分科会3 「都市遺産からの刺激」
     
伊東豊雄
立川直樹
 
水野一郎  
   
(水野) それでは「都市遺産からの刺激」というテーマで分科会をしたいと思います。第1、第2分科会はどちらかというと、都市遺産というハードウエア、ソフトウエアを生かすというようなことでした。第3分科会は少し外れまして、伊東さんも今、世界最先端の作品を造っておられる建築家です。それから立川さんは国内でさまざまなジャンルで、やはり時代の最先端のいろいろなメディアミックスを心掛けて仕事をしておられます。そういう意味ではお二人とも、全く都市遺産と関係のないようなお仕事をされております。どう見ても日本的とか地域的というよりも、それぞれのイメージというか、想像力というか、それが先行しているのですが、都市遺産というものから少し影響を受けているのかな、本当なのかなという、その辺を今日は聞いてみたいなと逆に思っております。
 建築家の伊東さんは、今申し上げましたように、このプログラムの経歴のところに国内の作品が出ておりますが、実は先ほどお聞きしたら、今のお仕事の7割は海外だそうです。大変世界の最先端をいっておられます。私は実は昨日、フィレンツェから戻ってきたのですが、フィレンツェの本屋で建築雑誌の最新号を見ると、伊東さんの作品が二つ載っていました。「まつもと」とそれから原宿にできたTOD'Sのビルの写真が出ておりました。それから、その前はベルリンに居たのですが、ドイツの建築雑誌にもやはり伊東さんの作品が出ておりました。今や国際的な活躍をされておられます。
 それと同時に、日本の国内でも、そこにありますように、八代、諏訪、あるいは仙台、あるいは長岡、そのほかたくさんの作品を造られておられます。各地方、各国で造られております。そういった、世界が注目する創作活動の中で、その地域、その場、あるいはその地域が持っている伝統、そういったものとどういう関係が創作の中にあるのだろうなということを最後は聞きたいと思っております。プロデューサーの立川直樹さんは、やはりパンフレットにありますように、音楽、美術、映画、演劇、バレエといった複数の表現分野にわたるプロジェクト、イベントを仕掛けておられるということです。先ほどお聞きしたら日本中にあちこち、いろいろなことを仕掛けておられるようで、最近では愛知の博覧会にかかわっておられました。いずれもコンテンポラリーなシーンを創造しておられます。そしてメディアミックスのプロジェクトも展開されております。そういう方で、やはり地域や伝統などと全く関係ないような雰囲気を漂わせている仕事をされております。そんな人たちを今日はお呼びして、お話をお聞きしたいと思っております。
 実は立川さんと私はこれまで仕事で関係がありまして、それは、ポピュラー・ミュージック・コレクションという金沢工業大学のプロジェクトですが、レコードを今12万枚ほど集めているのですね。
(立川) 16万枚。CDも入れたら20万枚を超えました。

(水野) 実は、私が運営委員長なのですが、何も知らないで運営をしているのです(笑)。プレスリーからビートルズ、あるいは懐かしいポール・アンカだとか、そんなような人たちですね。我々が小学校、中学校、高校時代に夢中になった、あの時代のレコードを集めております。ポピュラー・ミュージック・コレクションですね。
 レコードという技術がテープに取って代わり、さらにディスクに取って代わるということでいくと、レコード文化というのは技術と一緒になくなってしまうわけですね。そういった、なくなることに対して私ども大学の方では、そういった技術がなくなってしまうのをきちっと守ろう、遺産として保存しようという気持ちで私どもは引き受けたのですが、立川さんはまた全然違う気持ちでこのプロジェクトを立ち上げていると思うのですね。それでその辺が合わさってくると一つのプロジェクトができ上がるという、何か大変面白い経験をしております。

