■パネリスト     ■モデレーター
●市村次夫 ●川勝平太 ●小林忠雄 ●大内 浩
●川勝 今、金沢駅それ自体がコンサートホールで、日々新たなと言うか、来るごとに活性化しているので、一種の息吹を感じます。それだけに金沢駅の西側、海岸の方に降りると、50メートル道路の真ん中に並木道があって、どうなるのかと思います。突き当たりにある港は、どういうふうに造られるのか。知識なしに見ると、県庁が移ってきます。また、今日米沢さんから若干ご紹介がありましたが、セントラルパークを作るなど、いわば昔ながらの型にはまったような新しい中心街の形成という動きが出ています。
  一方、それを知らないで見ると、地場センターの前に食堂ができて、これはやがて移ってくる県庁の人たちを当て込んでいるのだろう、また家具センターは新興住宅街に家具を供給するためにできたんだろう、ということはすぐにわかります。また幾つかの集合住宅があり、立派な一戸住宅があります。おそらく一戸住宅はこの土地を売った方がそのお金でお建てになったのでしょう。集合住宅はそこで今まで田畑で収入を得ていた人が、地代ないしは家賃で収入を得るために建てられているように見えます。
 そうすると、ここで一体何が作られているんだろうと疑われます。金沢というこれほどのパワー、伝統、場の力を持ったまちが何をしているのだろう。ここ数年間ジャパンテントという留学生大学として日本国内でもよく知られていて、日本全国から応募があって300人、400人の留学生が1週間ここで過ごしています。金沢はその間、まち博ということで、生活それ自体を彼らに見せ、彼らはそれをエンジョイし、日本が好きになって帰っていきます。そういうことをされていることが、このニュータウンではよく見えない、聞こえてこないというのが、私の懸念であればよいのですが。 金沢は、金沢大学を山間地の方に持って行って青年を外に追い出しました。これもまた東京の幾つもの大学が、八王子や田園調布など里山地域に移して、それが今失敗だったということがわかっています。通 常、学生にとってよい環境とは、緑が多いところだと思っていました。ところがそこでは、学生が行くところは教室か食堂しかないのです。これほど退屈なところはなく、やはり学生にとって大事な環境は都市であったということで、その都市に出るので夜はがらんどうです。自然しかありません。深閑とした闇の中で、サークルもやっていられないのでみんな帰ります。先生も帰ります。いわば夜は幽霊タウンになっているということです。街は街で相変わらず学生がやってきます。そうするとやはり都会に若者がいた方がよいのです。街にとってのよき環境というのは若者です。街の若者を追い出したということを金沢でもやっています。その悪例は、すでに大阪ですべての大学を都心から郊外に移したら、うるおいがなくなって、「もうかりまっか」というのはそれまでは単なる挨拶だったのが、本当にそういう話しかできなくなり、いわば街の中に無駄 がなくなったということです。一方でちぐはぐながら、外国の青年たちに金沢を見せようとする、素晴らしい試みが十数年間続いています。これは私は活字にまでして応援しているほどです。そういうことだけに、ニュータウンというかここにおける取組を聞きたいと思います。それをお聞きして元気づけられて安心して帰りたいと思っています。
 京都は駅ができました。その駅ができたときは、ものすごく不評だったのはご存じでしょう。800メートルの壁ができて京都を分断しました。京都的なものがあの駅の中には全くありません。京都の場合、西と東ではなく、北側にオールドタウンが広がっていますが、できた結果 、北がオールドタウンとしての固有性を持たざるをえなくなり、逆に壁の南側はニュータウンで何でもできるというのができたのです。けれど、最初から計画してできたものでなく、あとからの思いつき、アフターフォードですから、向こうもキッチリと軌道に乗っているとは思わないし、稲盛和夫さんのような優れた企業家自身が言われているだけで、地域の住民の本当の意志というものがあるかどうかはわかりません。  さて、金沢はどうか。私は、まさに金沢の創造性がニュータウンで試されていると思います。旧タウンの方は米沢さんが言われました。バスやまち博などそれなりですが、ニュータウンが日本の各地で行われているような乱開発に近いようなものになったら、「金沢よおまえもか」ということになりかねないという若干の懸念を持っています。

