■パネリスト プレゼンテーション
●米井裕一
 金沢JCは来年で50周年という歴史を持っている組織です。いろいろな意味での金沢の都市のあり方などを提言しながら、実践的なアクションプランをしてきた、こういった活動では皆さんご存じかと思いますが、4〜5年、非常に運動の方針が変わってきました。その大きなきっかけは、95年にありました阪神淡路大震災です。このとき、もちろん我々も現場へ向かったのですが、日本JCでも、やはり何千人単位 での組織だった活動をしております。金沢JCでも会員のほとんどが現場へ行きました。その当時から、日本が享受してきた社会的なシステムが、限界に来ているのではないかと思いはじめたところに、こういう大きな事件があったことで、いろいろなところからエネルギーが噴出してきたという経験をJC全体としてしてきたわけです。当時いろいろ行政のことは批判されたのですが、そこで一番働いたのが一人一人の市民、いろいろな善意の方のボランティアでした。もちろんまとまりのありなしということはあるかもしれませんけれども、要するに市民という段階で社会を動かせるのではないか、こういった可能性を何となく感じたのがきっかけです。
 それともう1つ、これは極めて個人的な感想になりますけれども、1996年に金沢青年会議所が、国際青年会議所のASPACといいますアジア太平洋会議というものを誘致、主管させていただきました。大体1万5000人規模の国際会議で、非常に大きなものをやらせていただいたのですが、小さな町ですので、いろいろな複合的な施設の使い方、人の使い方で工夫をしなければなりませんでした。やはり圧倒的に人材が足りず、ボランティアを多数募りました。1日あたり平均しても200人くらいの方が来たのですが、当然主婦の方や学生など、日中に時間が取れる方が中心だったのです。これが意外というと失礼なのですけれども、非常に優秀な方ばかりだったのです。現場へ行くと「次はどうすればいいのですか」ではなくて、「こうしましょう」というような声を出せる人がずいぶんたくさんいました。これには非常に驚かされたというのが実感としてあります。
 開会式は最初のイベントですので「ここでこけたら失敗だと思え」とある先輩から脅され緊張してやりました。当然出しものとして素囃子や加賀鳶など、金沢を代表するものを出したのですけれども、フィナーレのメインの出しものに、地元の子どもたち、モデル、ダンスの方、それから演劇を担当される方にお願いして、オリジナルのものを作っていただいたのです。これが大きな感動をびました。何がよかったかというのは私もうまくは伝えられないのですけれども、見ていた方で「涙が出たよ」と言った人もおられました。やはりそういうことを考えますと、いったん納得したうえでお願いすると、非常に大きな力を出される方というのが、ずいぶんそこかしこにいらっしゃるのかなという気がしました。あえてあちこち探さなくても、いざやろうとするときに大きな資産が、金沢の県民性なのかわかりませんけれども、非常にそこかしこに転がっているような感じがしました。
 そのあと、JCが45周年を迎えた際、ヒューマンネットワークシティ金沢という提言を出しました。NPOが増えてくることを考えまして、それを支援するような立場でやっていこうという提言をしました。アトラクションとして夢マーケットというイベントを中央公園で行った時に、ボランティアフェスタといいまして、石川県で活動されていますNPOやボランティア団体の方が一同に集まり、初めての共同作業をしました。その事がまず意義のあることだったのですが、予想を超え、とんとん拍子に話が進み、アイネットというNPOを支援するNPO団体というものが生まれました。
昨年には法人化されました。
 本当に納得してやってしまえば、実はこちらが予想するよりも本当に能力のある方々がずいぶんたくさんいるという気がいたしました。金沢は伝統文化の看板は非常に大きなものがあるのですけれども、それを支えるような人、また違うような文化を作れる可能性というのは、あえて探さなくても十分あると感じています。

 

金沢ラウンド誕生について
パネリストプロフィール
モデレータープロフィール
開会あいさつ
福光松太郎
プレゼンテーション
 水野一郎
 伊藤光男
 竹村真一
 米沢 寛
 金森千榮子
 市村次夫
 川勝平太
 小林忠雄
 大内 浩
 松岡正剛
 山口裕美  
 米井裕一
 佐々木雅幸
●セッション1
都心で実験してみたいこと
●セッション2
これから議論すべきテーマは何か
●セッション3
創造都市とは何か
 
全体会議のまとめ
委員長総括
実行準備委員会