金沢市創造都市会議開催委員会実行委員長 社団法人金沢経済同友会副代表幹事
福光 松太郎
   

引き続き「香林坊界わいの賑わいづくり」について資料を紹介したいと思います。今、水野一郎先生からの紹介がありましたが、私も少し用意しました。特に都心部、中心市街地に限ってどういうふうに変わってきたのか。まず、中心市街地がどういうふうに衰退してきたのか、変わってきたのかということをご紹介したあとに、香林坊界わいがどういうふうに変遷してきたのか、そのことについて紹介したいと思います。 (以下、スライド併用)

(SLIDE4-01) 最初に、まず市街地の変遷を地図をもとに比較してみます。 左手は1909年(明治42年)です。右側が1930年(昭和5年)を比較したものです。まず、明治42年のときの交通 の幹線として、北陸本線と松任と金沢を結ぶ松金馬車鉄道がありました。その後、1930年になりますと、新たに、まず市内に路面 電車が通ることになりました。ほかに浅野川電鉄、金石線、そして現在の石川線など、そういったものが入ったこと。それから、もう1つ、道路としては、大火がありまして、大火で区画整理が行なわれ、今の彦三大通 りが形成されています。

(SLIDE4-02) 次に、左が55年、そして右側が1970年です。55年までは先程見ていただいた1909年とほとんど市街地は変わっていません。ほとんど拡散していませんが、1970年になりますと、まず路面 電車が廃止されました。昭和42〜43年ごろに廃止されまして、それに伴い道路が拡幅整備されました。合わせて、この青いラインが新しく整備された幹線道路です。こういうふうにかなり中心市街地から四方に幹線道路が整備されまして、それに伴い、こういう網掛けしたところに新たに宅地が造成されていっているところです。こういうふうに1970年になりますと自動車が交通 の主体になってきまして、その他の道路、幹線道路を整備していったということです。

(SLIDE4-03) 今の1970年を左側に置きました。それから右側に1994年の見取り図です。こちらも青い道路が新しく整備されている道路です。ここは有松の交差点ですが、有松から南に延びる南の街道などがどんどん整備され、それに伴ってこの左側よりもさらに郊外にというふうに、市街地が新たに形成されていった様子がわかるかと思います。

(SLIDE4-04) さらに、もう少し中心市街地に絞って話をしていきたいと思います。いわゆる金沢市が指定している中心市街地というエリアは、この一点斜線を示したところです。犀川と浅野川JRに囲まれたところ。こちら側は中環状に囲まれているところですが、その中で拠点施設はどのように変わっていったかということです。まず4つの小学校が廃校になり、それが統合されて中央小学校になりました。それと尾山台高校が出ていきました。それとは逆に、武蔵が辻と香林坊に再開発ビルが形成されていますし、文化的な施設としては市立玉 川図書館や市の文化ホール、あるいは県立美術館等が新たに整備されています。

(SLIDE4-05) 90年代になりますと、まず金沢大学が95年に移転が完了しました。同じ年に金沢大学の付属小中学校も郊外に移転しました。こういう大きなところが2つ出たわけです。それともう1つ、此花小学校も統廃合されまして廃校になりました。そういう郊外へ出ていくということが大きな動きですが、それと並行して駅前の再開発事業が次々と行なわれたというのが特徴です。

(SLIDE4-06) 2000年以降になりますと、金沢城公園が整備れされたということ、そして今、金沢21世紀美術館が整備されつつあるということが大きな動きです。あるいは県立音楽堂が整備されたり、「プレーゴ」が整備されたりというようなところが新たな動きとして生まれています。

(SLIDE4-07) 今、見ましたように、金沢城址に金沢大学のキャンパスがありましたが、角間に移りました。結果 として金沢城公園として整備されているわけですが、昨年は全国都市緑化フェアが開催されましたし、今年は百万石博が金沢城公園で行なわれています。

(SLIDE4-08) 金沢大学付属小中学校跡地に今整備されつつあるのが金沢21世紀美術館で、2004年の11月にオープンする予定です。
最後は石川県庁です今年末に駅西地区に引越しをします。ある推計によりますと、広坂に来ていた1日約4500人ぐらいの人が駅西地区に移動するだろうという推計があります。

(SLIDE4-09) 中心市街地のデータを少し紹介します。まず40年間の人口がどう変わったかということですが、40年間にいわゆる中心市街地のもう少し都心地域ですね。6万5000人であったのが2万5000人、4万人減少しているということです。そして、市の総人口に占める割合を見ますと、22%だったのが5.6%まで落ちているわけです。いかに都心の人口が外に移動しているかというのがわかるかと思います。
もう1つ、小売・商業について見ますと、中心市街地で600店舗減少しています。店舗数でいうと約3割も減少しています。同じく商業の都心地区の位 置を見ますと、34.3%が25.4%になっていると。商店数で見ますとそういうデータです。販売額を見ますと41.3%あったものが23.8%になっています。つまり、金沢市全体の商業の4分の1ぐらいの割合に落ち込んでいるということです。

