■パネリスト プレゼンテーション

●竹村真一
 私が最近学生たちとやった「闇の中の対話」というワークショップは、
ドイツで始まったものです。部屋を真っ暗闇にして、その中でブランコに乗ったり、お酒、ジュース、お茶など出されたものを飲んでみたりといろいろな経験をするものです。私たちは普段、圧倒的に視覚に依存して生きていますから、何も見えないと怖いわけです。ですから最初は一歩も進めない。けれどもだんだんやっているうちに、いつも飲んでいるビールやお茶とは全然違う経験が出てきます。最初は怖くて進めないのでナビゲーターがいるわけですが、実はナビゲーターは視覚障害者の方なのです。そういうワークショップを芸術の大学生たちとやって、アートは感性の世界だなどと思っていたけれども、感性の中のほんの一部しか使っていないのだということをつくづく思い知らされて、文字どおり学生たちも目からうろこが落ちるわけです。
 
このワークショップの提起している問題というのは非常に深遠で、1つにはもちろん状況によって障害者と健常者というのは逆転することがありうるということです。私たちは目が見えないから障害者だと思っています。視覚障害者の方が交差点などに来ると、見えないから危ないだろうと我々は思います。実は交差点に来るとビルが切れるので、音の通 り方や風の抜け方が変わってくる。それで交差点がわかるのだということを考えると、それはもう一概に健常、障害とはいえないのだということがわかってくる。同時に、では私たちは何をやっているのだろう。私たちでも風の抜け方や音の通 り方はわかるはずなのに、私たちは下手に目が見えるがゆえに、逆に耳や触覚に、ある意味でふたをしているのではないか。そうすると、本当の意味での健常や健康とは何だろうということが自分に返ってくるわけです。
 これは非常に小さな話をしているようですが、実は私たちはやはり人間のあり方全体というものに対して、組み換えていくべき時代に入ってきている。高齢化社会というのは、だれもが1つや2つの障害を持ちながら、当たり前にそれを健康と定義しなおして生きている。今までの健康というのは、病気がないこと、障害がないことでしたが、当たり前に多様な障害性を持ちながら、それが当たり前に健全な人間であるということになってくるのです。
 健康というのは、英語ではhealthやhealという言葉を使います。healやhealthは、語源としてはallという全体性を持っているということであり、私たちは目が見えるがゆえに耳にふたをしているとしたら、これは全体性を持っていないわけです。ということは今までの健康概念というのは、非常に狭い健康概念であった。私たちはもう一度人間を全体化していかなければいけない。人間のマルチ化ということこそ、マルチメディア時代の本当の意味ではないか。技術をマルチ化するのは簡単だけれども、人間のマルチ化であると。そういうことに先端的に取り組んでいって、人間のあり方を根本から組み換えていくのが、私は21世紀の都市の課題なのだろうと思います。都市は異文化の編集拠点であると思います。しかし、単にもう外来文化という時代ではないのです。もう地球は一つになりました。若い人たちは、ヨーロッパのセリエAのサッカーと日本のJリーグとを等価に、同じ価値で見ています。つまり、ヨーロッパは遠くて日本のJリーガーは近いというような遠近感はもはやない時代です。そういう意味では、外部というのはもう外国にはないのです。外来を編集する、多文化に開かれていくというのは、これはもちろん非常に重要なことですが、同時に自分の内側にまだ未知の異文化がいっぱいある。そういうことまで含めて、内に外に自己の多様性を増幅させていく。そういう実験場として、都、都市というものをもう1回捉えなおす。そういう時期に来ています。
