金沢創造都市会議開催委員会実行副委員長
社団法人金沢経済同友会理事
米沢 寛
   

(米沢) この大手門中通という名前、ネーミングは今ございません。これは説明するための仮称ということでご理解いただきたいと思います。それでは、今、金沢市の商工観光課から出ている金沢の「まちあるきマップ」というのをご覧いただきます。浅野川、犀川をはさみ、現状の観光ルートといいますと、兼六園、お城がありまして、近江町、武家屋敷。現在の観光客の皆さんは、この兼六園の巨大な駐車場でバスを降り、兼六園、金沢城を見て、そして駐車場からまたバスに乗って、長町の武家屋敷へ行く、それから先はたぶん近江町市場か、先程出ました東の茶屋街へバスで移動するという動きになっています。それが、先程出ました、風情が残っているという浅野川沿いの主計町、そしてそのそばには菓子文化会館、泉鏡花の記念館、そして最近できました蓄音器会館、そして尾張町通 り、先程、大内先生の表現されました一品ミニ美術館と称していますが、金沢では大変老舗の商店街です。
実はこうした観光の舞台としての金沢というのは、兼六園から浅野川まで歩いて15〜20分ぐらいなのです。そういう意味で、いつも私が思っていましたのは、せっかく年間200万人近い方に兼六園、金沢城まで来ていただいているので、そこからなんとか尾張町商店街を通 って、主計町、そして東の茶屋、さっきの梅の橋と、なんとかこの尾張町まで歩いていただけないかということです。 何が弱点かといいますと、正面の大手門から尾張町へ行く通りがあまりに何もないものですから、歩いてほんの10〜15分なのですが、どうしても歩いていただけません。そういう意味では金沢城の大手門といいますか、正門から尾張町の商店街まで歩いていただける方策として、この通 りの再生を皆さんで考えいただけないかと思っています。  そこで、尾張町の中町の通 りの歴史的背景を、尾張町商店街の専務理事であり、また石川県の郷土史学会の会員でもあり、先程のミニ美術館の仕掛け人でもあります石野さんから説明をさせていただきます。

(石野) ただいまご紹介いただきました尾張町の石野です。よろしくお願いいたします。 それでは中町通りと尾張町を結ぶ線といいますと、皆さんにこの地図を見ていただくのが一番手っ取り早いのかなと思います。
(SLIDE2-01)これが金沢城の大手門です。名前はいろいろな時代によってあったのですが、一番わかりやすいように今呼ばれている門の名前で通 していきたいと思います。次の地図(SLIDE2-02)では、ここが大手門になると思うのです。さらにその次の地図も出していただきまして、この界隈が大手門になると思います。金沢という町は前田家が江戸時代に戦略的に徳川家から自分の城下町を守るために、いろいろな方策を物理的に精神的なことを通 じて攻め寄せられにくいようにしています。例えば、物理的なまちづくりの中では袋小路というのでしょうか、普通 に進んでいくと、いつのまにか行き止まりになってしまうという道を数多く作って、敵方が攻め寄せて来たときに攻められないような複雑な町をつくっています。
今のまちづくりには若干問題が残っているのですが、そういう複雑な町の中で、なぜか、この大手門の中町通 り界隈だけは碁盤の目のようになっているのです。私たちは、なぜここが碁盤の目のようになっているのだろうか、私たちはここで生活をしながら、なぜ金沢のほかの町と違うようになっているのだろうと考えてみると、どうも金沢という町全体の成り立ちの中で、このまちづくりがあるのではないかと思います。
金沢というのは、今のNHKの大河ドラマでよく表わされているように、あまりにも前田家というものが、時代の中で大きくなりなりすぎて、江戸幕府の中では、加賀藩というのはちょっと危ない存在だということになった。江戸幕府を続けていくときに、何か事があったときに邪魔者になるということで、目の上のたんこぶとして見られていたがために、それを防ぐために、金沢という町はむしろ徳川家に目をつけられないようなまちづくりをやってきたと思います。武力だけにとどまらず広く日本全国に文化的な目を向けることになって、金沢に文化的なものをどんどん呼んできた。そして、その文化的なものを呼んでくるときに、金沢城の真ん前の所に、お殿様は最も信頼できる武士や最も信頼できる町人たちを集めて、ものの交流が非常にスムーズにいくようにしたのではないと思います。
