおっしゃってくださっていた、ブルージュというベルギーの美しい町がありますね。今日リェージュで映っていたような、ああいう雰囲気がちょっと伝わるような、もっと観光専門の都市というか、観光一本のような町で、ものすごくきれいな町なのですが、ここが2002年に文化首都になった時に、その町の真ん中に小さなパビリオンを造りたいと、今日お見せしたロンドンのパビリオンよりもっと小さいくらいのものを造ってほしいと言われて。そこはちょうどブルージュという町がそこから始まったという昔のカセドラルの跡地でして、町の中央広場の真ん中なのですね。
 そこへ初めて行った時、さすがに僕も、こういう所で何か僕のような建築を造ったらもう袋たたきに遭うんじゃないかと(笑)。ただ、それは1年間だけあればいいと。1年間で無くなるからということで、どうしようかと思ったわけですね。それで恐る恐る昔の八角形のカセドラルのあった跡を薄く水を張った池にして、その上にほとんどブリッジの上に覆いがかかったようなアルミの構造物を提案したのです。それはアルミというのはすごく軽くて、1mも掘るとそのカセドラルの礎石がその下にありますから、その礎石を傷つけないようにしなければいけないということから思いついたわけです。何か僕のイメージはそういう町に日本からというよりは、他の惑星から何かUFOみたいなものがふわっと降り立って、かげろうのように1年間あって、またある日すっと無くなっていたというような、そういうものしか僕にはできないなと思って提案したのですね。
 そしたら反対に遭うかと思っていたら、その市長以下が「いいじゃないか」と。こういう古い町にこそその何か異物というか、異物とは僕、自分では言いたくないのですけれども(笑)、何かちょっと違うものを、新しいものを望んでいるのだと言うわけですね。確かにそういう町へ行くと、住民がだんだんいなくなっていくというような問題があります。特にそれは若い人、日本の地方都市でもそうですけれども、若い人が出ていってしまうという問題があって、そういうときに、それは何か古いものをずっと保存しているだけでは若い人はそこでフラストレーションがけっこうたまっているのではないかと。それを何か、僕のような者がよそからやって来て、そこに新しいものを何かぽんとやると、そのことで、そういうフラストレーションが解消されるというような役割があったのではないかと。
 でき上がったものに対してはほとんど反対はなくて、1年間で消え去る予定のものが今もまだあるのです(笑)。ですから、何というか、僕が他の都市へ行ってやるときのスタンスは、何か僕にできるものを提案することによって、周りが逆に見えてくるという、そういう機能は重要なことではないかと思っています。

(水野) それは反面教師みたいなことですか。

(伊東) そうですね(笑)。

(水野) むしろ違うものを投入することで、そこが見えてくるというような意味ですかね。

(伊東) そういうことは、都市にとっては重要なことではないかなと思っています。スケールなど、いろいろな問題はもちろんあると思いますけれども。

(水野) 似たようなことで、立川さんから昔聞いたことがあるのは、ビートルズが出てくるころ、あの町、イギリスのリバプールの何となく工業地帯の港の町、そういう所から出てきますね。その辺はやはり若者の欲求不満みたいなものがあったのですかね。

