第9回金沢学会

金沢学会2018 >第2セッション

セッション2

■第2セッション「ものづくりを熟成させる 」
加賀藩前田家が興した工芸は歴史を経て現代に受け継がれ、さらに多様性に富んだ 芸術的生産、工芸的生産に結びつき、さらには本物の追求、手作り主義の精神風土を 醸成してきた。2009 年に金沢市はユネスコの工芸分野での創造都市に認定され、国際的なネットワークが築かれつつある。このような金沢の町の根幹にある「ものづくり」はこれからの新技術とどう向き合うか、歴史を振り返りながらも金沢の「ものづくり」の熟成を考察したい。

●コーディネーター
宮田 人司 氏(株式会社センド代表、クリエイティブ・ディレクター)
●パネリスト  
三石 晃生 氏(歴史学者、株式会社goscobe代表取締役)
米倉 千貴 氏(株式会社オルツ代表取締役CEO)



 

 















「ものづくりにおいて、生命のないAIは「美しい」を理解できるか」

(宮田) 私がこの大役を仰せつかって14年が経ち、都市の熟成の前に自分の熟成がだいぶ進んでしまいました。今日は大変難しいテーマなのですが、ゲストのお二人をお招きして、お話ししていきたいと思います。
 米倉さんは前回の創造都市会議にもお越しいただきました。人工知能などを扱っていらっしゃる方ですが、今どういう研究をされているのか、ものづくりにこれから非常に密接に関わってくるところなので、お話しいただきたいと思っています。
 もうお一方の三石さんは、非常に説明の難しい「歩くウィキペディア」のような人なのです。どういうことか、今日お話しいただくとだんだん分かってくると思うのですが、歴史家、古武術家、古美術鑑定士、それ以外にもたくさんのことをされています。私も一緒に会社を手伝っていただいていますが、このお二人ともIQが190以上という驚異の頭脳がここに集結していて、私のIQも今日は若干上がっているのではないかという気がしています。三石さんからは、歴史を振り返りながらどんなものづくりをされてきたのか、ものづくりとはそもそも何か、工芸とはどういうものなのかというお話を頂きたいと思っています。
 よくこのまちでは革新と伝統という話がありますが、三石さんと以前話していて、実はすごく昔から使っていた言葉のような気がしていたけれども、実はそうではなかったというような、目からうろこのような話が結構たくさんあったのです。そもそも私たちはものづくりとよく言うのですが、それはいつごろから言い始めた言葉なのかと思って調べたら、実はすごく最近で、1990年ごろから言われ始めた言葉らしいのです。平仮名で「ものづくり」と書くと、非常に昔から使っている言葉のような気がするのですが、実はこういうことだったということも分かってきました。その辺のお話も今日は三石さんからあると思うのですが、われわれはこれからものづくりを熟成させていく上でどんなことを目指していけばいいのかというお話を終盤まとめていきたいと思います。
 では、まず米倉さんから、オルツという会社で何かとんでもないことを企んでいるらしいのですが、ちょっとお話しいただけますでしょうか。よろしくお願いします。

(米倉) 
―AIがゲームをプレーする動画開始―

 AIで何ができるのか、強化学習というモデルを使ったゲームをプレーするAIの様子です。最初はランダムのような状態になっているのですが、実際にいろいろプレーを進めていくにつれてだんだん学習して、最初はすごくシンプルに死んでいくのですが、この辺からいい感じになっていきます。ハイタッチになっていますが、だんだんとクリアしていくことを覚えていきます。人間っぽい行動を自立的に学習していくソフトです。こういったものを使って、私の会社はいろいろな技術を作っています。

―AIがゲームをプレーする動画終了―

(宮田) 今のは、(対戦ゲームでプレーヤーが)死んでしまうタイミングをどんどん学習していくのですか。

(米倉) 死んでしまうタイミングと、死んでしまわないタイミングを学習させて、前に進んでいきます。1年前にもお話しした、当社が行っている活動についてざっと説明しつつ、さらに進化しているので、どんな状態になっているのかについてもお話ししたいと思います。
 当社が作っているのは、個人のデジタルクローンです。私たちの意識をそのままデジタル化することに関してチャレンジしています。

―プロモーションビデオ―

 当社では、全人類1人1デジタルクローンを作ろうと考えています。これをどのように現実になし得るかに関して、いろいろな取り組みをしています。

 今、MyData Japanなどにも関わっているのですが、個人をどのように保管していくかということに関する最初の取り組みです。われわれが触れられるデジタルデータなどは、個人を再現するまでには至らないし、どれだけ多くを取ったところでそこまでのものは取れません。ただ、この時間、この瞬間に残していく必要があって、それに関して、残していく意味と、あとはそれを将来的により精緻な形で本人を再現する方法のようなものをここで試しています。これはいわゆる個性を導き出すための手法であり、これを試した結果、実際にかなり精度高くできることが証明されてきました。

 2年ぐらい前に作ったパーソナル音声合成の技術で世界初だと思います。今でも世界初かもしれません。

―音声合成デモ―

 音声合成という、本人がいなくても機械にその人の声のようなものを再生させる技術なのですが、われわれが取り組んでいるものは、一般的な音声合成とは違います。一般的な音声合成は、一定の決まったテキストを読み上げることで音声合成を作るのですが、当社はテキスト不要の状態で、少量の音声データがあればその人の声を再現できる技術を作っています。こちらに1000サンプルズと書いてあるように、個人の音声を1000サンプル分用意して、そこと個人を比較することによって個性を抽出することで実現している技術になります。一般的なものに比べて圧倒的な少量のデータでできるので、すごくコストがかかっていたものも無料でできる状態を作れています。