(SLIDE4-10) 中心市街地の人口減少を町会別のものとして見ますと、これは75年から95年の20年間の比較ですが、3割以上人口が減少しているところが真っ赤に塗られているところです。このあたりになります。ですから、かなり人口が減っているところが町会別 に見ますと、ここがお城のあるところですが、両サイド、四方にそれが散らばっているということがわかっています。ただ、一部、増加しているところがあります。このあたり、マンション群が建設されているところは増加、あるいは微増、微減にとどまっているというところです。

(SLIDE4-11) これは高齢化率です。金沢市の平均の高齢化率は14%余りです。それよりも超えているところに色を塗ってあるわけです。そのほとんどが金沢市の平均を上回って高齢化が進んでいるということがいえます。特にこのお城を中心としたエリアに25%以上の高齢化率が示されています。

(SLIDE4-12) 以上が市街地、特に中心市街地、いわゆる都心部の状況でした。これから香林坊に少し絞ってご紹介したいと思います。これは、かつて映画街として、このあたりがにぎわっていました。35年ごろです。こちらが南町です。こちらが片町、こちらへ行くと県庁、広坂通 りですね。ここに魚半があるオリエンタルビルが建っていますが、ここに香林坊大神宮というのがありました。大神宮の境内がこのあたりになりまして、この境内に芝居小屋が明治時代にできてきました。そのあと映画館や落語の橘座など、そういうものができてきたのが娯楽街の形成の歴史です。

(SLIDE4-13)昭和35年ごろを見ますと、境内に松竹座や名画座、スカラ座などがありました。このあたりを地形上、上(かみ)と言ったそうです。また、今ここにいますが、東映、日活、大映、香林坊会館、パリー、ロマン、このあたりを下(しも)と言ったそうです。

(SLIDE4-14)これは昭和初期の大神宮の境内で、正面にあるのがスメル座という映画館だったそうです。左手はたぶん、これが芝居小屋だと思われます。この中にはカフェなどがあったりして、やはりおしゃれな場所としてにぎわったていたそうです。
昭和30年ごろですね。正面がスカラ座です。
そして、これがいわゆる境内に上がっていく階段です。昭和41年ごろになります。こういうふうに、いろいろな映画館が集積して、娯楽の殿堂としてにぎわっていました。

(SLIDE4-13)これは香林坊橋と言われまして、先程紹介しましたオリエンタルビル、今の大和、アトリオのあるところです。この下に用水が流れていまして、これが香林坊橋と言われていました。当時、昭和30年代とか、かなり、これは学生らしいのですが、たくさんの人でにぎわっていました。 もう1つ、ここが東急ビルのあるところです。この裏に鞍月用水が流れていまして、せせらぎの用水が見えるのですが、戦後、ここに香林坊下商店街が形成されていまして、用水の上に不法占拠した2階建ての建物が並んで、魚屋さんや飲み屋などそういったものが軒を連ねていました。
香林坊一帯の歴史をたどったわけですが、現在ではどうかということを、1つは地形として、もう1つは土地利用として見るということをしてみました。
最初は地形で見てみます。今いらっしゃるのはここです。香林坊映画街と言われたところで、東急、アトリオです。ここに鞍月用水、大野庄用水、犀川が流れています。ここもそうですが、この木倉町、あるいは新天地に至るところは、袋小路やクランクなどかかなりありまして、入り組んだ路地が連なっています。それが界わい性をかもし出しています。 ここの断面を切りますと

(SLIDE4-17_28)ここにアトリオ、東急、そして映画街があります。大体6メートルぐらいの高低差があるといわれていますが、それくらい低い位 置にあります。昔はよどんだところだったのでないかなと思いますが、そういう低地にあったという特徴がその1つです。
今度は土地・建物利用を見てみます。まず、商業集積ビル、アトリオ、109、ラブロなどですね。百貨店街と言えると思います。

こういうふうに見ますと、この映画館街というのは今6つのゾーン、エリアに囲まれています。位 置的に見ると、そういういわゆるつなぎ役の位置にあるわけですね。ただ、それをどうやってつなぐかはこれから議論していただくことになるかと思います。

○現在の映画街です。これが東急ホテルです。こちらにいわゆる飲食街ですね。片町の飲食ビル街が林立しています。こちらに、少し見にくいですが、緑が現れています。武家屋敷群がありまして、ちょうどこの間、やはりここに囲まれて少し窪んでいるような感じになりますが、ここがいわゆる映画街や新天地、木倉町になります。

