金沢学会議長
国際日本文化研究センター
■川勝平太


 金沢学会の創設まことにおめでとうございます。これは新しい実践学の出現を意味するものです。隔年で、金沢創造都市会議とこの金沢学会が開催されることになり、両方とも「実践」と「理論」を含んでいますが、創造都市会議の方がより実践に即し、この金沢学会の方はフィールドワークを基調にしながらも、より学問的な香りのあるものになるという分業関係が進んでいくのではないかと期待しています。  金沢学は新しい実践の学であると申し上げましたが、それは今から130年前、明治5年の学制で正式に採用された洋学という実践学に対して、それとは異なる新しい実践の学であるという意味です。そもそも日本は近世、江戸時代に朱子学、儒学、陽明学を基調にしながら国学を発展させました。そして明治維新、王政復古で近代日本建設のためにどのような学問を国民に提供するかという課題に直面 した折に、一つには国学を、一つには漢学をという議論がありました。明治4年、10日余り文部大臣の職責にありました佐賀出身の江藤新平は国学も漢学もその素養は非常に深いものがありましたが、「洋学の丸写 しをもって施行するべきものなり」と言いまして、漢学派、国学派を全面的に退け、洋学を日本の学問方針とし、そのためにお雇い外国人を高額で招き、なるべく早くお引取り願って、日本語でそれを翻訳し日本語で大学・中学・小学の青年たちに教えていくという大方針を立てました。明治5年の正月からは、それを支援するかたちで福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書きはじめました。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という名文句で始まる文章をしばらく読んでいきますと、一国の独立の基礎は一人一人の独立にありと、一人一人の独立は学問によらねばならぬ と彼は述べております。しからばその学問とは何ぞや。当時における漢学者、国学者を見てください。自分の子どもが漢学や国学に興味をもって、歌を詠んだり論語の道学をするということになると、世過ぎはへたであるから親御さんは嘆き悲しむではないか。そういう中にあってこれから必要なのは理財学(今日いう経済学)、法学、医学、工学、こうした新しい実学であると福沢は説きました。福沢にとっての学問というのはまさに実践の学問としての洋学でありました。その洋学の生まれた土地は西洋。17世紀までにルネッサンスをほぼ終え、新しい近代科学、哲学、社会科学、人文科学が生まれ、これを丸ごと日本は輸入するということになったのです。
 そのような洋学によって打ち立てられていた欧米列強のたたずまいはどういうものであったのかということは、明治4年〜6年にかけてアメリカ、イギリス、フランスのほかヨーロッパ各国を回った岩倉全権使節の記録に鮮やかです。その中で、当時の覇権国イギリスにおきまして、富国強兵の実態を垣間見るわけであります。すなわち、洋学の知の大系というものは、富国強兵という国のたたずまいを作り上げるためのものであるということを認識したのです。  日本においてそれを実践するということになりますと、日本のたたずまいをどうするか。軍事力を強化し、経済力を上げるということになります。その拠点がどこであったのかといいますと東京です。先程紹介されたガルブレイス氏の洞察にありましたように、富国強兵というものは計量 できるものです。すなわち、戦前においては富国強兵のうち強兵に力点がありました。軍艦の数であります。イギリス、アメリカそして日本、フランス等が軍艦の数を競う。ワシントン会議でイギリス、アメリカが5、日本は3というふうに国力を軍事力で測ったわけであります。戦後はいかがかといいますと、GDP、GNPで測りました。このように計量 可能なものが富国強兵の実態をなしていたのであります。いわばこれは力の文明というたたずまいを作り上げるものであった。その景観の代表が東京です。