 個性抽出モデルに関しては今後、全人類分をどのようにスキルしていくかという重要な三つのプロジェクトになります。
 一つ目がスタックというもので、人の記憶に該当するあらゆる情報をセキュアに保管するための仕組みになります。分散型個人情報管理ネットワークと呼んでいるものです。二つ目が、人脳並みの演算処理パワーを実現するための仕組みで、エメスと呼んでいます。そして、それらから生み出される、究極にパーソナライズされたAIモデルを、われわれはPIモデルと呼んでいます。このPIモデルが起こす反応を機械や人間が知覚するためのコミュニケーション手段として、オルツブラウザを作っています。現状は、このオルツブラウザについて、車業界や金融業界、通信業界といったさまざまな会社と共同研究を進めています。
 ここで、個人の記憶をため込むためのスタックという仕組みのイメージとなった動画をご覧いただきたいと思います。名前の由来にもなっているのですが、これは「オルタード・カーボン」というドラマの映像なのです。

―動画―

 すごく恐ろしげな映像なのですが、人間の脊髄にスタックと呼ばれる物質的なハードを突っ込んで、そこに全ての脳信号を記録していく映画なのです。それによって人間を保管して、肉体が死んでも別の肉体にそれを差し込めばその人の意識が戻るという恐ろしい映画なのですが、これが私たちの作っているスタックの名称の由来になっています。
 このドラマは結構面白くて、作ったスタックに関しては通常ハードで保管されているのですが、一部の大金持ちだけは特殊な衛星システムにデータを保管することができて、もしもそのスタックというハードが壊れてしまっても、別のスタックにそれをインストールして使えるのです。ごくわずかな人たちができるのですが、われわれはお金持ちであるかどうかに関係なくできる形を考えています。
 実際、このスタックというプロジェクトに関していろいろな問題を解決していくのですが、記憶をため込んでいくという話になると、大きなサーバーのストレージが必要になります。それは、私どものような会社1社では到底賄い切れるものではありません。かつ、これはGoogleであったり、AWSを持っているAmazonですら保証できないものなのですが、それをテクノロジー的に保証する方法はないかということで作られた技術になります。解決しているのは、ストレージ領域の問題と個人情報の取り扱いに関してになります。

 これが実際のスタックの全体の構成像になるのですが、分散ファイルシステムとブロックチェーンを使うことで、セキュアの状態を担保した状態のパーソナルデータを、新しいインターネットのような状態で保証される形になっています。その本人しかそのデータに関しては復元できない形の仕組みが作られています。さらに、それを開くための暗号キー(秘密キー)があるのですが、それに関しては子孫には引き継げる構造にしていますので、その人のパーソナルデータの価値をいわゆる遺産のような形で子孫に引き継げるような構造も入っています。

 次に、演算処理パワーをどのように提供するかのを作っているのが、スーパーニューラルネットワークのエメスになります。われわれ全人類75億人分の人脳を作ろうと試みているので、演算処理能力をどうやって担保するのかという話に絶対なります。
 まず現実として、それほどのものが存在するのかというところから取り組み始めました。まず、日本のスパコン「京」が10PF(ペタフロックス)で、人間の脳は2万4000PFといわれています。そうすると、2400倍の「京」を用意する必要があって、「京」自体に1100億円をかけているので、1100億円×2400の予算を当社のようなベンチャーがかけてようやく1人分の人脳なのです。つまり、無理な話なのです。
 かつ、世界最速のスパコンが神威・太湖之光で、中国製です。これも100PFに達していません。ただ、われわれが生きている現状の物理的な状況で実際に人脳に達している演算処理パワーがあります。それはビットコインのハッシュパワーなのです。これは4億5000万PFあって、年間5倍ずつ増えています。その年間5倍の状態を持続したとして、現状では7年後には全人類分を淘汰する、演算処理を確保できる状況が分かっています。
 この力を使うことはできないかということで取り組み始めたのが、世界中の演算処理パワーをpeer-to-peerでつないで、地球レベルのニューラルネットワークを作ってしまおうという考え方です。発想は小中学生のような感じなのですが、これがエメスの元々になります。これを真剣に作り始めて、実際に動き始めています。

 これが7月に発表したデモになります。ちょっと分かりにくいのですが、ターミナルが三つ出ていて、上二つがエメス方式で動いているもの、下が1台のパソコンで動いているものです。圧倒的に上の方が速いです。つまり、分散がしっかりできている状態ができています。さらに、これを大陸七つに分散してレーテンシーも測る形で計測してみました。そうすると、レーテンシーが発生するので、7倍にはならないのですが、現状では5倍出ている状況ができています。つまり、ニューラルネットワークに関して分散化して拡大していくことがここで証明されていることになります。
 このエメスが今非常に面白い状況になってきていて、サーバーリソースであったり、機械学習をやっている方々はAWSにすごいお金をかけていたり、NVIDIAでものすごいお金をかけているという状況ができているのですが、とても安価に使える形がこれで作られているので、皆さんの余っているパソコンが起動しているけど何もしていないときに、このエメスを入れれば、皆さんにトークンの形で報酬が発生する構造ができているので、もうかるとはいいませんが、報酬も得られる構造になっています。

 われわれが作っているスタックとエメスから出てくる個人のすごくパーソナライズされた反応モデルを、われわれはPIモデルと呼んでいます。ここまでがオルツが現状取り組んでいるプロジェクトで、ここからは私が現状、関心を持っているところになります。

 私が社会に関してこういうふうになっていくと想像し、そこに関してどのようにサポートしていくのかをいつも考えているのがSINIC理論です。オムロン創業者の立石一真さんが作られた未来予測図で、自動化社会の時代に現在の最適化社会を予測していて、次の自律社会と自然社会の科学技術との関係性を予測しています。現在は技術社会への移行期にあり、自律社会とは他人からの評価を必要としない社会です。自然社会というのは、さらに先に行って、ある種超人たちの世界のようなイメージを持っていただければと思うのですが、社会変動を起こすときに必ずコンフリクトが発生します。例えば現状でいうと、AIによって仕事が奪われるのではないかということを社会コンフリクトと立石さんはおっしゃっているのですが、それらに関するコンフリクトを皆さんが安心した状態でスムーズに移行できるようにするために、われわれはオルツを作っています。