(SLIDE4-30)その周囲ですが、何度も出てきました木倉町です。飲食街として最近めきめきとお客さんを呼び込めるようになってきています。観光客も昼間も夜も飲み屋街に回り込んできています。金沢市では新規出店の促進事業というのがありまして、金沢市中心市街地出店促進事業というのがあります。空き店舗に新たにお店を出す場合に、3か年に限って年間100万円を限度に、家賃の2分の1、合計100万円までを補助するという制度があります。この4年間の実績を見ますと、中心市街地で109軒建ったわけですが、そのうち先程見ていただいた東急の裏の鞍月用水のところ、「せせらぎ通 り商店街」というのですが、そこが一番多くて15軒。そして、新天地商店街が12軒、そして木倉町商店街が10軒あります。ですから、新しいお店がどんどん出ているということがこのデータでわかると思います。
もう1つ、新天地です。これは昭和30年代です。こういう電飾で飾っていたところ。酔っ払いが道を闊歩していた様子がありますが、現在は若者がお店を出したりしていまして、最近では「ふれあい地蔵通 り祭り」などをやっており、フリマをやったり路上ライブなどをやったりなどしています。そういうかたちでだんだん様変わりをしてきています。
以上、香林坊界わいについて見てきました。これからはこれまで議論された「みやこごころ」について、議論された中でキーワードをいくつか抽出してみました。

まず、最初に「闇、汚い、危険」ということです。ちょっと読み上げますと、「都市には光も必要だけれども闇も必要だというのが第1点。つまり、つまづいたり、汚かったり、見通 しがきかなかったり、解釈がすぐできなかったりというような場所、あるいはいきさつが必要」。「きつい、汚い、危険なところにしかおやじは酒を飲みにこないので、あまり街をきれいにすると人は寄ってこない」。「学生にとってよい環境とは、緑のあるところだと思っていた。が、それでは学生の行くところは教室か食堂しかない。これほど退屈なところはなく、やはり、学生にとって大事な環境は都市であった」。
「迷路性・秘密」。「金沢の町を散策するというときに、単なる観光資源ではない、さらに迷路性を強調しているような用水。私たちは金沢に来ると、そういうふうなものも楽しんで見ることができないだろうか」。「都市というのは秘密っぽいところを持って、観光でお見えになった方に親切そうな顔をしながら、「ここは教えてあげられません」というところもちょいと持ちながら、ご一緒にとも遊びをするみたいな町、昔はそういう面 もたくさんあった」ということです。
「超部分づくり」。「都心性、都心(みやこごころ)の作り方というのは、変化(風変わり、様変わり、人変わり)を起こせるような仕組みづくりということになるだろう」。「都市の「景色」「覚悟」「作法」あるいは風変わり、様変わり、人変わりのようなものには、おもしろい「超部分」づくりが必要なのではないか」。  「日銀をどかすとの表の通りと裏に(略)現代のストリートと伝統のストリートの両方が100メートルのレベル差の中にそろえる。その間を人間はどう通 るか。そういうキラッと光る超ものづくりがあそこにできそうだ」。
「劇空間・踊り場」。「金沢はいくつかおもしろい踊り場というか、隈(わい)というか、中間のトランジットゾーンがありそうだ」。「都心の再生のためには都心に劇的な空間、文字どおり生身の人間が演劇を創造するような劇空間こそ大事である」。このようなことが抽出されました。
最後ですが、今までの分析といいますか、資料整理、あるいはこれまでの議論のキーワードから整理しますと、こういうことをこれからの検討のスタンスとして整理されるのではないかと思われます。
まず、これからも心踊る「エンターテイメント」とは何なのか。これまで娯楽の伝統として映画街が形成されてきましたが、新しいかたちの「エンターテイメント」とはどうあるべきかという点です。 2番目には地形、あるいは土地、建物利用の調査から見ますと、やはり周辺との「つなぎ役」だったわけですが、そういう「つなぎ役」として劇空間はどうあるべきなのだろうかということです。3番目は、今出てきましたように、闇や迷路性のある「界わい性」をいかに創出していくかということ。それから4番目に、都市に評価をもたらす「いきさつや仕組み」づくりはどうあるべきかと。そして、5番目ですが、この香林坊界わいなどはそうですが、時代の変化に対応した「仮設的な使い方」というものも検討すべきではないだろうかということです。以上、用意した資料で説明を終わります。ありがとうございます。