 さて、我々の金沢学会は何を目指すか。美しい金沢を目指すという気運が澎湃(ほうはい)として興ってきています。学者、メディア、経済界そして行政、さらに住民が一丸になって、金沢学会また金沢創造都市会議が立ち上がりました。あたかも金沢の地がその価値である美を自ら涌き出すかのごとく人々の声を通 して出てきた。それが「美しい金沢」という言葉です。決して「力強い金沢」とか、あるいは「強大な金沢」というものではありませんでした。「強い東京」に対して「美しい金沢」という、そのような対比ができるのではないかと思うのであります。私はここに新しい価値に立脚した学問が如実に表れていると思うのであります。 金沢学はしかし、金沢に閉じられているものであろうか。金沢の文化を語ることはきわめて大切であります。しかし金沢の美しさは、例えば兼六園。これは天下の名勝、3大庭園の一つといわれていますように、岡山の後楽園、水戸の偕楽園、そして金沢の兼六園でございますが、これは金沢の人々のためだけのものではない。日本の財産であり、世界の財産になる。世界の遺産になりうるものだと存じます。このたび修復・再興になった五十間長屋と菱櫓、また現在残っています野面 積はそれ自体が貴重な目に見える文化遺産であります。さらにまた、兼六園の水、お堀の水が可能になった辰巳用水、板屋兵四郎の技術は近世金沢の土木技術、実践としての学問がいかに高かったかを示すものです。また、江戸時代のたたずまいを残しております主計町や東茶屋街、西茶屋街は、江戸時代の生活景観を味わえる空間であります。さらに、香林坊あるいは木倉町は、日本が近代都市を築く中で作り上げてきた庶民の歓楽街、憩いの場であります。こうしたものを皆持っているところはほかにありません。これらは決して金沢だけのためのものではあるまいと思うのです。これらの生きた近世の遺産をどのように活かしていくかということが課題です。我々はもはや東京に対抗するということにとどまらず、いわば日本海側全部さらには東アジア、東洋、西洋との対比におけるその位 置づけ、つまり地球社会におけるこの地域の位置づけと発信とを、金沢学は目指さなければならないのではないかと思うのです。  その拠って立つ価値が何かというと、引き付ける力。すなわち、押しつける力としての経済力や軍事力とは違う、引き付ける力としての価値、すなわち美であると考えられるわけであります。美を価値にすえることから我々はこの金沢を新しい地域興し、また新しい国づくりの起点にしていく。ちょうど学制施行130年の記念の年に金沢学という地域学が勃興したということは、洋学の受容がほぼ終わった、あるいは洋学は土着化したことを示していると思います。
 洋学の土着化の指標としては、全国に金沢大学のほか1200の大学があります。そしてその大学の先生方は私も含めて大半が日本人です。そして学生もその大半が日本人です。そこで使われている言語は日本語です。ただし教えている内容は、単に日本のことのみならず西洋、アジア、そして文学、自然科学、すなわち百般 にわたっている。洋学におけるすべての科目が日本人によって日本の青年に日本語によって教えられているということです。お雇い外国人からの学習で始まった明治の洋学受容の時代からみますと隔世の感があります。このような意味において、我々は洋学を土着化し終わったということです。  明治以来百三十年の洋学の土着化ということを踏まえて新しい学問を興す、そういうものとしての金沢学であると思うわけです。これは従来の郷土学と同じであってはなりません。排他的なお国自慢であってはならぬ と思うのであります。地球社会を視野に入れたものでなければならない。新井白石が尊経閣文庫に接した折の「加州(加賀)は天下の書府なり」という言葉は、学問の普遍性を喝破(かっぱ)してあまりあるものがあります。「天下の道は金沢に通 ずる」ものとして天下の書府であるということです。天下に学問を発する発信の地として天下の書府であるという意味であります。「すべての道はローマに通 ず」という言葉がありますごとく、「すべての道は金沢に通ずる」という志を持つべき時期に来ている。 我々がいかなるものを持っているかということについて、すなわちこの土地の記憶に学ぶということを徹底しなければならないということになります。  この学ぶということは同時に、金沢を学び直すということであります。そしてそれを体系化していく、つまり学問にしていく。人に説明ができる、また批判にも耐えうる学問にしていかねばなりません。かつてイギリスにおいて経済学の父といわれるアダム・スミスが『国富論』を書いた。これはイングランド、スコットランドという地域を興すために、これまでのように安く買って高く売るという重商主義であってはだめだ。労働の過程をいくつかの過程に分割していくディビション・オブ・レイバー、すなわち分業して生産力をあげなければならんということを諄諄(じゅんじゅん)と『国富論』において説いたわけです。これを実行してイギリスは産業革命を起こし、その産業革命は人類史に新しい近代工業文明をもたらし、これが他の地域の人々を触発して、他の地域もまたイギリスのようにならんとアダム・スミスを学ぶというふうにして、当時としてはモラル・フィロソフィーであったアダム・スミスの国富論が、経済学(エコノミックス)として体系化されていったわけです。