●大内 大変重要で、あとで皆さんの側からも反論をいただいても結構です。大きく言うと、400年前にできた旧市街と、それに対して今作りつつある西地区のニュータウンというのが、両者が緊張感を持つことによってプラスの効果 を持たすことができるのかどうか。逆に言うとすると、お互いにマイナスになる可能性があるというテーマではないかと思います。重要なテーマですので、あとでぜひもう少し我々同士で議論したいと思います。小林先生何か補足はありませんか。

●小林 先程、江戸の文化年間のサロンと言いますか、長谷川サロンの話をしたのですが、ちょっと足りなかった点があります。先程も言いましたように、状況は、加賀藩という大藩が硬直化を起こしてどうしようもなくなってきたときに、本多利明というのを受け入れることによって一気に変わっていったということです。ただ、本多利明はあのときに半年間しか加賀にいませんでした。途中で逃げ出してしまいます。加賀には8人の家老がいたといわれていますが、これらが勢力争いをしていて、どちらかの側に付いた付かないということで、結局、藩が真っ二つに割れていくような状況が一方にあるわけです。それに利明は嫌気がさしていきます。若手藩士もそれに巻き込まれていくという状況に対して逃げ出したといわれています。そのわずか半年間で、一方ではもちろん改革ののろしを上げていく若手藩士、同時に西洋蘭学を含めた新しい技術、知識をどんどん入れていこうとします。文化年間のこの時期は、そういう意味では他の小さい藩に比べると全国的にも早く、新しい気風への取り組みが加賀で行われていたことに注目されます。ではその後どうなっていくのかという金沢があります。もちろん明治になって金融都市、四高を含めた学園都市、あるいは九師団の軍隊都市といった性格を持ち、まさに近代をそこで作っていくようなところがあります。
 もう1つ、文化6年の時代の長谷川猷(源右エ門)という人物が盛んに考えていた藩経済の殖産事業を、孫である長谷川準也が見事に受け継いでいます。準也は2代目の金沢市長です。結局、廃藩置県で藩が解体しますが、武士とその家族を入れると約5万人という人口を抱えていたわけで、これが全部職を失ったわけですから大変な問題です。これを何とかしようということで、結局、長谷川猷の孫である準也が藩の婦女子を対象にした殖産会社を作りました。
 まず作ったのは金沢製糸場です。富岡製糸というのがありますが、歴史的に調べてみると大変おもしろいのです。富岡製糸は明治5年に群馬県に作られていますが、それを指揮したのが加賀藩藩士の円中孫平の息子(文助)です。彼は工部省の役人としてフランスのリヨンに行き、紡績の技術、システムを持ってきて、群馬県富岡に作っています。
 明治4年ころ、長谷川サロンの影響を受けたと考えられる津田吉之助という宮大工は、どうもからくり師の大野弁吉らと接触があり、からくり技術を得ます。円中孫平の息子は工部省の役人で一生懸命製糸場を作っている最中ですから、すぐにそのつてで吉之助は富岡へ見に行くのです。そして彼はその場で図面 を書いて持ち帰り、翌々年の明治7年に富岡と全く同じシステムのものを作ってしまうのです。 この素早さは大変驚異的で、それは加賀の文化6年以降、本多利明以降の蘭学を含めた先端的な知識を加賀の土壌の中にすでに作っていた結果 だろうと考えます。吉之助の息子は津田米次郎という人で、ご承知のようにツダコマの前身であるツダヨネで、絹の自動織機を作りますが、これが明治20年代に開発をしていました。お金がなかったので、当時京都の浄土真宗の本願寺の宗務総長をやっていた石川舜台に頼んで本願寺から金をもらってきて、研究費を確保してから一生懸命やるわけです。