(高屋) 経済同友会のメンバーの高屋です。私の生業は建築の設計をしているのですが、現業の建築設計に携わっている立場として少し専門的に今のところを見ますと、町中定住ということで金沢市の施策としましては、町中に建物を建て直したりする場合に、先程、水野さんがエリアを示していましたが、浅野川と犀川の間、それから、福光線と環状線の間ぐらいの旧市内という場所に建物を新しく建てた場合、200万円出ます。その建物が例えば二世帯住宅、親世代子世代が住む場合は300万円になるということがあります。
私が今建てている住宅は石引なのですが、年寄り夫婦で住むつもりだったのですが、こういうのがありますよという話をしたところ、「それはいい、わしの息子も一緒に住むことにしよう」ということになりまして、功を奏したのではないかということがあります。そういう施策も金沢市はやっているのですが、なかなか市民にそこまで浸透していないのではないかなという気持ちはあります。我々が本当はもっと広めなければいけないのですが。
それから、今、早川さんがおっしゃった南町界わいのオフィスビルをハウジングにするという案ですが、これは東京ではもうそういうことは始まっていて、それに対して税制の優遇措置などが講じられています。これは、もう名古屋、大阪、関西圏にも来年度はできるのではないかなと。東京では湾外沿いに高層ビルが建って、昔作ったオフィスビルがどんどん空いてくると。そこに町中に定住を促進するための施策として、そのような措置がなされているということをこの前、NHKで特集を組んでやっていました。私は金沢にも南町界わいの金融機関の入っているオフィスビルがどんどん空いている状況を目の当たりにしているので、私もそれはやればいいと。技術的にやってできないことはないですが、それはもっと私も調べなければならないと思いますが、それは建築の立場からも提案をしたい。

(木下) 設計組織ADHの木下です。今、都心居住の話が出ているのですが、私も実際に今東京で都市の中の集合住宅はどうあるべきかということについて、実際に都市の中の集合住宅を設計しながらいろいろな建築家と議論をしあったのです。たまたま今東京の汐留という地区に、これは江東区なのですが、銀座から非常に近いエリアで、そこにトータルで2000戸の集合住宅を作る計画があります。6街区あって、その1街区をもう一組の建築家が担当しているのです。約300戸、実際には今回400戸近くになりましたが。それで、山本理研といくよ・くるよさんなどもほかの街区を担当しておられて、1年半以上、2年近くどうあるべきかという議論をしてきたのです。
都心居住というのはやはり郊外型の住まいとは全く違う必要があります。そして、集合住宅は今までは先程も2DKの話があって、比較的マニュアル的に作られてきたと思うのです。例えば80平米で、3LDKでファミリータイプということで、大体平面 的に定形化していたと思うのです。このあたりでそれを徹底的に見直す必要があるのではないかということを、5〜6年前から私は考えており、すでにいろいろなところでそういう話をしているのです。おそらく、ここ金沢もそういう時期に来ているのではないかと思うのです。なぜならば都心居住、要するに都市に住むという人はおそらく核家族です。また、核家族といっても、専業主婦がいる核家族と専業主婦がいない、つまり夫婦が働いている核家族とはやはり違うと私は思います。それで、おそらく当初の3LDK型の住まいというのは、夫婦がいて、専業主婦がいて子どもが普通 にいるという核家族を想定した住まいの形式だったのですね。
しかし、今、実際のデータを調べてみると、東京でしたら6割以上が、おそらく2万人近くが・・・、ごめんなさい。反対でした。6割が一応核家族というカテゴリーに入るのですが、その中でも夫婦共働きの核家族のみは、いわゆる非核家族という言葉で呼んでいるのですが、そういう部類で考えてみると、もうその他の4割以上、5割近くがこの3LDK型核家族の定型型の住まいではない住まいを望んでいる。あるいは、そういう住まい、定型型の住まいにあてはまらないような生活をしている。そういう住まい方をしている人たち、あるいは望んでいる人たちが現在存在しているわけです。
長くなって恐縮なのですが、おそらく金沢もそういう都心型の住まいを求める人たちというのは、郊外型の、あるいは今まで従来作られてきた集合住宅の同じ平面 ではないという平面で暮らす。生活が実際にそういうものを要求しているのではないかと思います。そのあたりを少し議論して、どういう住まいが、どういう住宅のかたちに求められているか。
私はこの午前中の話にもありましたが、やはり都市というのは人が住んでいなければ絶対に都市としてはアクティブにならない、都市は活性化しないと思います。ですから、そういう市内空間にはどういうものが必要か。1つの提案では食を、食と住をもっと近づける。これは、食と住が実際に分裂しているような生活体になったのは、産業革命が一つの発端だったのではないかと思うのです。しかし、今はITなどが発達して仕事ではホームオフィスなどを求めている。そういう人たちがすごく増えています。テレワーカーの時代だといわれている時代ですから。そういう時代に都市に住まう器はどうあるべきかという議論が少しなされて、そしてプロジェクトにとりかかる必要があると感じました。

トップページへ戻る