 このように一つの地域学がやがて普遍学になる。それを日本もまた採り入れ、経済学はどこの大学でも教えられる科目になった。その淵源(えんげん)は決して初めから経済学であったのではない、実践の学問としての地域学であったということに思いをいたすべきです。そのような意味において我々は地域学としての金沢学をおこすのであります。非西洋圏において唯一、政治的独立を堅持して経済的発展に成功をした、この日本におきましてはこれを達成した今、新しい国づくりをどうするか、その課題に応えるものでなければならない。それが金沢学であると思います。  したがって、ローカルな学問ではありえない。グローバルな視野を持つ、ローカルに動く。よくシンク・グローバリー、アクト・ローカリーといわれますが、“Think globally. Also think locally. Act globally and act locally.”というものでなければなりません。グローバルとローカルとを両立させる、地球の中での金沢を考える学問でなければならないと思うのであります。グローバルとローカルとを合わせた「glocal(グローカル)」という言葉が最近使われるようになっています。実際、英英辞典、イギリスで出ております『イングリッシュ・ディクショナリー』にも「グローカル」という言葉が使われるようになりました。そういう観点から言いますと金沢学は、私の造語ではございますけれども「グローカロジー」でなければなりません。学問でいえばグローカロジーとしての金沢学でなければならないと思うわけです。グローカロジーは日本語に訳せばどうなりますか、文字通 りでいえば「地球地域学」ということになると思いますが、ともあれ金沢という地についた学問でなければならないと思うのです。これは単に文化にとどまるものではありません。お隣の松任市にも、小松市にも、そして輪島にもどこにも文化がある。しかしこの文化が世界、地球社会を引き付けるということになりますと、これがあたかもローマの文化が四通 八達した幹線道路を通じて、イギリスやゲルマニアの南にまで、また東は小アジアにまで広がりましたように、文化学というよりは、むしろ、ローマの文化が各地域に広まることによって人々はそれをローマ文明といいました。したがって、これは金沢文明学を目指すものであっていいと思うのです。  西洋の文化に日本はあこがれ、文明として東京に入れ込みました。それは近代文明といわれます。その近代文明を支えた洋学とは異なる、新しい実践学です。それは単に金沢の文化の掘り起こしにとどまるものではなくて、金沢の文化を文明といわれるような、つまり日本発の新しい文明といわれるような地域学として構想するのがふさわしいと思うのです。金沢以外の地域との関係が大切だとなりますと道は四通 八達していなければなりません。しかし、金沢においてはどうでしょうか。とりあえず今回は花の道4つを考えることは不可欠であります。ローマはあの時代に15万キロの幹線支線道路を造りました。10メートル道路の幹線道路だけでもこれは8万キロあったと、塩野七生さんが最近の『ローマの道は世界に通 ず』という本の中で明らかにされております。8万キロというと地球2周分であります。ローマはそのような道のネットワークを造った。それが金沢には高速道路が1本、まだ新幹線も来ていない。本来ならば、金沢から富山へ、京都へ東京へというネットワーク化の発想がなければならないと思うわけです。  そうしたものとして、尊経閣文庫も一つ。そして目に見える庭園、お城、茶屋街、こうしたものを組み合わせていかなくてはならない。しかし興味深いことに、これらの資産は大体江戸時代のものであります。これはどういう意味を持っているかということについて少し考えた方がいいと思いますが、総合的には江戸の文化というのは日本の歴史の中におきましては、中国の文明から自立をした時代の文化であるということができます。  簡単におさらいをいたしますと、日本が中国と戦争をしまして負けた白村江の戦のあと、倭(やまと)という国がなくなり、日本という国号を持った新しい国づくりをし、律令制を入れ、そして天皇という位 を定め、『日本書紀』という正史を編み、まさに長安の都を模して京都を作りました。