 当時、愛知県には豊田佐吉がいて、佐吉は木綿の力織機を作りました。2人は同時並行的に、片一方は木綿、片一方は絹ということで、私はたぶん絹の方が技術的には難しかったと思うのですが、同時に作りました。彼らはお互い知っていて手紙を交換しています。ツダヨネさんのところへ行くと、豊田佐吉からの「おれは愛知で木綿の力織機を頑張って作っているから、あなたは絹のやつで頑張ってくれ」という手紙が残っています。当時としても技術的な情報についてもすでにお互いに交流しているわけですが、それも、背景に文化6年の利明以降によって影響を受けた加賀の金沢の土壌といいましょうか。特に先端技術などにいち早く目を向けていく場があったということです。 その後、石川県や福井県の北陸が、絹織物の産地になっていきます。当時、幕府は日本の売れるものというと銅と生糸しかないということで、この産業にものすごく力を入れていました。ご承知かもしれませんが、平賀源内という人は本来、山師でした。山師には幕府が唯一日本全国自由に歩ける交通 手形を出しました。彼ら山師は日本中を歩いて回るわけで、源内も鉱山技術やエレキテルといった先端技術を持ち日本全国を自由に行き来します。例えば、石川県では、大野の弁吉もからくり師ですが、いろいろ調べると彼は鉱山に関係し、あちこちの鉱山の仕事を請け負ったりしています。それも源内と同じで、山師の自由往来手形を持っていて、その自由性が彼らに与えられていることとも関係しているように思うのです。
 特に金沢の中にはそういう風潮があって、しかもそれがサロン的な要素、日常的サロンの中から生まれています。この土壌は決して金沢では失なわれていないわけで、もっと生かせばいいと思います。それは川勝先生がおっしゃったように、本来、都心、中心部の中であったわけです。それは時代によって変わっていって、ついには軍隊が中心になる、あるいは四高の教授連中が中心になったこともあったかもしれません。その前にあった時代のもっとすごいパワー、迫力といったものが、サロンの中から生まれているから、今は何か弱い感じです。私としてはイベント性のあるこういう会議もいいのですが、それではこうしたパワーはたぶん出てこないだろうと思います。もちろん青年会議所というのもあって、そこでもあるのでしょうが、これも会議的臭いがあり、時間を制約し、特定の人だけが集まって云々というもので、そんな次元ではないのではないでしょうか。自由サロンというのでしょうか、そういうものは幾つもあっていいと思うのですが、せっかく都心が空洞化していくのなら、そこにもう一度時代を見据え、しかも新しい今のIT革命ではないですが、そういったものでもかまわないと思いますが、要するに地元をきちっと見据えて、そこで一体何が可能なのかということを本当に議論していくような場というか、日常的場、そういうサロンがあっていいのかなというのが先ほどの提言の意味でした。

●大内 今のお話は、今風に言うと異業種交流がものがすごい迫力で行われて来ていたというお話ではないかと思います。サロンというと、何となくお遊び風に聞こえるかもしれませんが、ひょっとすると技術を盗むためのすごい、お互いに相手から盗む、場合によっては当然隠すところもあるのわけですから。それと同時に、昔、特に明治のころは勧業博覧会といったものも全国で行われていましたから、そういうものを契機にお互いに技術が伝搬していったというのが日本の歴史の中にあるわけです。
 例えば先程の川勝先生の話とつなげていくと、都市を設計したり運営したり、都市のソフトを選んだりとか、あるいは都市のハードウェアに対して、今のお話の技術の分野におけるサロンというのは、そこまで迫力のあるものを果 たして我々は何か戦わせたり、情報の交換をしたりということを本当にやっているのかどうかということを疑問に思うようなことさえ、今のお二方のお話から伺いました。またぜひ戻ってきたいと思います。市村さんどうぞ。

●市村 私はしばらく金沢に来ていなかったのですが、先程川勝先生がおっしゃったように西側に県庁を作って移転する、駅の西側を県が、東側(オールドタウン)は金沢市がやると伺いました。川勝先生は遠慮気味に言っていますが、私は魅力ないものを作っているなというのが正直なところです。またこれか、道は真っ直ぐだし、地形的にもおもしろくないしという感じです。