(立川) 20世紀のカルチャーを考えたときに、ある人の、僕はそれは正しいと思っているのだけども、21世紀の最大のカルチャーはポップやロック・ミュージックだったという説があるのです。これはどういう裏づけかというと、やはりロックンロールが1955年に誕生して、ビートルズやボブ・ディランなどが出てきたときに、例えば作家とか、失礼ですけど建築家とかという人で、彼らほど何千万人という人に世界同一レベルで影響を与えた人というのはジャンルとしてはないわけですよね。だから、ビートルズが与えた影響やボブ・ディランが与えた影響を考えたときに、そういう意味ではカルチャーに及ぼした影響というのは非常に一つの完全にカルチャーになっていると。
 日本はその裏づけがないので、何かロックやポップスが軽視されている向きはあるのだけれども、欧米においては全然違う部分できちんとした評論がなされているし、位置づけもとってもきちんとしているというところで考えていくと、リバプールというのは港町だったので、アメリカの文化がそのまま最初に入って来たのですね。ロンドンよりも早く。だから本当に、日本の横須賀や横浜に基地の文化が最初に入ってきたように、アメリカのロックンロールやリズム&ブルースが最初に入ってきたので、あの町でリバプール・サウンズという一つのムーブメントが起きる、その象徴的なバンドがビートルズだったのです。
 それで、なぜよかったかというと、産業としてはかなり港湾業は衰退していたし、かなり辛いところに、何かはけ口みたいなものもあったので非常にあれだったのと、それから今のことでいえば、つぶれた店とか、つぶれたレストランが全部そういうバンドをやるためのクラブに簡単になっていたので、もうそういうのが乱立していたのですね。一方のロンドンはものすごく大人の経営者がちゃんとした、いわゆる東京で経営しているように経営していたのだけど、そこではかなりいいかげんに、それこそ地元のごろつきみたいな親父が「やっちゃえ」みたいなものでクラブができてしまった。当時を考えてみると、そういう文化の状態とシンクロしているところがとてもあると思います。
 それからあと、今、伊東さんがおっしゃったところで、僕らが新しい都市や町に行って仕事をするときは、僕、最近の例で言うと、たまたま長野県に、伊東さんと今日話をしていたら諏訪だと言うのでびっくりしたのですが、諏訪に、東洋バルブの工場の跡地と聞いたので僕は更地だと思ったら実際工場が残っていて、もう何年か前に創業停止になってがらんとなっていたのです。そこのプロジェクトのために行っていろいろ話をしていたときに、何かそういうプロジェクトをするときとは、さっき言われたように、市民のある程度文化意識がすごく必要なので、「何かまとまるようなことをやったらいいんじゃないか」というふうに言って、「諏訪湖の周りのところが一体になって、美術館とかそういうところを夜12時まで開けるようなイベントをやりましょうよ」とすごい軽い気持ちで提案した。実は上諏訪と下諏訪と岡谷と茅野はものすごく仲が悪かったのです。僕はそんなことは知らないから、多分僕はエイリアンみたいなものですから、「やればいいじゃない」というところでやれてしまったのです。ですから、ペリー提督というあだ名をつけられたのですが(笑)。やっぱりほかの人が言っていたら、きっと町の人がやろうと思っても絶対一緒にはできなかったという。それは今、1年だけではなくて、「来年の夏もやります」と言うし、もう定着したイベントにしようというようなことになっている。こういうものには、やっぱり、もしかしたら外の力がすごく必要かなと思います。
 だから、さっき三宅先生が見せてくれた北京の七九八というのも、最初に発端になったのはフランス人なのです。フランス人があそこに行って、そこでアートブック・ショップのようなものを作ったら、いいと言って入ってきたのが広がっていって。最初は中国政府が2年間だけと期間を決めていたのです。それがうまくいったときに、今度フランスが中国政府に対して、「オリンピックもあるのだから、オリンピックのときはスポーツだけではなくてこういう文化的なことがすごく必要だ」というので、今、伊東先生が1年と言ったけども、その七九八も結局2年という期間は取り払って、もうずっとあるようになってしまった。
 それを見て、あれを開発した中心が40〜50代だったのですが、その下の世代が今度はパイカル(白乾)という中国のお酒があるでしょう、あれの酒造工場の使わなくなった所のプロジェクトに手をつけて、これは来年の3月にもうオープンすると。
 だから僕はきっと中国人と何かやったら面白いから、諏訪のプロジェクトは中国のデザイナーと今話をして、連れてきて、やろうというのを思って、コラボレーションしようかなと思っています。

(水野) そうですか。民話でよく「まれ人来たる」というのがありますね。静かな村に変な人がやって来て、それでうわーっと村中かき回して、いつの間にかさっと去っていってしまって、その彼がやっていったことがその村にきちっと残ってしまっているという、そういう民話が幾つかありますね。そういう感じがしますね。

