金沢工業大学教授
水野 一郎
   

「4つの道」というのはこの赤い線です。4本の道が交わったあたりが旧市街地です。

(SLIDE3-01)金沢にどういうふうにしてこの新市街地ができていったかというのを、少し絵で見てみたいと思います。1番目は昭和14年の図で、人口25万人と書いてあります。この黒い部分が密度の高い市街地で、旧市街地とほとんど変わっていません。ですから、あの旧市街地に非常に高密度に住んでいたと思われます。その周りに点々がありますが、これは農村集落です。そのように考えていいかと思います。
次に昭和26年にいくわけですが、少し膨らんだ程度で、これもほとんど変わっていません。昭和35年になりますと、戦後少し経済が復興してきて広がってきていますが、それほど市街地に広がりを見せていません。このあと昭和40年ごろから日本の高度成長の時代に入ります。マイカー元年と言われたのはたしか昭和42年だと思いますが、その時代に都市が爆発的に成長するわけです。それが昭和45年でここまでいくわけです。人口はそれほど増えていないのですが、市街地域がガッと増えます。要するに都心から郊外へ出始めます。そして、郊外が車社会に適した環境を作り出していくことで、どんどん広がりを見せ始めます。このころが、日本が世界の中ナンバー2になるほど高度成長になってくる。日本が経済的に一番豊かな時期です。その豊かな時期にできた町が先程バスから見てきた町だということでもあります。
昭和55年、から昭和60年、こういうふうに都市は成長を見せています。このときに、こちらが西の花道で、こちらが南の花道、これが北の花道、こちらが東の花道という、その道沿いに都市が延びているのがわかるかと思います。
○その一例を南の方で見てみますと、これは昭和44年ですが、ずっとほとんど田畑です。場所は金沢の南の方の額、高尾地区というところです。金沢の場合、都市を郊外にどう発展させていったかという点に関しては、全国的に非常な有名な方法で進んでいます。
額・光が丘住宅団地というのがあるのですが、団地を作ってそこに小学校を作り、商店街を作り、公民館を作り、道路を作り、基盤整備したうえで郊外住宅地を作るという、そういう役割を果 たしました。すなわち、スプロール化をしない郊外発展を金沢は続けてきました。これが団地の建設の事業です。昭和44年です。
昭和50年になりますと、この団地が一段落して人が住んだころに区画整理事業が行われます。土地区画整理事業。ここが区画整理を行ない都市化していくのですが、この区画整理の内容に関してはほぼ全国同じかたちをとります。もちろん、団地の建設も全国同じ団地の建設方法をとりますし、区画整理も同じプロセスです。
昭和56年になりますと、その区画整理のところにもう住宅がザーッと入っています。その時期になりますと、今度はこの空いている農地。この部分ですね。こちらの部分を区画整理します。区画整理が入ることによって、やはり良好な宅地を供給します。こういう各段階を経て、都心から郊外へ人口が移動する。あるいは、他の市町、周辺市町村から金沢へ人口が流入してくるというので、その受け皿を作るわけです。
そして、昭和62年にはすでに。今の平成14年とほとんどわからなくなってきていますが、その中にできているこの道が今回南の花道と言っているものです。ですから、この環境自体の作り方としては「金沢論」といったものが入ってきていなくて、スプロール化ではなく比較的良好なかたちで進むのですが、手法というのでしょうか、法律的というのでしょうか、手段でしょうか、さまざまなプロセスによる団地建設と土地区画整理事業という2つの全国共通 の方式で進んできたということです。(SLIDE3-02)

歴史的情操性のある旧市街地、ここにはがほぼ450年間のストックがある。いわゆる「金沢論」を展開するところです。すなわち江戸もある、明治もある、大正もある、昭和もある、そして平成もあると。いろいろな時代の建築、あるいは環境、文化。先程、蓄音機の話が出ましたが、そういったもの。それから、いろいろあるお店、営み、工芸を含め、さまざまなものがストックされています。その歴史的重層性。それが金沢らしさという意味ではないかと思っています。
この中にも明治、大正、昭和の初期の建築がいっぱい入っています。環境が入っています。それらを調べてみますと、この町にある店を建てる、支店を建てるといったときに、やはりかなりきちんとしたかたちで建てていまして、それがほとんどこの戦後の中で保存運動を展開するかたちになってきています。それが過去の層です。(SLIDE3-03)

それに対してこの黄土色の部分、これがほとんど昭和35年以降に拡大した部分になります。この部分の層というのは膨大な現代層です。歴史的重層性ということから見ると、我々の時代、35〜40年間、積み重ねた層というふうに考えられるのではないかと思います。その層を考えるにあたり、全面 的に考えるわけにもいかないので、先程バスの中で言いましたように、草月の家元の勅使河原さんとの経験の中から「花道」というテーマを選びました。それが4本あります。今日アプローチしたその道です。先程お見せしたのは南の花道、この部分です。これは昔から旧北国街道沿いにできているのですが、北国街道から少しずれているのは、国道ができたときに少しずれたのです。
東山のこの辺は昔の町のストックがかなりまだ残っている部分です。こちらは新しいといいますか、それほど都市化していません。東の花道といいまして、福光へつながります。東海道北陸自動車道ができますと、そのインターチェンジから金沢が非常に近くなりますので、そのうちかなり大きな道路になると思います。西の花道は高速道路から来る、能登、富山から来る、加賀から来る、そういう導入路となります。これが今日、アプローチしてきた道です。少し暗いので見にくいかと思いますが。こういう状況だったと思います。実際は写 真より視線はもう少し包括的にものを見ていますので、もっと看板が多く感じたのではないかと思っています。それから、今の時期、かなり葉っぱが落ちていますので、これは葉っぱがついていますが、余計殺伐とした風景だったかもしれません。今、金沢はこの道に対して何かをしなければいけないということで、「美しい金沢を作ろう」というキャンペーンの中から、この交差点、これは神田交差点ですね。この交差点の看板をコントロールすることを今始めようとしています。


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