(立川) 多分今日の都市遺産と、何かそこで人が作っていくのかというところと、最初にPMCの話と、とっても分かりやすい例だと思うのでちょっと話をすると、最初に僕が金沢工業大学に、たまたま友人が大学のパンフレットを作っていたので、とても面白い大学があるから行かないかと言われて。大体僕は仕事をするときとかだれか人と会うときは、みんな何かそういう、最初はたわいもないことで行って気が合うとやるというパターンなのですが、そしたら水野先生が作ったライブラリーセンターを見て、インデックス一つ見ても非常によく整理されている。ちょうど行ったのが88年か、そのぐらいだったのです。そしたら89年にもう、ここにいる人は皆さんは大体のところ・・・今、若い子に聞くと、うちの学生なんかに言わすと、知らない者もいるぐらいなのだけど、アナログ・レコードの生産が89年に0%になるという新聞記事が出ていたのです。
 日本人というのは絶対レコードなど捨ててしまうのではないかなというのをまず思って、それをとにかく僕は、レコードというのは30cm、正確には33cmなのですが、そのレコード・ジャケットも含めて、非常にやっぱり、20世紀の一つの、音楽だけではなくてアート的な意味も含めて価値があるものだと。僕はとにかくレコード・ライブラリーを作りたいなと。
 実はあと2社くらい、今日の都市遺産とやや関係があるかもしれませんが、ちょっと空いている倉庫があるのだとか、空いている建物があるのだけどライブラリーをやらないかという話もあったのですが、民間だったのです。民間だと社長が替わるとそれが無しになりそうだから、それなら大学ってすごくいいなと。公的な所だし。それで最初にレコード・ライブラリーを作るときに、やはり工業大学でなぜレコードなのだという話があって、そこで僕が言ったのは「ジャケットを見ているだけでもすごくいいんじゃないですか」という話が通った最初のあれですよね。それでうまくいって、今や20万枚。12年かかって。

(水野) そんな間柄です。それでは、まず伊東さんからお願いしたいと思います。最近の作品も含めて、ちょっとご紹介いただきたいと思います。

(伊東) 今、水野先生からご紹介いただきましたように、私は日本では地方都市の公共施設を中心に、設計をここ10数年やってまいりました。そしてだんだんヨーロッパでの仕事が増えてきて、日本の仕事より多くなっていると。ただし、これは向こうからの依頼ということもありますが、7割方は自分の方針でヨーロッパを選んでいます。アメリカにはあまり行きません。東南アジアも、一部の国ではやっておりますけれども、あまり今のところまだ中国などには行きません。
 これは理由がありまして、ちょっと硬い言葉になると、日本で私が公共施設をやってきた一番大きな理由は、建築の社会性というか、共同性というか、あるいは公共性と言ったらいいでしょうか、そういうことを自分のよりどころにしてやってきたのですが、どうも最近、日本ではグローバリゼーションという大きな流れの中で、そういった共同性、あるいは社会性といったことがあやふやになってきてしまったということがまずあります。
 もちろん財政がよくないから箱物は造らなくていいという風潮が非常に強いのですが、それだけではなくて、建築のコンペティションをやるときに、いわゆるPFIと呼ばれるような、事業計画を優先にしたコンペティションが非常に多くなってきました。そうすると、その事業計画が何かを造るときに重要なのはもちろん言うまでもないのですが、日本ではその事業が優先した結果、デザインは2の次、3の次になってしまっているという問題があります。どうも居心地の悪い状況にだんだんなってきていると。
 それに対してヨーロッパへ行くとまだ共同性、あるいは公共性ということに対する多大な期待があって、建築家が社会の中に位置づけられているという安心感があります。それでついつい、あまりビジネスにはなりにくいのですけれども、ヨーロッパへ出掛けていくということが多くなっているという現状があります。
 それで、今日は幾つかの例を持ってまいりましたので、ちょっと見ていただきながら、日本の例、それから海外の例をごらんいただきたいと思います。ちょっと慌てて持ってきたので、スライドという時代遅れのメディアで申し訳ないのですけれども、建築は新しいつもりなのでよろしくお願いします。(以下、スライド併用)

●まず先ほどご紹介も頂きました、「せんだいメディアテーク」という建築です。

●これは1995年にオープンなコンペティションがありまして、そのコンペティションの過程で「メディアテーク」という名前のもとにコンペティションが行われました。日本では当時は非常に珍しい名前で、図書館を中心にして市民ギャラリー、あるいは映像、オーディオ・ビジュアルの施設、それから視聴覚のハンディキャップの方たちのための施設という、この四つが複合されたものということだったのですけれども、「このメディアテークというのは一体何だと」いう議論がずっと、工事が始まってからも続いておりまして、そのために随分私は助けられました。
 つまり、何々文化センターや何々図書館といったような名称でもしこのコンペティションが行われると、「これは図書館らしくない」あるいは「ギャラリーらしくない」といったようなことで、どんどん自分の意図が消されていってしまうということがありましたが、幸い「メディアテークって何だ」と新聞でも反対されているうちに、議論が延々と続いてでき上がりました。そのために今、随分、できてからは私はよかったと思っています。