(立川) そういう感じですね。

(水野) 異星人というか。そのときに、そのやって来た土地が遺産をいっぱい持っていたり、その土地に居る人が非常に文化的であったりした場合に、こちらとしては向こうと対等になかなかなれないですね。要するにそのレベルはだいぶ違うと。自分は同じことはできないなと。伊東さんではないが、少し違うことでこたえてあげようかなというふうに思うという。

(立川) だから多分、仕事をするときは凹凸の関係だと思うのだけども、何か相手にないものを自分が持っているのなら一緒にやったらうまくいくと思うけれども、ぶつかってしまうときというのはきっとうまくいかないのではないかと思います。やっぱり向こうも「何か変なやつだけどちょっと聞いてみるか」というのが、始まりがいちばんうまくいくような気がします。

(伊東) そうですね。何か建築家というと、「何をやられるか分からない」というような危惧感をかなりの人が持っているのだけれども、そういう表現者としての建築家というのはもう全然だめだと僕は思うのですよ。もちろん、最初の何かとっかかりのようなものは提示するけれども、そこから先は、できるだけ今まで会ったこともない、見たこともないような人たちとそこで話すことによって、自分が想像もしていなかったようなものに到達できるということがいちばん面白いことだと思います。
 それはさっき立川さんが「分かんないことをやらなきゃ面白くないよ」と最初に言われたとまさにそういうことだと思うのですね。最初から自分が考えてそのとおりにできてしまったら、こんな面白くないこと、創造的でないことはないわけで、その創造というのは何かうまく、そのときにだれでも会えばいいというのではなくて、その知恵を出してくれる人とどうやって会えるかということをいつも考えるのですね。

(水野) ああ、なるほどね。

(立川) 直感のようなものがすごくあるかもしれません。だからさっき少し話しましたが、去年たまたまニューヨークの平成中村座の公演のプロジェクトをやったときに、一昨年にデビット・ボーイやクイーンなどを撮っているミック・ロックという世界的に有名なカメラマンが、写真美術館で展覧会を日本でやったときに、たまたまデビット・ボーイの関係で「日本で会いたい」と言って会ったのですね。
 僕もすごく好きな写真家なので「何かやれたらいいですね、いいね」という話をして、彼も「そうだね」と言ったときに、彼が「おれ、歌舞伎を撮りたいんだよ」と言うわけです。ご存じのように歌舞伎の世界というのは非常に排他的ですから、外国人のカメラマンがいきなり「歌舞伎を撮りたい」と言っても、絶対そんなの「なぜ」という話になるのですが、ニューヨークでやるという話があったときに本当に直感でひらめいて、これをミック・ロックに撮らせたらもしかしたら面白いかもしれないと思って連絡をしたら、ちょうどニューヨークに居たのです。
 それで撮らせたら、勘三郎さんがステージの上から見ていて、「何だ、あの獣みたいなやつは」と言うぐらいの撮り方をするわけですよ。それで写真を見たらもうびっくりしてしまって、「おれ、今までこんな写真、見たことない」。それで僕に「立川さん、ミックさんに今度、おれの襲名のときに呼んで写真を撮らしてくれよ」という話にいきなりなってしまうわけですよ。
 それってまたさっきの前後関係でいくと、それがお金になるかならないかという前に、経費がどのくらいかかるかというよりも、僕の考え方なのですが、「まあ大丈夫そうだし面白そうだからやってみるか」と言って、「わかった」と言って、結果やったら、今は写真展のワールド・ツアーに発展するくらいいいことになっているのです。きっと今、伊東さんがおっしゃっていたことをまた僕が反芻すると、絶対何か分からないことからやったほうが面白いと思います。特に都市においてはね。

(水野) 都市遺産と言ったときに、結局、伊東さんの話もそうですけど、その都市に居る人の力のようなところから引き出してくる、自分で何か反応していくという、そこにクリエーションが生まれていくという、そういう巡り合わせのようなところですね。