 しかし、1つだけああそうかと思ったのは、都市というのは、在と町で分けた場合、在が金を出して木戸銭を払う方ということで言えば、裏というのは日本全国から木戸銭をもらおうというニュータウンではないんだ、石川県下なんだと割り切ってしまえばいいのかなと悲しいながら思っているのです。それだけにこっちは放っておいて、オールドタウンは全国、あるいは一部外国の人も木戸銭を払うところですから磨きをかけていく。金沢市としての力を表のオールドタウンの方へ集中して凝縮させた方がいいのかなと思いました。
 一昨年、宮脇檀さんが死んでしまってこれは困ったなと思いました。日本で唯一と言ってもいいと思いますが、都市とは何だと言ったら、そこに住んでいて歩いてせいぜい3〜5分以内に全部用が足せなければいけません。そして自分の家を自己完結型の生活をしようとするのは都市ではない、農村だというのは非常に重要な指摘です。その観点でいけば、江戸時代は江戸は都市だったのです。風呂から始まって、長屋などは嫁さんが5人に1人くらいしかいないから、嫁さんは大事にされて料理なんて作らないし、外食ですますというのが江戸時代の生活です。家庭生活というのもものすごく外部機能に依存します。ですから住んでいる人間がおんぶした機能が、実は都市の外に対する魅力というか都市機能になっています。個人で言えば不完全な生活をします。それが戦後は風呂は家へ持ってくる、応接間は東京都内でも作ってしまおうとする。応接間というのはフランスでいえばカフェです。さらにいけないのは、日照権などという都市では考えられないような概念を美濃部さんの時代に認知してしまったことです。これが東京の競争力弱体化の最たるものです。 先程、挑戦的な竹村さんのお話がありました。私も全くそうだなと思うのは、例えば、健康という概念といった、要するに概念を変えろ、そして自分が家元になっていけ、これが都というもんぞと。こういうことでいえば、本当に概念を変えていくことは大事だと思います。そういう意味で、金沢の表の方も、都市生活って何なんだと。金沢の格子から見る薄暗い中から、非常にありがたい中庭の緑が美しいとか、こういうのを徹底的にもう一度生活の中で生かしていく。そういう競争力というのがあるのではないかと思います。
●大内 古いタイプの市街、路地があったり長屋であったり、ある種の生活の全てが完結してきた生活空間があるわけですが、その良さをもう一度、中でも市村さんがおっしゃった以外にも外部化してしまっている機能が随分たくさんあります。内側に入れたものと、外に出してしまったものも結構あります。例えば、昔だったら家の中でやっていたお客様をもてなすということがホテルに行ったとか。外へ行っていますね。

●市村 さらに、今度は女性がより働くようになると、育児や場合によっては、お客様を家に呼ぶ場合、ホテルという手もありますが、家へ呼ぶけれど料理する人をプロの人を呼んでということになってくるし、そういう主婦代行業的なものもまさに都市の機能だと思います。重要だと思います。拡充しろという考えです。もうひとつは、ここ数年おもしろいと思うのは丸の内の変革です。一言で言ってしまえば、稼ぎの場所だったのは、オフィスやそういうものだけでなく、商業施設、一部住宅機能も入れていくのですね。つまりようやく日本の都市計画化も混在性の重要性に気が付いたなと。ちょっと20年くらい遅かったという感じもしますが。

●大内 3人の方にお伺いして、共通の縦軸と横軸になると思うのですが、テーマとエリアというか、少し編めるかなという感じが見えてきました。1つは川勝先生が最初に提示されましたが、駅西地区は現状では、たぶん放っておけば誠につまらないものになって、町としては失敗の都市計画になり、時代と共に忘れられて、あるいは破壊されていくかもしれません。それを今からでもいいから、この駅西にどういうかたちで、例えばハードウェア、ソフトウェアをつけていき、この駅西が、何かもう少し魅力的なものにする手段はないかということが皆さんの関心の中にあります。もう1つは、旧市街の方をもう一度広い意味でのリノベーションするにはどうしたらよいか。単に昔のものを復活するということではないと思います。もう一度新しい知恵でもって旧市街を作り替えていく。あるいは旧市街の生活をもう一度新しい時代に適応するようにやり直していくということが、皆さんご関心があるのではないかと思います。