●仙台市の中心部にありまして、そのコンペティションのときに私が提案したモデルというのは、このような、全く何か分からないような、どこに何があってもいいというもので、壁が全くないモデルを提案しました。実際にそんなことはありえないわけですが、通常の公共施設に比べると相当壁のない建築で実現しております。
 このチューブと呼んでいる構造体なのですが、これは中が空洞になっておりまして、この中にエレベーターや階段が入っております。

●何となくお分かりいただけると思うのですが、このチューブというものが、そのコンペティションで私の案が採用されたあと、仙台市では大反対に遭いました。猛烈な反対で、これは地元の新聞で、夕刊のトップ記事で「こんなものは造るな」ということを大々的に書かれましたし、そのあと市民集会が何回かありまして、そこでほとんどつるし上げ状態になりました。
 つまり、その反対をしていた人たちの多くは、地元の芸術家、特に絵画、彫刻を中心とする割とクラシックな方たちで、「自分たちの展覧会をやるのに、こんなものがあってはじゃまだ」ということで反対を受け、それが議会、あるいは地元のマスメディアとつながって、そういう動きになったわけです。
 逆にいうと、このチューブという存在があることによって、今は町の人に親しまれていると。何か近代建築はすごく抽象的で、透明で均一な空間を造ってきたわけですが、そうではなくて、こういうチューブのような、「何か分からないけれど不思議なもんだなあ」というものがあることが、一つのシンボルを形成しているということが言えると思います。

●これを造っていく間に、たくさんの方がかかわったのですが、そういう職人の人たちも含めて、みんなが「この難しい仕事はおれがやったんだ」というふうに、「おれがやったからこれできたんだぜ」みたいなことをいろいろな人が言ってくれて、それは何かシンボル性を、造る過程から盛り上げていってくれたわけです。
 それで、メディアテークというものが何か分からないことによって、いろいろな人が議論をする、そして地元の特に若い人たちが集まってきてくれて、プレイベント的に、「議論をするだけではなくて、ここで何か将来これを頑張ってサポートしてくれるような人たちとワークショップ的なことをやっていこうじゃないか」ということで、工事の始まった頃から2年くらいにわたって、プレイベントのような、「図書館というのはどういうものなんだ」というようなワークショップが行われたり、実際にここの見学会も行われたり、そういうことを通じて、このメディアテークがだんだん造られていきました。
 ですから、ある意味では造りながらみんなが考え、そして使いながら造ったというような、ちょっとレトリカルな言い方ですけれども、そういうことがその後の私の一つの方法論になっていったわけです。

●ここでは通常の建築より壁がなくて、いわゆる裏の空間、あるいはサービスする側の空間というのがあまりありません。そして、あってもそれはもう一般の人の目にさらされる場所になっています。ですから、スタッフの人たちがこういうユニフォームを、これもファッションデザイナーの人にお願いしてデザインしてもらったものなのですけれども、これを着て館内を携帯を持って歩き回っていると。そうすることによって、できるだけスタッフの人と利用者との距離感を縮めるというような工夫もされています。

●建物全体にわたってたくさんの木の立っている公園のようなもの、子供たちも、お年寄りたちも自分で好きな場所を選べる、通常の壁で囲まれた建築よりは、はるかに選択性が高いということがあります。

●20世紀の建築の問題は、機能ということによって、例えばこういう部屋を囲い込むと「外の音が漏れては絶対にだめだ」、あるいは「隣で何かお料理を食べている匂いが入ってきたら絶対だめだ」、そういうことにこだわった結果、どんどん一方的に空間を分割していったわけですけれども、いったんこうやって開いてしまうと、本を読んでいて多少は子供が走り回っていても全然気になりません。公園で本を読んでいたらそんなこと言う人はだれもいないのと同じようなことがここで起こりました。

●本を読む場所も机に向かって、こういう姿勢を正して読む場所と、もう寝転がって、ただ昼寝に来ている人もたくさんいます。

●ギャラリースペースです。これは割とオーソドックスなギャラリーのスペースですけれども、普通フロアがありまして、市民の人が自由に借りて自分たちの発表会をやれる場所と、もう少し官が企画して、これ全体を使って壁を全部取り払ってやるようなイベント的な催しとが両方あります。