 さらに、私の中で、すごく関心を持ち、かつ共感しているのが、ユヴァル・ノア・ハラリの『Homo Deus』という本です。今回のテーマはものづくりというところに入っていると思うのですが、私はものづくりは何をすべきかというのをずっと考え続けながら行動しています。ハラリはこの本で、20世紀までの人類の大課題は飢饉と疫病と戦争であり、これらは社会やテクノロジーや科学、思想でクリアしてきたと言っています。
 ここから先は何にチャレンジしようとしているのか、何が人類にとって課題なのかというのを三つ挙げていて、一つ目が不死です。死なないことに関して真面目に取り組み始めるということです。不死を否定しているということは、医療を否定しているという考えになります。そこに関しては現状、延命ができることに関して皆さんが信じ始めている状況ができています。そこをさらにテクノロジーを進化させていくことは、人間にとっても重要な課題になっているということです。例えばGoogleの子会社にキャリコという会社があるのですが、その会社は2050年までに寿命を10年単位で延命するテクノロジーを提供するそうです。
 二つ目が幸福についてです。ハラリの本の中では、薬を投与したり遺伝子操作をすることで、人間が死ぬまで幸福でいられる状態を技術的に可能にして、それが提供できる状態にするのではないかと予言しています。
 三つ目が、神聖です。自分たちの持っている力を拡張していくことを、自分たちで自由にデザインできる時代が来るだろうと考えられています。
 私は、この不死と幸福と神聖に根差したものづくりが次のテクノロジーであり、私たちのようなものづくりをする人間が挑んでいかなければならないことではないかと考えています。
 21世紀はまだ半分にも至っていないので、まだまだこれからチャンスがあると感じています。それが私の中での現状の考えになります。

(宮田) ありがとうございます。なるほど、前半の方は全然分からなかった気がするのですが、最後の方はなるほどと思いました。
私が金沢で素晴らしいなと思ったのが、私もそうですが、米倉さんもデジタルでいろいろなものを作ってきたではないですか。でも、そこにいらっしゃる福光さんが「あなたたちがやっているデジタルも、手仕事でものづくりだ」とおっしゃったのです。だから、そういうことを言い切れるのはすごいまちだなと思うのです。なので、今日こういう機会があるのも、そういうものが根っこにあるからなのかなと思うのです。
 米倉さんの話については、後半またいろいろディスカッションしたいと思います。ここからは三石さんにマイクを移してお話しいただきたいと思うのですが、皆さん多分、三石さんが何者かがまだ分かっていらっしゃらないので、その辺も含めて面白いお話を頂ければと思います。よろしくお願いします。