(立川) 意外とそこに住んでいるというのは、自分たちが見慣れてしまっている。諏訪に行ったときなども、「これ、すごいじゃない」と言うと、「えっ? 壊す予定だったんですよ」ぐらいでしか思っていなかったんです。だから、それはさっきの造船所の話と全くシンクロしてくるのだけど、本当に持っている人の価値観は絶対「こんなもんあってもしょうがないんだけど、どうなんですか」というようなものが僕らから見るとものすごく魅力的だったり、それから向こうが自信たっぷりに「すごいいいでしょ」と持ってきても、何かもう全部お化粧が終わって「はい、舞台に出なさいね」という人を紹介されても、「別にこれ、僕がやらなくてもいいんじゃないの」というようなところはすごくあるかもしれません。

(水野) その辺は金沢もちょっと、「これが金沢だ」と言って自慢して出しているところは、クリエーションの強い人から見ると「パスだよ、パスだよ」と言っているかもしれないですね。

(立川) でも、いい所がたくさんありますよね。

(水野) はい。伊東さんは各地、日本国内、海外にかかわらず都市をやっておられますが、その都市の伝統と都市遺産のようなものを受け入れて反応するときと、否定してしまうというか、「これはおれ、嫌いだな」とか思ってしまうときとか、そういうことというのはありますかね。

(伊東) 僕が頼まれるのは、新しいものを造るわけですから、周りの環境はどんな場合でもそれはもう現実として受け入れるということにしています。ただ、2〜3回話して、「これはもう全然アウトだな」と思うことはあります。それはむしろ物ではなくて、人ですね。

(水野) 人ですね。立川さんなどは、プロデュースではそういうことがいっぱいあるのではないですかね。

(立川) 人ですね。

(水野) やっぱり人ですか(笑)。

(立川) ええ。物はどうにでもなるし工夫できるのだけど、人は「あ、だめだな」と思ったら本当にだめですよね。日本語が通じないような人って、いるではないですか。

(水野) そうですね。人と言うときに、その人個人という問題もありますし、先ほどの文化的な、社会的基盤のような、伝統のようなものもありますよね。人が持っている性格ですか、個人という問題と。

(立川) だから、個人という問題で考えてくれたら、多分けんかしたりやり合ったりしても解決するのですが、ただ、往々にして、個人と自分が組織の一員だからと使い分けられてしまうと、僕らはそれは手に負えないですよね。

(水野) なるほど。

(立川) 都合がいいときに組織のほうへ行って、都合がいいときに個人になって、行ったり来たりしていると、僕らはどっちなのか分からなくなってしまいます。だから、それは組織なら組織で「こういうふうに決まっている」というルールが当然・・・。僕らだって仕事をするわけだから、いっぱい規則があるのだったら最初から規則はあると言ってくれればいいのだけど、頼まれたときには「好きなようにやっていいです」と言われて、それでプランを作っていくと、突然「実はこうだ」とかいう規制が出てきたり。
 それから、日本と外国とで仕事をして一番思うのは、契約書とかそういうのに対する概念がすごく違うではないですか。伊東さんなども今、海外の仕事が多いと、自分が日本人なのだけど、日本の人に対して、例えば「これ来月のいつまでにクリアしないと仕事がなくなりますよ」と言ってしまうと、「立川さん、何でそんな外国人のようなこと言うの」と言われるのはすごく辛いよね。ここしばらくけっこうそういう経験が多かったから。

(水野) だいぶ時間も来たのですが、立川さんはけっこう金沢へ来られていますね。金沢に対してアドバイスか何かありますかね。あるいは、金沢はもう少しこうしてほしいなとか。

(立川) 分けてしまったほうがいいと思うのですけどね。

(水野) 分けてしまう?

(立川) エリアで。そういうのは難しいかもしれないけども、例えばこの辺はもう徹底的にある町並みというのを作ろうと思ったら、2〜3軒やや怪しげな店がいたらもう市外へ移して、表だけでいいのだけど、変えてしまうだけで全然変えられると思うのね。自由に造っていい場所に関しては、新しい建物というか、さっきも言いましたが、下町のぐちゃぐちゃになっちゃったような所に対してどうしようと言ってもしょうがないわけで、だから全体で、僕は正確な地図は分からないのだけれども、このエリアは完全に一つの風致地区だとなったら、ここまである程度のレベルが来ているのだったら、もっと推し進めてしまって完全に。今ならまだ大工さんもいるし、間に合うのだから、今のうちに完璧に造りこんでしまったら僕はすごくいいと思うし、そうすればもっとそこはそこの魅力が出ると思う。