●これはもう一つの大きな方のギャラリースペースですね。

●最上階にビデオを見るようなコーナーがあって、こういう家具によってチューブの、この大きな木の足元でいろいろな場所が作られていると。ですから、その家具を取り替えればまた別の場所になるわけですね。公園の中に行けば、皆さんが大勢で集まるときには少し日の当たる明るい場所を選ぶかもしれないし、カップルで行けば少し影になるような日陰の静かな場所を選ぶかもしれないし、一人で本を読むときにはまた別の場所と、おのずから自分の行きたい場所を選べるわけですけれども、ややそれに近いようなことがここでは行われたということです。ちょうどオープンしてから5年たつわけですが、その5年間で内容はどんどん良くなっています。

●これは今のビデオの隣で、お年寄りたちがコンピュータの教室を開いているところです。

●それからまた、その隣では学生たちが集まって、コンピュータを使ったワークショップをやっています。ここでもスタッフの人が絶えずこうやって一緒になって、何かを考えていくというようなポリシーが徹底しています。

●これは今のそのコンピュータのあった場所なのですが、それを取り払ってコンサートが行われて、小さなコンサートをベースにしたワークショップが行われています。

●こうやって年間100万くらいの人が毎年入ってきていて、その結果、周辺が随分変わってきました。

●これはそのチューブの中ですね。

●その結果、この周辺に新しいコーヒーショップや、ちょっとおしゃれな店が何軒かできてきて、人通りも随分変わったというふうに近所の商店街の人たちが言っています。
 ですから、ちょうど今の時期はこの定禅寺通りという通りは、来月、ケヤキの並木にイルミネーションが灯って、非常にきれいな時期なのですが、最初は「ガラス張りでけしからん」とか、「このチューブというのは何じゃ」と言っていた人たちも、今では大変楽しんでくれるように変わってきました。

●次の例は、今、パリで病院をやっておりまして、これもコンペティション以来5年くらいになります。パリの15区で、パリの市内なんですが、周りにアパートメントがあったりするような、そんなにきれいな場所ではありませんけれども、一応パリの古くからのブロックが形成されているエリアです。
 あまりいい写真でないですね。もう少し周りが分かるような写真があればよかったのですけれども、ここが一つの街区ですね。ここに今やっている病院がありまして、5年がかりで来年の2月には竣工する予定なのですが、当初からここにT字型に100年くらい建っている古い病院がありました。そして、これは今、ほとんどホスピスとして使われていたわけですが、それを建て替えると。設備が非常に古くなったので建て替えるということでコンペティションが行われ、ボリュームが1.5倍から2倍弱くらいになったのですね。
 我々の提案はここに、その管理関係の、お医者さんや看護婦さんたちが居る部分を両サイドに造り、そして内側に向けて3棟の建物を、5階建てくらいのものですけれども、これを造り、地下でそれらを結ぶと。病院といってもこれはホスピスですから手術をしたりすることはなくて、一種のハウジングのようなものですね。ここにできるだけきれいな庭を造りたいと、建築以上に庭を造りたいと。
 既存の病院を見にいったときに、そこで夫婦の人がずっと小さなテーブルに向かい合って座っているようすを見たり、ここをうつろな状態で散策している人たちを見て、何か完全に、社会や外の環境と切れてしまうのでもなく、そうかといってここに居ることが何かほっとするような、そういう静けさを作り出したいと思ったわけです。

●これは当初かいた庭園のイメージで、桜の木を何本かここに植えたいと思って。実現するわけですけれども。

●こういったようなイメージで始まりました。ところが、パリの市内で建築を造るというのは必ず反対に遭います。これは仙台の反対どころではありませんで、ものすごい住民の集会を一回経験しました。この周辺に住んでいる人たちが、数は50人くらいだったのですけれども、この古い病院に集まってきて、ものすごい勢いで「こんなくだらない建築は最悪だ」とか、「どうしてガラス張りにしなくちゃいけないんだ」とか散々・・・。前の日本のサッカーの監督だったトルシエさんですね。うわーっとこう言っていましたよ。あの人が50人集まった姿を想像していただきたいと言えば大体お分かりかと思います。