(三石) 全く真逆で、服装から真逆ですし、私はスライドを一切使いません。使ったことがないので、その場その場で決めて話します。私は三石晃生と申します。東京の渋谷区にある公益社団法人温故学会・塙保己一資料館の監事と研究員をしています。あとは、世界で初めて歴史を使ったコンサルティングを行う会社goscobeを起業しまして、歴史コンサルタントなどいろいろやっています。先ほどのお話を聞いていて、AIと工芸がどうつながるのだろうという着地点を見いだしながら、今から25分間ほどお話ししたいと思います。
 パンフレットにも工芸というふうにありますが、工芸とは一体何だろうという定義を知らなければ、やはりものを考えられないと私は考えています。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語学派の末裔を自負しているので、言葉の定義にはすごくうるさいのですが、工芸というとやはり純粋美術以前の美術という感じがするのです。
 実は美術という言葉が使われるようになったのは極めて最近のことで、1873年です。ウイーン万博があったときに、日本が使節団を送り、そのときに「Schönen Künste」というドイツ語を翻訳しました。この言葉は何というのかということで、ドイツ語で「純粋美術」という言葉を当てて造語したのです。そのときに、日本が開国してから西洋のことを学んでいく中で、全ての西洋のものは全部欲しいのです。良い悪いは関係ありません。取りあえず全部入れてみようという実験のベータ状態に入るのですが、そのときに美術という言葉を導入したわけです。美術の導入は、実は近代化の一過程の中で生まれたのです。
 その中で、日本では美術を分類し始めます。純粋美術というものと装飾美術というものに大きく分けるのですが、純粋美術は精神性の高いものと定義付けました。そこから、われわれ日本には装飾美術があります。しかし、純粋美術という精神性の高いものはどうもなさそうであると彼らは判断したのです。そこから精神性の高いものを独立させていこうという考え方をしていきました。
 工芸という言葉が登場してくるのは、実はこの明治のころなのです。工芸というのは、明治時代の時点、あとは大正時代にも使われますが、工業と全く同じ意味で使われています。工芸と工業はイコールなのです。当時は機械技術が未発展なので、機械で大量生産することができないため、人力を使いました。それでものづくりをすることは工業であり、それで工芸なのだというふうに考えていたのです。
 西洋近代の合理主義の中で、日本の美術は大きく変容していくことになります。明治の初頭は、美術の中心は工芸品の輸出でした。陶器などを海外に持っていって売ることが非常に大きな産業になっていました。1877年の明治憲法体制ができた頃になると、工芸品ばかり出していると日本には装飾美術しかないと思われてばかにされるから、これはやめよう、日本で純粋美術を育てていこうという流れが生まれました。つまり、美術が技術から精神的なものへの完全移行を志すようになったのが、明治憲法制定の頃だったのです。明治憲法を作ることは結局、海外から馬鹿にされないという意味合いが非常に強いわけです。
 それで、西洋近代合理主義の中で美術がだんだん純粋志向になっていきます。絵画というものと工芸というものの二つに分かれていくのです。絵画というのは精神性が高く、工芸というのは装飾性があって技術面に優れているのですが、絵画は精神性ばかりを強調し、工芸の方は「精神性は関係ないだろう、おまえらは職人だろう」ということになっていきます。工芸は職人で、一方の絵画を描くのは芸術家、画伯などというふうに高い社会的地位を与えられるのですが、クラフトの方になっていった側は職人としてあまり正当な評価を受けないような状況になってくるわけです。1873年のウイーン万博が大きな分岐点になるのですが、これは日本での話です。
 ところが、1873年以降のウイーン万博などいろいろな博覧会に出していった中で、日本は大きな美術界において衝撃を与えるわけです。というのは、当時の西洋というのは表現の自由に大きな束縛がありました。陶器を作る場合、例えば左右対称でなければならないという考え方です。左右非対称であるものは売り物にならないという考え方もあります。あとは、技術の中で、エルヴィン・パノフスキーではないですが、イコンというものに非常にうるさかったのです。この絵に描かれているものは何々の寓意などということです。
 なので、浮世絵を見たときに彼らは非常に自由に感じたわけです。雨の表現というのは、実は西洋絵画以前の段階では、粒では描かれなくて、濡れた地面でしか描かないのです。あとは外が曇天であるというような表現の仕方だけです。ところが、浮世絵の場合は斜線を入れるのです。これに彼らはしびれてしまうのです。それから、例えば国宝にもなっている「俊寛」という名器は、千利休の時代の陶芸職人の長次郎が焼いたものですが、あのようなものも左右非対称です。左右非対称なものを持っている日本という国を見て、これはすごいというふうに彼らは衝撃を受けました。いわばジャポニズムの持っている歪みというものに、未完成的な伸びしろがまだあるというような躍動感を彼らは非常に感じたわけです。
 そして、その中で19世紀末になると、アールヌーボーというものが生まれます。ですので、エミール・ガレなどは歪んでいます。植物をモチーフにしたのは、ジャポニズムの影響です。ロートレックは浮世絵の影響を受けて余白を使い、遠近感を駆使するようになります。全ての芸術はアールヌーボーをいったん通っています。というのは、世界を模写するものではなく、言葉の力を借りて意味を立ち上がらせる方向に向かうのです。
ここまでの話は、日本はすごい、ジャポニズムはすごいという話になるのですが、私はそういう論はあまり好きではなく、日本は素晴らしいかというと、ジャポニズムというのは東アジア美術、東アジア文化の総体だと私は考えているのです。中国、朝鮮、日本の総合的工芸力が、日本というインターミディエーター(媒介者)を通じて世界に紹介され、アールヌーボーという世界美術における大きな革新を生んだのだと考えます。
 では「日本文化とは何か」と考えていくと、捉えどころがないのです。常に変容し続けます。特徴を言うなら変容し続け、混合雑種であることです。すぐ変わり、固定されないという本質を持っています。これは非常に日本の持っている芸術の特徴であり、日本はかくあるべしと思うと、日本美術は非常に危ういのだと私は思っています。
 そういうものを非常に多様に持っているのがこの金沢の地でもあると思うのですが、純粋美術、装飾美術というものが芸術・工芸に分かれ、あるいは違う言い方をするとハイアート・ローアートという呼ばれ方もします。こうした二分法的な世界は、1980年代のポストモダニズム以降崩壊していくのです。美術の中でも多文化主義と呼ばれていて、簡単に言うと金子みすゞの詩のようなものです。「みんなちがって、みんないい」という感じです。ポストモダニズムが登場することによって、美術と工芸が二分できなくなってきます。
 とはいいながら、美術も工芸も両方とも存在しています。この違いについて考えてみると、機能性を持っているか、実用性があるか、目的性があるか、無目的か、あとは主格の純粋性があるかないか。哲学思想を持つかどうか、あともう一つ、これが最重要だと思うのですが、過去の伝統や考えを否定して展開していくか、あるいは否定しないで伝統と技術を継承していくか、これが美術と工芸の大きな境目だと思うのです。ある意味では、過去を裏切るものが美術です。過去を肯定しながら改良を重ねるのが工芸の取った道です。
 しかし、人間の育んできたものは全て伝統の外には出ないと私は考えています。というのも、フルクサスが出ようが、ナム・ジュン・パイクが出ようが何が出ようが、過去を裏切る伝統が美術になっています。過去を裏切り続けるからこれは美術なのだというのが伝統化しています。最初のパイオニアだけで、あとそれ以降は伝統になり続けるのです。革新と伝統が表裏一体というのは、まさにこのことだと私は思うのです。
 ポストモダニズム以降、美術概念はどんどん拡張してきました。芸術家たちがいろいろな拠点を移して制作するようになってきたりして、もう定義不能になってきます。定義不能になってきているこの世界の中で、唯一いえることがあるのです。美術も工芸も両方とも資する生者、つまり死ぬ定めにある人間がつくっているものであるということです。人類による産物であるというのが美術・工芸の共通点だと思います。
 そこで、隣のオルツの米倉さんもいらっしゃいますが、AIの登場が大きく変えるというのは、人間の手仕事が奪われることではないと私は思っています。というのは、AIやあるいは恐らくALifeという人工生命が出てくるのですが、そういうものに頼って作ったら工芸ではないからです。そう言ったら、恐らく金箔作りなどはアウトになってしまいます。箔をたたくときに機械を使っていますが、それは技術を導入しているだけであって、やはりそれはちゃんとしたクラフトマンシップにのっとった美術・工芸であるわけです。結局、命あるものがつくっているのが今までの美術の領域でした。これに不死のもの、AIというものが新たに参入してくるときに、新たな美術・工芸はどのように再構築されていくのかということに私は非常に興味があるのです。
 私の立ち位置からまず申しますと、AIに対しては否定論者ではありません。以前、イ・セドルという世界最強の囲碁棋士がAlphaGoに負けました。私も碁を多少するので、あのAIを見ていたのですが、強いです。しかし、強ければいいというものではありません。見ていると、AlphaGoは複数のプロたちが集まって相談して、最速でこれを打とうと言っている感じがして、手筋が見えないのです。AlphaGoはコミュニケーションをとっている感じがしないのです。やはり碁というのは、打ちながらその人のキャラクターを楽しむ部分があるわけです。例えば武宮正樹先生という棋士であれば、宇宙取りといって真ん中の地を取ったり、呉清源先生であればすごくおっとりとした「六合(りくごう)の碁」を打ったり、いろいろな傾向があって、その世界を楽しむのですが、強ければいいというものではないというのが、私がイ・セドルとAlphaGoの碁から思ったことなのです。
 結局何を言いたいかというと、工芸とAIを一生懸命近づけようと頑張りましたという話です。この後、いろいろなトークディスカッションの中でこれを広げていけたらと思って、種だけまいてみました。