ちなみに金沢城に門は約10個程ありました。いろいろな門があり、今その中で有名なのは石川門といって奥庭へ通 じる門です。それから今、私たちが言わんとしている大手門、この横に黒門というのもあります。あとまだいくつか門があるのですが、特にその中で、大手門というのはどういう役割を示してきたのかということを振り返ってみますと、大手門というのは公式の門として使われていたということです。大手門の坂の勾配は非常に急なのです。金沢城の中にある門の中で、大手門がもっとも坂の勾配が急な方に位 置して、そのすぐ横の黒門は坂の勾配が緩やかです。黒門の場合は商業の交流ルートとして出入りしていたので、坂が緩やかであった。それに対して大手門というのは公式な門であり、攻め寄せられたときに最も守りたい門であったために坂の勾配を急にした。
もちろん公式な門ですから、例えば、京都の天皇家の関連の人たちが来るとき、あるいは江戸幕府の徳川家の関連の方が来るとき、でなければ、お殿様自身が使うとき、というふうに非常に使い方が限定されていて、非常に大きな意味を持っていたものだといえます。そういうふうな門であったからこそ、尾張町は商売を繁栄させていくことができたのです。でも商売を繁栄させていくときには、この尾張町通 りと金沢城の中を交互に交流しなければいけない。その交互に交流する門という意味では、この中町通 りというのがもっとも適している通りであって、それが歴代ずっと続いていたと考えます。
ちなみに、安政期の宝暦9年、金沢に大火事があり、このまわり全体みんな燃えてしまうのです。それで、金沢のまちは1回作り直されるのですが、作り直しても、この大手門の前のこの界隈だけは全く前と同じようなまちづくりになっているのです。徳川家に目をつけられるから同じようにしたということもあるのでしょうが、機能的に、ここは前と全く同じにしないと、金沢の文化的なもの、経済的なものの交流動脈としては非常に不便だということで、あえて前と同じ事をしたということが我々は感じられるわけです
言ってみれば、中町通りというのは、武家の方たちの考え方、生き方、そして金沢のむしろ武力よりも文化とか経済を尊ぶ武家の方たちの考え方と、それを受け入れるこの町屋の、あるいは商家の人間との間の交流がさかんに行われるところであり、その交流のための掛け橋の場所であったのではなかろうか。江戸時代が終わり、やがて明治になりますと、今度はこのお城の中に軍隊が入ってきて、軍事効率とか経済効率がより優先されるのですが、この界隈で今まで培ってきた商業文化とか商人文化、町屋文化というものが、ここに豊富に蓄積されているので、軍隊の方たちとの交流のときに、この通 りは重要な意味を持ってまいりました。この両側にいろいろなお店がたくさん出て、金沢の一大経済動脈になっていた時期もあります。この町の界隈というのは、いろいろな業種の人がここに集まって、お城と、町屋あるいは商家の人たちとの交流の場所になっていたのです。
「藩政期 尾張町の職業構成」という資料を見ていただきますと、米仲買が13人、道具商が7人、これはたぶん今でいう美術商だと思いますが、それから銭屋さんが4人、旅人宿が3人いるとか、中にはいろいろ変わった口入れ屋さんもありますし、雨の多いところですから、合羽屋という商売もあります。ここの商売の種類というのが、これだけ豊富な職業の人たちが集まっている、歴史とともに歩んできたこの界隈は、金沢の中で大きな位 置を占めてくるのではないかと思います。
私たちの尾張町商店街にしろ中町通りにしろ、それなりに、派手ではありませんが、根深く残って商売や生活をしているということは、ここに住むための魅力があったのではなかろうかと思います。住むための魅力ということは、「畑を耕す」ということの意味とオーバーラップさせると、そこから生まれる心の豊かさというものが、この界隈にはあったのではないでしょうか。
いわばこの中町というのは、金沢の本当の真ん中の通りであって、心の交流をしてきたようなところではないかということを今、再認識して、今の時代に何か1つ提言をしていかなければいけないのではないかということを考えているわけです。