そして鎌倉に首都機能を移しましたときには、中国の南の文化すなわち五山の文化を入れました。五山というのは禅宗の寺院であります。五山をもって官寺としたのは南宋の時代に定められた制度です。すなわち、中国の南の文化を鎌倉は入れたのであります。これを後醍醐天皇が建武の新政の折に京都に五山を作ると宣(のたま)われて、それを室町幕府が引き継いだのです。すなわち、中国における長安という北の文化の上に、中国における南の文化、南宋において発達した南の文化を融合したのが室町時代の京都でした。室町時代に日本は中国の北の文化と南の文化を融合したということです。実際、室町期にあちらこちらに小京都が作られました。京都は金沢と同様に古都といわれますが、京都の本質は中国文明の受容であります。室町時代に中国の文明を全部入れたのであります。中国の模倣であります。その最も端的な例はお金であります。日本の国内で使われていたのは明銭でした。日本の通 貨がもし今ドルを使っていれば、独立国とはいえません。室町時代は税金も含めて明銭、永楽銭をもって納めていた。「永高」という言葉も残っています。その代表が室町時代の京都であった。では江戸時代はどうか。江戸の都は模倣のモデルがありません。日本独自の都市を江戸においてつくり、全国的に一国一城として作った。もちろん南蛮文化の影響もあります。平城は鉄砲を抜きにして考えられません。そうしたものとして、中国文明から自立した江戸に匹敵する地域として今に残る美しい都市はどこかとなりますと、それが金沢です。京都と金沢は美しいから爆撃に遭わなかったと言っていいと思います。京都は中国文明の成果 を今に活かしている世界遺産的な意味を持つ都市です。中国の文明は、ほぼ、長安も含めてみな遺跡でありますが、日本はそれを今に活かしているということです。中国文明から自立した江戸時代の文化の粋を集めているのはどこかというと、それが金沢である。金沢は中国文明を消化しきったうえで出来た東洋一の文明の粋を持っているという意味において、文明史的な重要な存在だということです。  東京はご承知のように江戸の遺産を食いつぶし破壊いたしまして江戸城しか残っていない。金沢の重要な文化は何か。「奥」をもっていることです。東茶屋なんかに入ってきますと、あるいは料亭に入りますと、ずっと端っこに行くことを奥に入って行くといいます。ここには奥があるのです。東京には中心があって周辺があります。表があって裏があります。金沢には奥があるのです。奥の反対語は何でしょうか。ありません。奥は裏でしょうか。奥座敷というのがあります。奥はパブリックな空間でもあります。決して裏ではないのです。金沢にはそのような奥行のある空間があります。これは英語に訳すことはできません。金沢には奥深さがある。奥をもつことが日本独自のまちづくりの基礎になると思います。東京が今その役割を終えたというときに、いわば弁証法的にいうならば正として江戸時代、反としての、つまり江戸時代をトータルに批判して作り上げられたものが近代東京、力の文明であった。この近代の技術を媒介にしながら新しい、つまり洋学を自家薬篭中のものにして土着化した、これを媒介にしながら正→反→合の時代に入った。そのように近代をアウフヘーベンする役割を金沢学は持っているということです。  金沢学が目指すべきもの、これは「天下の道は金沢に通ずる」という志を立てること。そして力の文明に対して美の文明を創造することである。かつて天下の書府といわれたように、新しいグローカロジーとしての金沢学を地球社会に向けて発信していこう。すでにその準備を我々はこの金沢の町において見ることができます。「ジャパン・テント」です。すでに十数余年、毎年100か国に近い世界の学生が来まして、金沢を学ぶことによって日本を学んでいるということを、我々は歴史的事実として誇りに思っていいと思います。そのような中で我々は新しい金沢学を興していく。まことに慶賀の至りであります。  これが発展することは単に金沢のみならず日本のために、おそらくは近代文明を克服するという意味におきましては、世界のためにも重要であるという志を持とうではありませんか。とりあえずのご挨拶といたします。ご清聴ありがとうございました。

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