(宮田) どうもありがとうございます。何か三石さんの話を聞いていると、タイムマシンで旅をしてきたような感覚に陥るのです。
 米倉さん、三石さんのお話を聞いてどうですか。感じるところはありましたか。

(米倉) めちゃくちゃ面白いと思いました。私は、例えばコミュニケーションや決断まで人間から奪って、人間にはあと何をやらせるつもりだという質問をよく受けるのですが、私たちが今感じているコミュニケーションや決断のレベルが上がると思っています。例えば、よく例に出すのですが、先ほどの絵画の話で言うと、写真が生まれる前の絵画の役割と、写真が生まれた後の絵画の役割がごろっと変わっていて、写真が生まれるまでの絵画は正確に書くことが重要で、写真の代わりとして保管する形で画家が存在していました。ただ、写真が出た後はそこから役割を変えて、作家の表現の方に価値が出てきた部分があると思っています。今まではものを残すという形だったのですが、私が考えているのはデータというものがコンピューター処理で残る状況ができてきたために、私たちの意識や脳といったものを残す方法に関して模索し始めているのが現在だと思っています。
 そこに関して、今まで人間に求めていた何かというものが多分変化しなければならないのだろうと思っています。そこに今まで私たちが思っていた以上の価値があるのではないかと思っています。

(宮田) 確かに表現方法は、写真という技術が発明された後、全く変わっていますよね。ですから、コンピューターの領域もどんどん新しい発明が行われ、世界中の研究者たちがあらゆる研究をしています。そういったもので新しい技術が出てきたら、それこそ米倉さんが一生懸命やっていらっしゃる研究は当たり前になるのでしょうね。そうすると、ITといわれているものも私たちの生活の中で全く違う役割としてこれから発展していくのだろうと思います。
 伝統や歴史というのは人間が作っているものです。例えば、三石さんが幾つかお話になった中で個人名が幾つか出てきましたが、これは誰かが作った歴史だと私は思うのです。例えば私の祖父母は、私にとってはすごくいろいろなことをしてくれた、非常に人間的に価値の高い人なのですが、世の中の歴史には残っていません。でも、今出てきたものは恐らく誰かが残したのですよね。

(米倉) 残っていますね。

(宮田) ですよね。だから、米倉さんが今やろうとしているものは全て残っていくわけですよね。

(米倉) そうです。

(宮田) そうなったときに、残った全75億人の記憶というのはどうなるのですか。

(米倉) 私が実現させたいのは、残ったものに関して意識を再現させて、その人同士をそのまま残ったようにコミュニケーションさせることです。先ほど宮田さんがおっしゃったように、例えばウィキペディアに名前が載っている人は本当にごくわずかで、死んでいった人たちの何万分の1のレベルもないのですが、その中で学べることはほんのわずかになってしまっていると思っています。先ほど宮田さんがおっしゃったような祖父母であったり、本当は私たちが学ぶべきものを持っていた可能性があるところに関して、今までは人間がものとして残すことでそこを感じる、記憶を蘇らせる方法を取ってきたのですが、それを人間がコミュニケーションしやすい形で再現させることが可能になってくると思っています。

(宮田) 例えば100年前の器を手に入れたとして、先ほど三石さんが左右非対称のものについておっしゃっていたではないですか。みんなの記憶が残っていると、なぜこれを作ったのかという話を、作った人に聞けるようになるかもしれないということですよね。

(米倉) そうですね。私たちは読み解くということを、ものから感じてやっていますが、そうやってできる人とできない人が存在しています。それを子どもでもやれる状態にしていくことが可能なのではないかと思っています。

(宮田) 今の子どもは、私が子どもだったときと違って、iPadやiPhoneを普通に使いこなすではないですか。それで、これもデータが出始める10年前に賛否両論あったのですが、私はがんがん触らせた方がいい派なのです。むしろこれができなかったら、未来はないのだろうと思っています。
 うちの娘はまだ9歳ですが、めちゃくちゃ使いこなして、もしかしたら私よりすごいのです。どうやら学校でもパソコンの授業があるらしく、親の名前などをググり始めるのです。私がたまたまウィキペディアに出ていたので。そんな未来を私は想像していなかったのです。

(米倉) 気を付けないと。

(宮田) だから、ネットで公開される情報もだんだん気を付けなければと思うのです。今回は熟成というテーマなのですが、熟成はある程度時間がかかる印象を受けるのです。私は、時間をかけながらどんどんやっていくのは金沢らしくていいなと思っているのですが、私たちは未来に向かってテクノロジーや文化を作っていく仕事をしているというか。そう考えると、今の子どもたちがどういうスキルを身に付けて悪い方向に行かないというか、やはりテクノロジーというのは人間をさらに進化させるための素晴らしい道具だと思っているので、未来というところに私たちはどんどんフォーカスしなければならないのではないかと思っているのです。

 私は以前ここに来てもらった孫泰蔵氏とMistletoeという会社を立ち上げています。ここは何をしているのかというと、世界中でスタートアップのエコシステムを展開するベンチャーキャピタルなどではなくてコミュニティだとわれわれは言っているのですが、大体14の国で150人ぐらいのスタートアップにどんどん投資しています。その中で、われわれは未来にすごくフォーカスして、世の中をより良くしていくようなことをしたいと思って、今これだけの数をやっているのです。