●その前にコンペティションで5人の、ジャン・ヌーベルやドミニク・ペロといったようなフランスの建築家たちと争ったのですが、5人ともガラス張りの提案をしました。ですから、それに対してはクライアントは全く何の反対もなかったわけですね。これは公共ではなくて民間のプロジェクトです。その最初にコンペティションのあと、町に対してどういう表情を持つかということが一番大事な、つまり、ファサードがどういう表情を持つかというのは非常に大事なのです。それで私は二つの案を持って、そのクライアント、病院のオーナーのところへ行きました。
 ところがオーナーは「何で二つ持ってくるんだ。僕はあなたのやりたいことを聞きたいんだ」と言われて、それですごすごと引き下がって、次、1ヶ月後に今度は一つ持っていきました。ところが、もうちょっとやそっとでは納得しないわけです。「自分は反対するのではなくて、どうしてこのサッシがこういうふうに割れているんだ。そういうことをとことん聞いて自分が納得したうえでゴー・サインを出したい」と。ここが日本で何か仕事をしていくときと決定的に違うような気が僕はするのですね。
 このオーナーはお父さんがフランスでサロン・ドトンヌを創立したというような文化人の家系であるということはあるでしょうけれども、それにしても・・・。それで結局、半年間、毎月通ってオーナーに説明をして、6ヶ月めにようやく「分かった」と初めてにっこりして、「おまえのやりたいことは分かった。これでいこう」と言ってくれたのですね。そのあとにさっきお話しした住民の集会がありました。そういうときには、50人の人がどんなに反対をしようが、そのオーナーは「これが一番いいんだ」ともう一歩も引きません。どんな微細なことも変えろとは僕には絶対に言いませんでした。
 そうやって5年間たちまして、今そのオーナーとは非常に信頼関係ができてきたわけですが、何かを聞くということ、そのことは僕はすごく重要だなと思います。日本で何か公共施設を造るというと、ほとんどの場合、今、反対に遭うわけですけれども、それは話を聞いてくれたうえでの反対ではなくて、のっけから社会的な出来事として、「こんなハコモノを造ることは反対だ」といったような反対意見なのですね。
 向こうでは役所の、自治体の人も、こういう民間のオーナーにしても、自分がこの建築を依頼するからには、自分がこの建築を理解して造りたいという気持ちが非常に強いのです。その背景には、文化的なことと社会的な事象が向こうでは完全に一体化されていると。日本では文化的側面は「それはそれだ」と、社会的な出来事は「これはこれだ」というふうに分けて考えます。
 新聞で建築のことを扱ってくださる場合も、ほとんどは文化欄でしか扱われません。ところがヨーロッパへ行くと、地元の新聞の社会部の記者がインタビューに来るわけですね。下手な文化部の記者よりもよほどきちんとした質問をしてくれます。その結果、文化的な出来事と社会的な出来事としての建築が表裏一体になって、反対するにしろ、賛成するにしろ、進んでいくと。そのことが僕はものすごい重要なことではないかなと思います。
 日本では多くの場合に、文化的なことになると、「自分はちょっとそれは難しくて分かりませんから」というケースが多いですね。あるいは、せいぜいコメントするのは「ユニークなものですね」というのが最大の賛辞のケースが多いです(笑)。
 パリの場合にはそういった住民集会があって、日本と同じように確認申請を出すわけですね。日本だと、そこで違法性がなければすぐ認可されて、工事にかかれるわけですが、パリの中では、何のルール違反がなくても、許可がおりないのですね。そうこうしているうちに、ル・モンドのような新聞を通じて、歴史の学者が「あの建築を壊すのはけしからん」というような記事を書きます。そうすると、また別の建築の批評家が「伊東がやっている建築は悪くはないんだ。こういう意図で造っているからこれはちゃんと造るべきだ」というような反論をしてくれたり、そうやって文化的な出来事になっていって、その間、役所の人はずっと見ているのです。それで議論が大体潮時だと思ったころを見計らって、「まあいいだろう」というような感じでようやく許可がおりるといった感じで。
 そういうプロセスで今ようやくできつつあるというわけで、やっぱりパリのような所で建築を一つ立ち上げるのはものすごい重い意味を持っているのだなということを改めて感じました。

●今ここに映っているのが、この難しい顔をした人がオーナーで、こっちが病院長ですね。この二人としか僕らは話をしません。

●次のプロジェクトですが、これはロンドンのサーペンタイン・ギャラリー

●ケンジントンパークの中に、2002年にわずか3ヶ月だけ存在して無くなってしまった仮設のパビリオンです。このサーペンタイン・ギャラリーというのは昔の古い、公園のお茶室を使った現在アートのギャラリーで、とてもいいギャラリーなのですけれども、毎年夏にその前庭に3ヶ月だけの建築プロジェクトを造ると。こうやって町の人たちがやってきて、その3ヶ月間、気候のいいときに楽しんでくれるわけです。

●この建築がどうかということよりも、そうやって3ヶ月であるということによって、どんな実験的なことでも許されます。空調も無くてもいい、ドアも閉まらなくてもいい、というようなものが可能になるわけですね。