(米沢) 今ご説明ありましたとおり、江戸時代は前田藩、明治からは軍隊が入っておりまして、そのあとは金沢大学が入っておりました。その意味では、町の真ん中の空間ではありますが、金沢市民はそこに自由に出入りできなかったわけです。真ん中がそういう公式な場所として切断されておりましたが、今ここへ来て初めて一般 市民に開放され、初めて右から左、左から右へと行き来できるようになりました。やっと金沢城の中から尾張町界隈まで歩いて行けるようになっております。大内先生が、20年前ですか、「金沢はヒューマンスケールの町、歩いて回って初めて良さがわかる町だ」とおっしゃいましたが、まさしくそういう通 りにできればなと思っております。
今、これは尾張町商店街で出された地図なのですが、まさしく下から上の真っすぐの通 りが、今言っております中町通りです。現状はどうなっているかと申しますと、空き地が非常に多くなっておりまして、その一角の一番大きい場所、約500坪ぐらいありますが、そこにNHKの金沢支局があります。この金沢支局は、支局とすれば日本で5番目にできたといいますか、日本海側では初めて開設された支局ですが、今、移転の話が出ていまして、ここもぽっかり穴が開いてしまいます。そういう意味では、今、このへんの再開発で考えられるのは、すべてマンションにするしかないかということで、マンション群が立ち並ぶと、こういう話はなくなりますので、今こそ皆さんの英知をいただいて、この中町通 りを歴史的背景も含めて、どんなふうに再生すればいいかということをお願いしたいと思っています。
また、この門からは参勤交代が約190回出ておりますが、この門から参勤交代が出発していまして、190回のうち、10回は東海道回り、米原回りで行っておりますが、ほとんどはこの門から出まして富山へ行って、そして山越えをして江戸まで行っています。
そこでお手元にもう1枚提案書を読み上げます。「藩政時代には金沢城から江戸への参勤交代は大手門から中町通 りが出発点とされた。同時に江戸の文化、百工比照等の工芸技術、流行が金沢に持ち帰られたのも中町通 り。京や江戸の文化はいったんは城に入り、武士の間に広められると、城下に広められていった。その最先端にあったのが、この通 りだった」。要するに、武士文化と町屋文化のろ過作用といいますか、フィルターがこの通 りでかかっていたのではないかと考えました。この通りの考え方として、さまざまな空気の入り交じった町、金沢城下で唯一、都市計画、インフラ整備のされた整然とした町、スピードのある町、時代の風を十分に受けた、表現をした通 りではなかったかと思っておりますし、通りに蓄積された文化的資産が高い、もう1つ、城の周辺で唯一未整備な町、いろいろな町屋の再開発が起こっておりますが、ここはそのままになっております。
キーワードとして、「わくわく」「夢」というのを掲げてみました。  もう1つはこの近辺に、金沢の、明治時代は4番目の人口を持っていた町ですが、今は本当に後れましたが、古美術の世界ではまだ5都に入っていまして、このまわりに金沢では大変有名な古美術商の皆さんが、たくさんお店を持たれております。もしその方たちに、この通 りに先程言いました一品美術館のようにショーウィンドウを並べていただくと、それを点にして、まわりを何か新しいものでつなげないかということも、ここにいます地元の皆さんで話し合ってみました。どうか皆さんにすばらしいアイデアをいただければと思っております。以上です。ありがとうございました。

(長谷川) 歴史博物館の長谷川です。今の通称、中町通りですが、非常に難しい場所なのです。絵図を見てみましても、例えばNHKのところというのは、松平大弐の4000石の屋敷ですし、その手前の医師会館のところは津田玄蕃の1万石の屋敷です。反対側の一角全部、今のKKR金沢を含めて、NHK交差点を左折しまして、NTTの、郵政局の交差点、それから西町口御門まで、この一角全部は前田対馬守家1万8000石の屋敷です。それから向こう側へ行きますと、奥野家2700石とか、そういういわゆる上級武士ばかりなので、当時は別 名、殿町といわれたのです。