 その中で、VIVITAという会社は、自分たちで投資もしながら事業の運営もしているのですが、2013年に元々発想した事業で、21世紀を生きる子どもたちにとって本当に必要なスキルは何かというのを考えていて、そこでフォーカスしたのが実はものづくりだったのです。千葉の柏の葉という所に去年オープンしたのですが、こういった子どもたちが自由な発想でものづくりをどんどんできるような場所を作っていて、私たちも相当手探りで始めたのです。ここ自体は全て子どもたちは無料で、何でも好きなことができるようになっています。
 基本的なコンセプトは「最高の放課後」なのですが、ここに来ると、いろいろな材料や道具があり、自分が発想したものを実現するには何をしたらいいのかを考えてもらうような場になっています。やはり安全面などを考えて、大人が毎日6〜7人は常駐しています。これはうちのスタッフもそうですし、近くの大学のボランティアなどで運営されています。そこに大人はいるのですが、基本的にここで子どもたちに何かを教えることはしないというのが大きなコンセプトです。カリキュラムなどもありません。子どもたちが自発的に何かを始めて、どうしても手詰まりになったら近くにいるうちのスタッフと一緒にやります。うちのスタッフもそこで答えを出すのではなくて、一緒に手を動かすことを日々やっていて、毎日コンピューターを使うものもあれば、実際に大工道具を使ってものを切ったりつなげたりすることもできますし、その両方を組み合わせて、IoTみたいなことをすることもできます。
 これはTonko Houseといって、元ピクサーのクリエーティブディレクターにこの話をしたところすごく共感してくれて、彼らも世界中でいろいろな賞を取っているのですが、ここでワークショップをやってくれることになって、「今度こういう人たちが来ることになったよ」と言ったら、子どもたちは私たちが言うまでもなく自発的に、「では、そんな人たちが来てくれるのだったら、看板を作ろう」というプロジェクトを始めました。要するに、プロジェクトの立ち上げを子どもたちが自発的にやるのです。「こういうプロジェクトをやるから、やりたい人は集まって」という感じで始めて、そのTonko Houseのスタッフを歓迎するということもあって、こういうイベントになるのです。
 イベントの立ち上げなども、子どもたちが自発的にやるのです。大人が心配するほど子どもたちはしっかりしていたということがよく分かって、こういうことをちょうど1年半ぐらいやって、何か賞を頂いたりもしたのですが、この場所に世界中のいろいろな国の人たちが視察に来てくれました。ちょうど先月末、話題のエストニアにオープンしたVIVITAエストニアの子たちも、毎日こんな感じでこの場所に来て、ものづくりをどんどん進めてくれています。

 これは何かというと、エストニアで先週末行われたロボティクスというイベントです。ロボットといっても、ボットといわれるチャットボットのようなものがあるのですが、あらゆるロボットに関するロボットクリエーターの人たちが世界中から4万人ぐらい集まるのですが、そこでも子どもたちが相当活躍しています。

 その中で、これはシンガポールの子なのですが、10歳の女の子が自分で作ったロボットのプレゼンテーションをしているビデオがあります。

―動画―

 今、10歳の子がこんなことをする時代になったのです。この子たちも、普段は先ほどのVIVITAでものづくりを一生懸命やっている子たちで、作ることが非常に楽しくて仕方ないらしいのです。この場に30カ国のいろいろな国の人たちが参加していたのですが、来ていたのは現地でそういう活動をしている人たちや、教育関係の人、政府の人などが来ていたのですが、その30カ国の人たちが口をそろえて「自分の国の教育は駄目だ」と言っているらしいのです。それで、私たちがやっているこのVIVITAを自分の国でもやりたいと言ってくれて、来年は他7カ国での展開が決まりました。
 これから21世紀に身に付けておくべきスキルは何かという話になるのですが、みんなが口をそろえて言うのは、一つはやはりものづくりなのです。それと農業、エネルギーです。それ以外はなくていいというぐらいの結構激しいことを言っているのですが、やはり今からやっていくべきことは、地球環境なども含めて、これなのではないかということを世界中のみんなが思い始めているのです。
 エストニアがオープンしたばかりですが、その隣のリトアニア、シンガポール、台湾、韓国とあと二つぐらい決まっています。国内でも、私たちは今、千葉にしかないのですが、これを絶対金沢に作りたいのです。何とか実現していきたいと思っているのですが、やはりそういうところでものづくりの場というのがとても重要だと思うのです。その中に、米倉さんがやっているAIの領域というのも入ってくるといいと思います。PAI(パーソナル人工知能)はいつできるのですか。

(米倉) 2025年。

(宮田) すると、2025年以降のわれわれの生活は一変するのだと思うのです。それがどんどん残っていくことが歴史になっていくのだろうと思います。
 三石さんにもいろいろ聞きたいのですが、今まで記録として残っているものを、三石さんはほぼ記憶されているではないですか。

(三石) 割とですね。

(宮田) 一体どれぐらい記憶しているのですか。

(三石) 見たものは大抵なので、結構膨大な量を引っ張り出しています。

(宮田) 三石さんはすごく特殊な能力があって、一度見たものを忘れない人なのです。それで、私のオフィスに来て、「宮田さん、この本、読んでいいですか」と言って、この勢いで読んでいくのです。それで全部頭に入っていくらしいのですが、私が初めてお会いしたときに、この人はとんでもない詐欺師なのではないかと思ったのです。でも、実際お話を聞くと、今日のお話もそうでしたが、あれだけの知識で何を聞いても返ってくるのですが、その能力はどう生かすのですか。彼は絵を描くのも彫刻もすごい才能を持っているのです。その能力は記憶から来るものなのですか。

(三石) 記憶は確かに必要といえば必要なのですが、VIVITAに絡めて言うと、人間にとって必要なものは、私は知識ではないと思っているのです。AIがしばらくは人間を超えられない一つの理由は、肉体を持たないことです。肉体を持つことによって体験することができて、体験することによって形容詞が蓄積されていくのです。機械やAIにとって一番難しいのは、形容詞の理解です。美しいとは何ですかということです。机は形状から判断できますが、価値基準になってくると体験がないと駄目なのです。だから、「いい風だね」と言った場合に、温度と風向きを1回記憶するとします。でも、人間は状況が違うので、8℃ぐらいのいい風だと、「違うじゃん」ということになります。「いい」という形容詞は、自分の揺れ動く体験やそういうボディがあって初めてなされるものです。
 形容詞が蓄積されていて出来上がるものが、私は思想や心情だと思っています。なので、AIが今のところ2025年シンギュラリティの時代にまだできることというのは、名詞の蓄積です。名詞を蓄積していくと、それは知識になります。私は、知識というものをあまり認めていないのです。知識は集積するだけなので、そんなものはコンピューターでできるのです。知識というのは、ものの見方を育てはしません。あくまでもあるだけなのです。
 例えば工芸のお話をしないと福光さんに怒られるので工芸の話をしますと、百工比照というものは皆さんご存じです。百工比照は5代藩主前田綱紀公が発意されたものです。これを作ろうと思った発意は、やはり形容詞の蓄積、自分の思想の中でしか生まれてこないのです。前田綱紀公と私が同じと言うつもりはもちろん全くないのですが、芸術を作ろうとか、そういうものを作ろうと思うのは、記憶はあくまでAI的には使いますが、その核にあるのは自分の中の形容詞的なものの中にある見方です。その心情というものです。
 もっと言うと、なぜ百工比照を作ろうと思ったかというと、あれは朱子学の考え方なのです。一言で言うと、敬(敬う)という思想が朱子学にはあるのですが、敬の思想に基づいて綱紀公は作ろうとしたのです。物事を秩序立てて、あるがままの状態にするのです。百工比照が出たときに永六輔さんが来て、「これは後世に残すためだ」と言われましたが、あれは多分そうではないと私は思っています。あれは綱紀公の性格ももちろんあるのですが、恐らく御細工所と呼ばれるところの教材にするため、後に何か使うために集めたのだろうと、集積の仕方からして思うのです。