(水野) ヨーロッパから帰ってくると、確かに日本の都市はミックスで、かちゃかちゃだっていう印象はどうしても持ってしまいますね。

(立川) だから、今、水野先生が言われましたが、金沢ならエリアで分けたら、多分、日本で一番分けられる町ではないかなと僕は思うのです。京都はもうちょっと難しくなってきたでしょう。

(水野) 京都は難しいですね。

(立川) だから、金沢が一番、都市の機能も持っているし、古い建物がうまい形で残っている。古いままではないから。僕は水野先生がやった兎夢など含めて、東の所なども割とうまくいっている例だと思いますが、京都の祇園などは結局電柱を無くして下を石畳にしてしまったことで、むしろ映画のセットのようになって、あれは逆効果だったような気がする。保存のしかたというのはすごく難しいですが、金沢は、来ているから思うのですが、ブロックで分けたらすごく良くなると。勝手なことを言うけど。大変かもしれませんが(笑)。

(水野) 伊東さん、何かありますかね。

(伊東) あまり金沢のことをよく知っているとは言えないのですが、今日の議論を聞いていて思うことは、例えば金沢というと、非常に伝統的な建築がたくさん残っている。そこにアングルベール先生は「もっと新しいものをたくさん造るべきだ」というふうに言われました。その新しいものと言ったときに、それが妹島さんの造った金沢21世紀美術館のようなものがすべてだとは思わないのですね。
 何かアバン・ギャルドの建築対歴史的遺産という対立の構図にしてしまうことが非常につまらないので、その間にものすごくたくさんのグラデーションがあるのだろうと思うのですね。ですからそここそ話しながら造るという、そこがすごく僕は大事ではないかなと思っていて、妹島さんのああいうものは好きな人もいるし、嫌いな人もいるだろう(笑)と思うのですけれども、ああいうものが出てきたときに、もっと「どうして円いの」ということをとことん僕は聞くべきだと思うのですよ。「円いの嫌」とかって(笑)、円いのが嫌いだという、そこで片付けるのではなくて、その前に「どうして円いのだろう」「それが四角ではどうしてまずいの」という、そこから何か対話が始まって、そこで何か別のものへ行くかもしれないという、そこがいちばん建築の本当は面白いところではないかなと思っています。

(水野) でも、それをするには我々に力がないと、対話が成り立たないことだってあるでしょう。先ほどのパリの「うわーっ」じゃないけど。

(伊東) いや、そのパリのそのクライアント、オーナーは別に建築だけじゃなく根掘り葉掘り本当に素朴に聞いてくるのですよ。だからそういう素朴に「自分には分からん」ということをもっともっと聞くことによって、建築家も考え込んだりするのではないかと思います。

(立川) 建築に限らずに、話をしなくなっているケースがすごく多いのではないかな。例えばレコーディング・スタジオに居ても、前は「こんなふうに作ろう」とか「もう一回やってみて」というのがコンピュータになって、家から持ってきたのをトレースして、「これにあとダビングしよう」というのだと、それにはもう会話は必要なくなってしまうわけではないですか。だからやっぱり、僕は話をすごくするとか、みんなが集まって何かをするということはとても必要なことだと思うし、そういう場所が都市には必要だと思う。

(水野) ちょうど時間ですが、都市遺産と言ったときに、町並みとか、あるいは営みとか、そういったことがよく都市遺産といわれるわけですが、今日のお二人の話を聞いていますと、やはりここに住んでいる人たちの力量のような部分、それを問われているような気がしておりました。
 我々自身が我々の都市遺産をどう語るか、我々自身が都市遺産から何を刺激を受けて何を作り出すかという、そういう都市遺産を逆に作る側のような話を含めて、人間の力のようなところを、都市遺産の中にぜひ入れておきたいなと思いました。
 それでは、これで終わらせていただきます(拍手)。

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