●これの面白いところというか、このギャラリーの館長さんはものすごい美人の女性で、ジュリア・ペイトン・ジョーンズという、今もう50歳近いかな。昔の、亡くなったダイアナさんなんかともすごい親しかったという人なのですけれども、お金を集めるのがものすごく上手でした。
 この建築はわずか3ヶか月ですけれども、まともに造ると8000万円くらいかかります。そういうことを3ヶ月でやるかなと思うのですけれども、その8000万円のうち2000万円が国からかロンドン市からの予算なのですね。彼女はそれに対して4000万円分を、ここでは鉄骨とガラスの部分を、かなり強引に「ボランティアでただでやれ」というふうに言って納得させました。そして残った2000万円を3ヶ月後にデベロッパーに売ってそれで元を取るというようなことで、日本にも1回やって来て、鹿島建設に寄付を頼むと言って、「おまえがしかるべき人間を紹介して、ついて来い」と言われまして、行って何か海外事業部のボスに会ったら、いきなりもう「金出せ」みたいな(笑)感じで、僕ははらはらしていたのですけれども、それくらい向こうではそういうことが当たり前なんだと。それで終わったあと、「ちょっとダイレクトすぎたかしら」とか言っていましたけれども。
 そして、その鉄骨なり何なりに何千万円という寄付をするということが、必ずそれが後で返ってくるというか、ちゃんとそれなりの価値を還元できるということがあって、そういうシステムが成り立つのだろうと思います。

●非常にリラックスして、何か新しい建築を見にくるというのでもなくて、自然な形で犬を連れたり、乳母車を押して、コーヒーを飲んでいったりしていました。

● 最後にバロセロナで今、メッセ・コンベンションの施設をやっていまして、

● これはオリンピックが行われたモンジュイックの丘というのがここにあって、空港と町とのちょうど中間くらいなのですけれども、ここにメッセとコンベンションの施設を新しく造るということです。ここにすでに2棟、展示施設が、これは私のデザインではなくて、できているのです。

● そこにさらに二つのパビリオンを造ると同時に、それらを全部結んでしまう。長さ1キロくらいありますけれども、ペデストリアンデッキで全部を結ぶと。それから全体をコントロールするコーポレートビルというビル。それから、会議をやるためのオーディトリアムのコンプレックス。それから、かなりな面積の前庭。さらにここに、この土地だけは企画絡みで民間のデベロッパーに売ってしまうというホテルとオフィスタワーが、これまたコンペティションが行われて、今これを実施しております。
 今この建築が来年もうでき上がりまして、ペデストリアンデッキがこの辺りまで今、工事が進んでいます。来週このオーディトリアムのプレゼンテーションに行って、これからデザインを本格的に始めるわけですが、このタワーもすでに設計がほぼ終わって、来年から着工される予定です。

● バルセロナという町は、先ほどナントの町がヨーロッパで住みたい町ナンバーワンだと言われましたけれども、ヨーロッパの人にとってバルセロナというのはやはり気候がいいし、すごく明るい雰囲気があって、とても好まれている町ですね。そしてガウディの建築遺産などもあるということもあって、非常にメッセ・コンベンションが行われると、「こういう所へ行きたい」という人たちが多いのでしょう。相当、信じられないくらい巨大な施設を造っています。

● この町は新しい建築を造るということを本当に信じている町で、外からたくさんの建築家がいろいろな現代建築を造って、建築家にとっては最もエキサイティングな都市です。しかし、そういう町でも、建築のクオリティーを評価する委員会があります。これは歴史家、建築家等、7〜8人が集まって、そこには市長の意見も反映されつつ、毎月1回それが行われて、そういうところで意図をプレゼンテーションをして、いろいろな意見の交換が行われるというようなシステムです。一方で建築家がその存在を信頼されているという、信頼の前提に立ってそういう議論が行われるわけで、やはり文化的な基盤の上での建築が当たり前のことになっています。
 そういうわけで、日本に比べると時間も倍くらいかかりますし、施工技術も圧倒的に悪いですから、とても造るのは大変なのですけれども、ついつい出掛けていくということになっております。
 とりあえず、そこまでで終わらせていただきます。

(水野) 今、見ましたように、何かその地域へのこだわりといいますか、場所からの発想と何か離れているようなあれがいっぱい出てまいりましたが、その辺については後でお聞きしたいと思います。
 立川さんいかがでしたか。




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