 川勝先生、先程の話で京都のことをもう少し教えていただきたいのです。新しい駅ができたことによって逆に南の方がおもしろくなったというお話をされました。そこをもう少し皆さんにわかるように説明していただきたいです。

●川勝 京都駅に行かれると、ばかでかい長方形のものが見えます。半分がグランヴィアホテルで800メートルくらいある長さですから、エレベーターが南北に1つずつありますので、端っこの部屋だとずっと歩かなければなりません。そういうウナギの寝床のような中身です。一方はデパートで、エスカレーターで屋根のないところまで上がっていくわけです。中には劇場やコンサートホールのようなものもあり、そこが修学旅行の目玉 商品のようになっています。金閣寺や銀閣寺はもういいと、駅で遊んで帰るというふうになっています。今までは京都の北側、いわゆる東山文化や北山文化が栄えたところが修学旅行で見せるべきところだったのです。駅というのは、羅生門からずっと七条通 りですから、四条、五条、七条、南。ところがそこが今中心になっています。そうすると南側(新市街)と旧市街が対等になる中心になったということです。
 しかし計画性がなく、京都は東京に対してコンプレックスがあります。金沢もあるかもしれませんが京都にもあります。そのために大学も東大が柏に一部移したりしています。ならば京都大学もどこかに移そうじゃないか、同志社大学も田辺に移そうじゃないかということで似たようなことが起きています。先程松岡さんが言われてましたが、一方で昔の町屋が寂れていっているという面 があり、非常に深刻です。ひょっとすると金沢の方がはるかにそのへんのところは上手に細やかなかたちでやっているのではないかとさえ思います。 ぜひ時間を割いていただいて、フロアの方々と意見を交換できればと思います。小林先生がサロンの話をされました。これは加賀百万石があって引きつけているのです。人を引きつけて、そこに滞在する。長期滞在、長期が超長期になるとそこで一生を終えると。いわば、そこが終焉の地になるわけです。そのような魅力というものが、金沢にはあります。先程丸の内の話をされて、混在性と言われましたが、生活をしながらそこで仕事ができるような空間に変えていかないといけません。中央区や千代田区というのは夜になると人がいなくて、小学校なんかはどんどん廃校になっていくというのが今の東京です。要するに仕事場だけで生活がないわけです。みんな遠くからやって来るというかたちになっているでしょう。
 ここで思うのですが、もっぱら消費するだけの人というのもいますね。例えば学生がそうです。4年間、大学院を入れると6年、7年間ずっと消費しっぱなしです。もしそこの町で青春を過ごしたいと思っていたら、親御さんの仕送りなり、アルバイトなり、そこで仕事を作ったり、ともかく使うだけでしょう。そういう意味では貴族です。そういう貴族を、我々は学生だけだと思いがちですが、実はプロフェッサー、外国の研究者、そういう人たちも含めて考えるべきだと思います。  サロンの話は学生の場合もあるかもしれませんが、実際は知的な集まりです。知的といっても技能を持った人、学問に長けている人などいろいろな人がいると思いますが、イギリスでいうクラブです。フランスでいうサロン、日本でいえば座といってもよいと思いますが、そのような場を、実は日本の大学は1207もあるのですが、どれ1つとして作りませんでした。夜になって研究室から帰ると真っ暗です。守衛しかいないということになっています。それを戻すという仕組みをどこかで考えることが、実は若者を大切にするし、その若者がその土地を一生の思い出、あるいは場合によっては誰かと恋をしてそこに住んでしまうという、世代につなぐ装置というものになるでしょう。