 人間のあり方の多元化と並んで、社会としての多元化ということで言いますと、今世界の最大の問題は経済の問題です。経済というのは、不況など表面 的なことではなく、経済が著しく一元化しすぎていると思います。世界全体がグローバル経済の中に巻き込まれ、為替レートの変動やホットマネーの暴力に影響を受けてしまう。それは過剰に一元化しているからです。そのときにどう多元化するか。マレーシアの半鎖国的なかたちで自立性を持つということも、1つ水平的な多元化ということで大事です。もう1つ垂直的な多元化として、一言で言うと「社会の血液と血管の多元化」と私はよんでいるのですが、血管、つまり社会の血液であるお金の流れるルートの多元化という意味ではNPOなどがある。例えばアメリカなどでも、NPOが町の清掃やホームレスの世話をしているのは、行政が本来やるべきことの肩代わりをしている。あるいは銀行が本来その地域に対して奉仕すべきサービスを、肩代わりしてやってくれている。だから銀行も行政も、それに補助をする。補助金を出したり免税するという形で、公・共・私、この3つのセクターのトライアングル、共同化、あるいは多元化で組み換えようとしています。
 そういうことも重要なのですが、もう1つ血液の多元化について言うと、日本は円だけで生活していますが、例えば多摩地区では円ではなくて独自の地域通 貨を作っています。そういう貨幣システムの多元化ということが非常に大事で、単に多元化するだけではなく、例えば地域通 貨によっては「老化するお金」という考え方があります。つまり持っていると目減りしていくお金。1か月貯め込んでおくと、1%ずつ価値が落ちていく。今のお金の問題は、先程の一元化ということがありましたが、もう1つは貯めれば貯めるほど、持っていれば持っているほど価値が高まるお金の構造になっているからです。それが、老化する、あるいは価値が目減りしていくお金にすると、価値が減らないうちに早く使おうとする。そうするとお金がどんどん循環し活性化されて、たくさんの雇用や地域のサービスが生まれる。全面 的にそれに転換するわけには、もちろんいきませんが、円で地域の経済の80%が成り立つとすると、ゆくゆくは20%は金沢独自の目減りしていく、それゆえに早く循環するようなお金、システムで決済をしていく。身近なところでパンを買ったり、身近なサービスを交換したりするのはそれでやっていこう、そういう形で多元化していく。このような地域経済のグランドデザインも、実は都市デザインということの大きな課題になっているます。
 20世紀はとにかくパラダイムが一定で、町づくりというと、都市のハードウェアはどうしようか、街路を広くしようかということになります。これからの都で議論すべき話は、そういう問題だけではなく、人間自身のあり方から、世界認識の問題から、今の経済のシステムの根本的な部分からです。いかにお金を儲けましょうかというHowではなくて、What is money? お金とは何なのか。なぜこういう貨幣システムを使っているのかというWhy。そういう根本的なところをいろいろ問うていく。そういう議論にするのであれば、創造都市会議というのは非常に意味があるものになるかもしれない。
 最後に、真善美、真が深まり善になり、善が結晶化されて深い意味での美になっていくというような言い方がありうると思いますが、結局、都心(みやこごころ)というのは、経済の問題などがすべて結晶化されての美意識というところにいく。決してきれいごとの美意識ではないのです。そこから切り離して美を論ずるのではなくて、もう1回自分たちの人間としてのあり方、食文化、性の文化、住まい方、移住と定住の問題まで含めて、自分で創造しながら、それが美につながっていく。美のレベルまで高めて議論しようではないかということです。そういう高い志を持って、金沢であればやってくださいというエールを贈っておきたいと思います。
  


金沢ラウンド誕生について
パネリストプロフィール
モデレータープロフィール
開会あいさつ
福光松太郎
プレゼンテーション
 水野一郎
 伊藤光男
 竹村真一
 米沢 寛
 金森千榮子
 市村次夫
 川勝平太
 小林忠雄
 大内 浩
 松岡正剛
 山口裕美  
 米井裕一
 佐々木雅幸
●セッション1
都心で実験してみたいこと
●セッション2
これから議論すべきテーマは何か
●セッション3
創造都市とは何か
 
全体会議のまとめ
委員長総括
実行準備委員会