殿町といわれるぐらいですので、当時のイメージとするとあの町は塀しかないわけです。何もない。ただの塀だけです。そして屋敷位 置のところに、当時の絵図というのは名前を上から書いたら、そちらが門ですから、そうすると、大手掘に門がついている。だから横は塀しかない。後ろの十間町の通 りのところにおそらく裏口などがあったでしょう。反対側の奥野家などは、やはり、こちらから頭を書いてあるから、やはりそれも大きな門が若干ある程度、そういうイメージがわくわけです。ですから、そういう江戸時代というものは完全に排除しないと、再生というのは非常に難しいだろうなということをまず感じました。それからもう1つは整然とされた町ということですが、大手町というのは、どこの城下町も必ず碁盤の目になっているわけでして、これはあたりまえの話なのです。では金沢は、そこだけがそうなのかというと、そうではなくて、例えば、長町を見ればわかりますが、長町は今、途中でこのように曲がっているのが横に入っているからなのですが、昔の絵図を見ると、一番町から六番町まで全部真っすぐです。横にも1本、ずっと入っています。ですから、必ずしも全部がごちゃごちゃになっているのではなくて、武家町のところは全部碁盤の目のようになっていて、あと組屋敷が入っているところも碁盤の目がきれいに入っています。これは、やはり利常のときの、寛永の8年と12年の大火以降、防災都市としての都市計画がきちんとされていて、そして用水と緑地帯というのが必ず入っているというまちづくりをしていますので、ここだけがまちづくりのインフラ整備をしたというのは、歴史的には問題があろうかと考えます。
確かに今は、ビルと何かで殺風景なのは否めないので、何かいい方法があれば、またそういうものをつくるというのも手かもしれない。ですからNHKが、今、新聞では、県庁跡地にというお話もあるようですが、ああいう大きい空間、ほかにも駐車場で歯抜けになっています。そういったところは逆にそういう壁というか塀を作ったり、門の中でそういう施設をつくるというのも考え方としては非常にいいのではないか。観光客の方は石川門が正面 だと思っている方が多いようですが、そうではなくて本当は大手門が正面で、あそこの両方の石垣にも、大きな櫓がきちんと乗っていたわけですから、石川門よりもう一つ大きな櫓がおそらくあったであろうと想像すれば、そういう門を、再興して正面 通りを生かすというのも1つの方法かもしれないと考えます。以上です。

(大内) 先程、たくさんの職業の方があそこにおられたということもありましたし、武士のお屋敷があったということもあるのですが、お宝をもう少し見せていただきたい。市民の目線から言いますと、せっかく記憶に学ぶということですが、歴史的な博物館や美術館でそういうものを学ぶということがほとんどでした。この町のポテンシャルというのは、それが必要ないと言っているわけではありません、そこでは非常に適切な解説がされていますし、質問をしたりできますが、もう少し町のそこそこにいろいろなものがある。
例えば、現実に工芸品等つくる姿、いろいろなものを作っている姿をちょっと覗き見ることができるという、そういう仕掛けが必要であると思うのです。皆さん、世界のいろいろな観光地も行かれていると思いますが、例えば、バイオリンなどを作っているような工房などでも、中にはちょっと外から垣間見ることができるようなディスプレイをしているケースもあります。ですから全部を見せろというわけではなく、そういうさまざまなご職業の方を、ちょっと垣間見ることができるような、そういう仕掛けをこの尾張町一帯でおやりになると、たぶん、「あ、なるほど、この町にはこんなものがあって、そしてそこから何か学ぶことができる」ということになるのではないかと私は思うのです。
ですからもちろん昔の町の風景を戻すということも1つの考え方かもしれませんが、同時にちょっと覗き見ができるというと、ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、ぶらっと立ち寄ったろところで何かすごいものを発見をしたという、そういう楽しみみたいなものが、町を歩くということの散策の中に加わるということは、すごく大きい魅力を、もう一度金沢の中で演出することになるのではないかと考えております。

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