 学ぶところ、生活するところが一体になるようなまちづくりというのは、どこででもできるものではありませんが、金沢はそれができる1つの候補地だと思います。そして、創造都市と言われたときに何を創造するかがもちろん問題なのですが、金沢大学町と言われても不思議な感じがしないような言葉の響き、雰囲気があります。あるいは金沢は芸術都市だと言われても、それはそれとして「ああ、金沢ならば」と思うところがあります。
 けれど、これは言われてみればそうであって、大学、教育や学問、学術で人を引きつけている町はまだ日本に1つもありません。パリは芸術の街と言うように、芸術都市として自立しているところがあるかというと、これもないと思います。そのような意味においては「What would you like to create?」という何をクリエイトしたいかというコンセプトを出せば、自ずと街の区画なり人々の生き方の姿勢みたいものについての共有ができて、コミュニティが新しく形成されると思います。そういうものにおいても、一番大事なのは、21世紀は文化の時代といいますか、文化力、総合力が試される時代だと思います。経済力があってそれをどう使うかが試される時代であって、文化力の1つの条件は、知的なものだと思います。 日本の1万円札で我々がcurrency(通貨)として世界に売っているのは福沢諭吉の顔です。福沢諭吉の顔であるというのは誰が決めたか知りませんが、とても不思議なことです。天皇陛下の顔ではないのです。イギリスだとエリザベス女王です。アメリカだとワシントンです。台湾だと孫文、中国だと毛沢東です。そういう人と違う、なぜ福沢諭吉かというと、慶應義塾の創設者だからではないと思います。あの人のベストセラーは『学問のすゝめ』で今でも読まれています。『学問のすゝめ』が何を言っているかというと、一国の独立は一身の独立だと。一身の独立の基礎は学問だと。つまり生涯学習だということを言って、みんながそうだと思ったから福沢諭吉は顕彰されているのだと思います。これは世界の後進国の人、先進国の人、誰に言うときでも、日本はこのような精神を持っていたから、つまり勉強するということをしたから植民地時代がなかったんだと。それだからこそG7の中で、キリスト教圏以外、非キリスト教圏で唯一代表に入っているんだと。ああ、そうか教育ですか、学問ですか、青年を育てるということですか。そうなんですと、猫も杓子もそう思ってやったんです。これが日本の精神ですと言えば、日本というものが世界に誇るべき顔だと。ちょっと大隈さんでないのが残念なのですが、それは早稲田的な偏見であって、まあ、そういう精神を売っているということです。
 そういうものを具体的に見せる場所として、ジャパンテントの経験から私はここだなと思いました。大学の国際化というのは、日本全国どの大学でも大問題です。つまり、日本の日本人による日本の青年のための教育を今までやってきました。日本の青年は学歴は上がってきたけれど、学力は下がっています。日本だけで閉じられているようなものですから、これをどういうふうに海外の青年も含めた地球社会の困っている人たち、あるいは困っている人たちを助けることができる能力を持っている人たちのために開放するかというときに、こんな素晴らしい場というのは、そんなにあるものではありません。そういうことを思って、芸術で立つ、文化で立つ、あるいは知的な高いもので立つというとき、そこで生活したいと思わせるようなサロン、座といったものは大学が機能を担えるのですが、残念ながら、ここも必ずしもそういう思想が入っているとは見えません。そういうところが、今のニュータウンの作り方にも見えていて、何かここで新しいものが興こりそうだなという予感が感じられません。
 
金沢ラウンド誕生について
パネリストプロフィール
モデレータープロフィール
開会あいさつ
福光松太郎

プレゼンテーション
 水野一郎
 伊藤光男
 竹村真一
 米沢 寛
 金森千榮子
 市村次夫
 川勝平太
 小林忠雄
 大内 浩
 松岡正剛
 山口裕美  
 米井裕一
 佐々木雅幸
●セッション1
都心で実験してみたいこと
●セッション2
これから議論すべきテーマは何か
●セッション3
創造都市とは何か
 
全体会議のまとめ
委員長総括
実行準備委員会