■コーディネータープレゼンテーション
●小林忠雄
  今日は「遊び」というテーマのコーディネーターを務めさせていただきます。野村、松岡先生との第2セッションの方でやるわけです。私は一応地元ということも含めて、多少自分なりの提言を考えてみました。
  実はこの金沢という城下町、今、大分中身が壊れてきていて、おもしろくなくなってきています。もともとは軍略的な町で、いわゆる鍵の手の道とか枡形とか、あるいは突き当たりの袋小路など、そういう位 置が縦横にあったわけです。このことについてはありさわぶていという加賀藩にやってきた軍略者がいますが、彼は金沢のことを小江戸と呼んでいるのです。小さい江戸と呼んでいます。小江戸というのは実は関東では川越というのが小江戸と呼ばれていたのですが、なぜ小京都でなくて小江戸なのか。江戸初期、近世の初頭には確かに都市性を中心にした京文化というものを工芸美術の世界ではかなり持ち込んできていたわけですが、江戸中期から後期にかけて、特に江戸後期には、顕著に江戸文化が加賀には相当入ってまいりました。
  建築形態も当然、京間から江戸間へというように畳のサイズも変わってきたと言われております。どうも金沢というのは、江戸というものに非常に近い町になったと考えられます。江戸というのは街道から入ってくるところを「口」と言いまして、品川口とか、板橋から入ってくる中山道の入り口とか、浅草口とか小田原口など、「口」という言い方をします。そして港のことは船口と呼んでいます。金沢も実は浅野川口、犀川口、そして矢口、矢口というのは宮越、金石から入ってくる大きな往還ですが、口と言っている。
  それでこの口の意味を考えてみますと、実は外から来た人にとって入り口まではわかるのだけれども、その中は迷路になっている。これはたぶん日本の近世城下町の形態を見ると、多分に碁盤の目の通 りになっている。例えば岐阜もそうですし、高知もそうです。いくつかの城下町というのは碁盤の目の通 りにしてあるのですが、金沢はそれがない。城を中心にして八家と呼ばれる重臣が甲冑町という町を作っている。その中に家臣団が入っているわけですが、そういう一つの町のようなものをすでに作っているのです。それが取り巻いている。同じように江戸も譜代大名が周りを取り巻いている。そしてその武士地の間に町屋があってというかたちでということで、いわゆる城を中心にした放射状の同心円構造というふうに見えるのではないかと思いますが、これがどうも町全体の中に、いわゆる城下町都市の中では非常に迷路的な要素を持っているという点に気づきます。 これがなぜか、だんだん崩れていきます。江戸後期には、浅野川の向こうの東山地区ですが、あそこに大衆免町という町があります。 加賀藩では税を納めるところにそれぞれ町をつけましたけれども、あそこは相対請地という地域でありまして、結局税を納めなかった。そのために近郊の農村の次・三男だとか、そういう職業、手仕事を求めてくるような人たちがどっと増えたところです。見ますと、非常に狭い路地になっています。このところは、ある意味では金沢の下町と呼ばれるような雰囲気を持っていた。
  この町が結果的に、今1つは市電というのが街鉄ができまして大正12年でしたか、道幅が広くなって、北陸道が広くなったのですが、あれで家がどかされたということもあって、そのしわ寄せがきております。それからさらに、新しい道もあそこに馬場小学校のところから出ておりますが、いずれにしてもこの道路というものがこの細かい迷路状になった都市というのがずたずたにされているという現状です。  私はこの迷路というのが、実は本当は大変におもしろい。例えば町名の問題もそうなのですが、明治、大正期、昭和初頭までで360の町名があります。その前の藩政時代はそれに260足しますから五百どれだけかの町名があった。
  最近、そのうちの1つの主計町というのが復活したそうですが、そのほかを見ますと堀町とか、象眼町とか、御徒町とか、あるいは百々女木町、醒ヶ井町、花英町といったような非常に珍しい地名が残っている。この地名も逆に言うと迷路性を作っている。そこへ行くと何か読めないような町名がある。いったいここはどこだろうと人を迷わせるような部分があります。そういうような迷わせるといったような作り、装置といいますか、そういうものがこの金沢の中には充満していたわけです。
  それは先程言った同心円構造があればあるほど、そのことが非常に迷路的になっていたのだろうと思います。今、これをどうするのか。金沢の町を散策するというときに、単なる観光資源ではない、さらに迷路性を強調しているような用水、そういうものを多少今整備される方向に向いておられるようですが、そういうものも実は、私たちは金沢へ来るとそういう部分も楽しんでみるというようなことができないだろうかと思います。
  もう一つの問題は、この迷路性というのは、仏教とかあるいは哲学思想といったような中でも、この土地柄というか風土を含めて非常にさまざまな文学・哲学・宗教世界にいろいろな方を輩出したわけです。今はその雰囲気は全くなくなっている。それもなぜか都市環境の中に十分、参画して思考を巡らしていく、そういう発想の場というものが本当にあるのだろうか。あるいは、風潮ということを含めて何かもう少し足りないのではないだろうか。思想の迷路、あるいはそういう精神的な刺激するような迷路性というもの、そういうものを何とかこの町にもう一度再生できないだろうかと思っております。
  一つ忘れましたが、明治の20年代に金沢は疲弊するのですが、あのときにたいないくぐりという長屋がはやったのです。これは大店の家の後ろの方の庭というか、そこに借家を設けて、金沢は背割りになっているものですから後ろに道がないので、どうしても前の方の大家さんの横に穴を開けて、通 路を作って奥の長屋に人を住まわせる。これは大体明治の20年代から昭和の10年くらいまで続いたと言われています。昭和20年以降は、ほとんど姿を消してしまったそうです。
  実は、その土地の自由な状況の作り方みたいなものの中に、実は迷路性のようなものがあったということです。私たちの子どものころというのは、どうしても狭い、家と家の間を近道として通 るとか、そのようなおもしろさというのがあったわけです。そういうことを今再現しようというわけではないのですが、金沢散策の中のそういった迷路性というもののあり方、それを可能なかぎり探ってみたらどうかと考えてみました。
金沢ラウンド誕生について
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コーディネータプロフィール
開会あいさつ
福光松太郎
プレゼンテーション
 荒川哲生
 川勝平太
 竹村真一
 田中優子
 野村万之丞
 松岡正剛
 大場吉美
 金森千榮子
 小林忠雄
 佐々木雅幸
 水野一郎  
 米沢 寛
全体会議のまとめ
委員長総括
実行準備委員会