(宮田) そうなのですか。実は、あまり加賀藩の歴史が深掘りされていないと以前おっしゃっていましたよね。

(三石) 結構偏りが大きいというのがあります。民衆史のような部分に手薄なところがあります。大火がたくさんあったというのもあるのですが、大きな藩政のところは非常にやりやすいのですが、そうではないところは非常に研究しづらい手薄なところがあります。
 ですが、百工比照などは本当にやりやすいです。綱紀公はメモ魔ですので、いろいろ残っています。「東寺百合文書」というのがあるのですが、東寺というのは京都の教王護国寺のことで、綱紀公は東寺から資料を貸してもらったのです。貸してもらったときにあまりにもぼろぼろだったので、彼はちゃんと写本まで作って、なくなっても大丈夫なようにストックしつつ、なおかつ元の原本をちゃんと修復して、しかも桐の箱に収めてお返しするという超律儀なことをしてくれたのです。100あるといわれていたのですが、最近の研究では93しか渡していないことが分かっています。そういう知識はあるのですが、どういうキュレーションで、どの口調でしゃべるのかなど、いろいろあるわけではないですか。

(宮田) すごいですね。それは見てきたのですか。

(三石) 「講釈師、見てきたような嘘を言い」です。

(宮田) それだけ歴史を研究されていて、それだけ知識というか、記憶がある人に聞きたいのですが、これから先、私たちは自分たちがやっているものづくりなどをどうやって残していくべきだと思いますか。残していくというか、発展を見据えて。

(三石) やはり一つは、大きくいろいろな体験をしていくことが大事だと思います。体験していって、形容詞的なものをたくさん磨いていくことです。知識として知っているのではなく、体験や肉体感覚であり、自分の中でしか通用しないような形容詞に落とし込んで、その世界観を発現していくことです。ただ、一つ問題なのは、加賀藩がなぜこれだけの工芸の国になったかというと、それは御細工所をちゃんと作って、身分を保証してあげたことが大きいと思うのです。

(宮田) 場を作って身分を保証するということですね。

(三石) 食えてなんぼですから、どんなにいい腕をしていても食えなければ、ものを作ろうにも作れないわけです。作るためのバックグラウンドをちゃんと用意してあげたことは大きいと思います。でも、御細工所は元々、武具を作るための場所です。それを3代利常公は、幕府が文治政治に転換したときに、「戦争がなくなるから武具をやっても駄目」と言って、工芸に転換していったわけです。今ある既存のものを上手に変換していったのです。なので、ものを作るときに、既存のものを一から作るだけではなく、うまく転換していくことも大事なのだと思います。

(宮田) 要するに、スタートアップの業界でいうピポットですね。

(三石) もう一つは、食えてなんぼなのですが、その母体が、やはり商売ではないですけど、マネタイズは近現代の中では一番避けては通れないものなのです。それをどうするかというと、昔の場合はきちんとマネタイズするために、慶應年間に入ってからですが、官業博覧会などに石川県の場合、金沢の場合にはたくさん送り込んで、金賞を取らせたり、販路を海外に取っていって、金沢の経済を潤わせたというのがあるのです。なので、そのインターミディエーター(媒介者)がちゃんといて、媒介者がマネタイズしながらそれを回すという循環がちゃんとできて、なおかつ身分がちゃんと安定されていないと、やはり安心してものを作れません。

(宮田) 確かにそうですね。

(三石) たまに「美大へ行こうと思うのですけど」と私に相談してくる残念な高校生がいるのです。私に相談したら「行かなくていいよ」ということになります。「だって、僕は美大へ行かないでこれだけ描けるよ」と言って、いろいろ出してしまうのです。けれども、なぜそういうふうにみんな不安になるかというと、美大や工芸では食べていけないからです。だから、制作するという場所が、非常に厳しい現場にあるということが知られてしまっているわけです。
 御細工所の偉いところは、全国津々浦々から選抜試験で採るのです。これは賢いやり方です。なおかつ、専門ばかにさせないために、綱紀公は「ちゃんと歌をやりなさい、お茶をやりなさい」と言って教育させたのです。なので、さまざまな蒔絵の中にも『伊勢物語』の本歌取りをモチーフにしたものなど、非常に奥が深いものを出してくるのです。「この寓意、分かる?」みたいなものを出してきたり、そういう通好みなところが好まれるわけです。
 やはりみんなが安心してそこに集う場所、それはある意味で約束されている場所なのですが、さすがに公務員のような形でずっと安定的というのは、美術的なハートを失うので、そこは調節する必要があるとは思うのですが、そういうのを失わないように、ちゃんと選抜入れ替えしたりしながら、工芸というものがある程度しっかりと食べていけるものなのだということは重要だと思います。
 なぜ金沢の工芸がここまで栄えたかというと、二つあります。実は、金沢には二面性があって、近代化というものと城下町というものの両方に、旦那衆や上級商人が手を出したのです。城下町は残したからあるのです。市民がいかに残そうとしてきたかということなのです。明治22年ごろになると、明治天皇から「洋化政策に行き過ぎていたからやめなさい」というようなお叱りがちょっとあったわけです。それ以降、日本だ、日本だと言って日本になるのですが、失ってしまったものはシンガポールと同じです。もう戻ってきません。加賀の場合には、これを残したのです。残して、なおかつその後もずっと残す鋭意を続けたから城下町があるのです。ある意味で、城下町というのはあったのではありません。創造したのです。
 その一方、香林坊では大正3年ごろには既に映画館ができています。大正8年ごろにはビリヤード場が10軒ありました。

(宮田) なぜ知っているの?

(三石) そういう情報があるのです。モダンな都市と城下町という、一見反するものを両方とも持っていました。近代工業に関しては繊維業をやりながら、もう一方で職人たちを使って大聖寺伊万里などのような工芸をちゃんと出していたのです。職人がちゃんと近代化の担い手になっているという非常に稀有な特徴を持っているのです。この土地は職人が諦めないで、そのマインドが残ったことが非常に大きいと私は思っているのです。マインドを残すためには、そういう場がちゃんとないといけないというふうに私は強く思います。

(宮田) そうですね。金沢は本当に代表する場だと思います。今、工芸の話をいろいろ聞いたのですが、委員の中からお話を聞きたいと思います。本山さんは工芸のこういった作家さんに一番近いところにいらっしゃると思うのですが、今のは情報量が多過ぎて頭の整理がつかないかもしれないですけど、何かお話を。

(本山) AIから歴史までお話をたくさん頂いて、いろいろ落とし込んでいくと、金沢のまちがやってきたことというか、今やろうとしていることに非常に符合するところもあります。マネタイズという話が出たのですが、昨年から始まった11月のKOGEI Art Fair Kanazawaは、金沢のまち自体が販路になるというか、世界に向かって工芸を売るマーケットの場を創出する取り組みが始まっています。それで、世界から工芸の専門の方やキュレーターの方をいろいろ招聘して見ていただくと、「金沢はすごいね」と言われます。美大があり、卯辰山があり、さらに伝統工芸の蓄積があって、作家や作り手の集積が非常に素晴らしいと言われます。世界に通用するものが既にここにあるという評価も頂いています。あと足りないのは、それをどうダイレクトに世界に出していくことなのかなと思っています。
 文化をつくるまでというところでどちらかというと終わっていたところ、経済活動の循環を金沢の中に完結する仕組みをこのまち自体が持つことが重要ではないかということで、そういうプラットフォームの取り組みをしているのです。工芸で地域の中に国際市場を構築するような取り組みも、金沢のまちがものづくりで熟成していくときの次なるステップとして必要なことではないかと思って、さらに取り組んでいきたいと思っています。

(宮田) ありがとうございます。もちろんそういう新しい取り組みもしているまちだし、伝統を重んじているのだけれども、私が金沢に来て思うのは、新しいことがすごくやりやすいまちだということです。そういった意味で、オルツの米倉さんも、金沢に去年初めて来ていただいて、すごく気に入ってくださっているではないですか。どの辺が面白いと思いますか。

(米倉) 先ほどの最初のイベントではないですが、「美しい」という言葉がすごいしっくり来ます。私は1カ月前に来たのですが、来る人みんなが「美しい」という言葉を連呼するまちだなと思っていて、来る価値がすごくあるし、家族にも「金沢は絶対行った方がいい」と言っています。

(宮田) 今日のテーマである「ものづくりの熟成」については、答えはないのだと私は思うのですが、これからこうしていこうとか、こうしていくべきではないかとか、ものづくりである以上、人が一番重要だとは思うので、ものづくりというのは働き方の部分にもつながると思っているのですが、何か一言ずつ、こういう熟成のさせ方というか、取り組み方というか、ちょっとお話しいただきたいと思います。

(米倉) 私は先ほどのVIVITAにものすごく共感しているのです。最近、学生と量子コンピューターを小学生にどう教えるかというワークショップをできないかと考えているのですが、やっていることがはちゃめちゃなので、温かく見守るしかないという形で学生とやっているのです。大事なのは愛だなと結構思っています。

(宮田) AIではなくて愛だと。

(米倉) はい。

(宮田) なるほど、ありがとうございます。三石さん、お願いします。

(三石) 私は、加賀がこれだけの文化大国になった一つの理由は、綱紀公が時機を逃さなかったことだと思うのです。

(宮田) タイミングということですか。

(三石) 延宝・宝暦のころは、文化振興の絶好のチャンスでした。それ以降になると江戸はだんだん下がっていくのですが、経済のいいときにしっかりと文化振興を図ったということです。そして、その中で加賀には、やる以上は天下一を狙うという気風があったわけです。この気風を常に失わないことが大事だと思います。
 皆さんを発起するために面白いことをお教えします。ご存じのとおり、加賀藩は斉泰公の失策というか、状況上仕方なかったのですが、尊王攘夷派をみんな殺してしまったがために、明治維新のときに乗り遅れてしまいました。そして、明治政府からは、日和見藩というレッテルを貼られてしまいます。日和見藩はどうなるのか。これは宮武外骨が言っているのですが、日和見藩は一発で分かるのです。山や川の名前を付けるのです。城下町の名前は絶対に付けさせませんでした。石川、富山は、なぜ川と山なのか。これは日和見藩であることを分からせるためなのです。
 逆に日和見藩にされたからこそ、その中で育ってきた気骨というものもあると思うのです。先ほどの講演トークの中で、いろいろな都市的なものが遅れていったという話がありましたが、そういうものを踏まえながら、遅れたら取り戻そうというのが加賀の気風ではないかと思います。皆さまのお力と気骨に一つ期待しているところであります。私は東京人なのですが、呼んでいただけたら定住しますので、今後ともよろしくお願いいたします。

(宮田) どうもありがとうございます。では、早速定住していただきたいと思います。では、今日のお話、本当にたくさんの情報があったのですが、明日の発表に備えてちょっとまとめていきたいと思います。セッションAはこれで終わります。どうもありがとうございました。

 

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