■全体会議「都心の総括」
チェアマン 佐々木雅幸
パネラー  荒川哲生、川勝平太、竹村真一、田中優子、野村万之丞、松岡正剛、
      金森千榮子、水野一郎、米沢寛
●金森 住んでおります者にとっては、こういう機会にお話を伺っていますと、明確にこれとこれとまではいかないまでも、例えば確かにおっしゃいますように、必ず加賀という言葉、前田という言葉がしょっちゅうつきまとっております。けれども、本当にそうだろうかと考えますと、おそらく市民はあまり日常の中にまで織り込んで考えているとは、私は住んでいる者の一人としては思えません。フロアの皆様はどのようにお考えになるか。
  それはしようがないことで、駅を下りればそこの土地の名前があって、そこから町へ入っていくときに何か一つの特徴づけをするというような習性からいきますと、やはり旅の方はそういうものをお求めになるでしょうけれども、いつもそこで何か違和感を感じていたことは事実です。
  それからもう一つ、これは私が今度出させていただいて思ったことですが、前田以前というものが確かに抜けていたというか、私の不勉強かもしれませんが、ご指摘があるまで、それは確かに一向一揆であるとかいろいろなこと、これもこのごろはイベント化して何かやっているようですが、そういうとらえ方というか、以前があって今の金沢というつなぎ方は、おそらくなかったように思うわけです。その辺から実は金沢学があるといったご指摘をいただいたときに、初めて気がついたといいますか、いつも自分の基点、この町に住む者は、あまり前田とか加賀を意識しないとは言いながら、何か出発点がいつもそこであったように思います。これは私は大変に勉強をさせていただきました。
  そこで町と金沢、今これが倍の大きさになるか、さらに小さくなるかは、これからだと思いますが、私は頑固にという言葉も当たっていると思うのです。町が頑固であるということは人を寄せ付けないということではなくて、実はそこにだれの言葉も同じ言葉が返ってくるという頑固さではなくて、それぞれが思っている思いで結構なわけですが、それを我々は少し主張しすぎなかったのではないか。こういう機会をちょうだいするとそこでは言うかもしれませんが、今日このごろ、あまり市民自身がたらりたらりというか、そういうことを絶えずお考えの方もいらっしゃるのでしょうが、要するに何か言いにくくなってきている面 があるのではないか。
  私は、町が便利になるということ、住みたい町の中に便利になるということを入れていくということは、実は悪くはないし、あればなおいいと思いますが、多少不便でありましても、町自身が迷路じみて、そして人の心も少し迷路じみたいな、あまりはっきりと旗を振り上げないところの、それはファジーということも含めて、何か行ってみて夕方になったら魑魅魍魎(ちみもうりょう)みたいな、そういうぼかし方を私は金沢の町はしていった方がいいように感じました。
  それから、これから当然、年齢的に熟年からさらにもっと上に上がってまいります。私は一列に人の年齢を見る時代は去ってしまうのではないか。すぐに年老いた人のためにこうこうとか言いますが、実はどんどんいろいろな面 で変わってきているのではないか。行政も単に年齢で住み分けしてしまっていますために、いつも飛んでいく弾が不発に終わっているのではないか。実はその人こそ、肩のところにかけた袋の中から出してはやらないぞというような何かを持っていらっしゃるのではないか。
  少し散発的ではありますが、とにもかくにも私は前田以前ということにほとんど気がつかなかったということをただいまひどく恥じておりまして、恥じると同時に、どうしてその部分に皆の目が行っていなかったかということを自分の中にも問いかけてみたいと思います。
 
●田中 私たちのセッションで出たことを、もう少しいくつか補足をしながらお話をします。見せる都市ということを川勝さんの方から出してこられたのです。これはとても大事なことなのではないかと思いました。これは私たちが普通 住む人間としてどのように居心地がいいかと発想をしたり、あるいは入ってくる人たちが何を見るかと発想をしたりするのです。
  しかし、人間一人一人生きていくときに自分というものをどうやって構成していくかと考えたときに、都市と同じで、生きてはいるけれどもやはり世界、社会の中で自分はこのようであると見せてもいるわけで、そういうもの全体が自分という特徴をつくっていきます。これは非常に意識的にやったり、無意識にやったり、それこそ闇を抱え込んでいたり、役割というものに敏感になったり、自分なりのルールを持ったり、あるいは人に合わせたりといろいろなことをするわけです。やはり都市というのもそういうものを持っていると思うのです。ですから、見せる都市というもので、もう一度発想していくことができるのではないかと思ったのです。
  それは、私がこのセッションのときに使ったスライドの、同じような都市図を描いていた作者たちも少し似た意識を持っていたのではないか。私がお見せしたのは江戸の都市なのですが、江戸という風景を見て描いているわけです。しかし同時に、それは商品となって売られるものですから、見せようという意識があるわけです。両方持っているわけで、そうやって切り取っているわけです。するとそこには、名所というものをつくってしまおうということがある。名所というのはあらかじめあるわけではなくて、しかも何かがあるわけではなくて何にもないのです。何にもないところに名所をつくってしまう。昨日お見せしたスライドの中には、海岸のところで大八車が放置されていて、そこにスイカの食べかすが落ちている。犬が2匹いて遊んでいる。それだけの瞬間が描かれていて、これが名所なのです。名所の一面 です。しかし、それでも名所になるのです。それは名所をつくって、名所を見せよう、自ら名所を発見しようという意識の中で出てきたもので、しかもきわめてその目は個人的な目なのです。それでも名所になろうというのがあるのです。このような都市の発見の仕方、切り分け方というのがあるのではないか。これは決してきれいなところ、皆に気に入られるところ、皆に受け入れられるところだけを見ようというわけではなくて、ある人がおもしろいと思ったところがひょっとしたらそれが共有化されるかもしれないわけで、それこそ闇がその都市の特徴として共有化されて、この都市はおもしろいということになる可能性があるわけです。ですから、私はその都市は歴史だけに支えられているわけではなくて、そういう新たな発見の仕方もある。あるいは、ずっと遠い歴史の中からそれがまた表れてくるのではないかという気がします。
  それからもう一つ、私がそういうものをお見せしながら話をしたのは、ここには中心的なものがないということなのです。普通 都市というといろいろなものを想像するのですが、この都市の中心は何か、この都市の一番の特徴は何かと思ってしまうのですが。例えば、江戸の都市を描くときに富士山が出てきたりします。富士山は江戸の中にはなく、ずっと遠くにあるわけです。ところが、ここから何かが見えるということだけでその都市が特徴付けられたりする。また、川が流れている。このようなものはどこに行っても流れているわけで、しかし、それでもここに隅田川があるといったり、人工的な川さえたくさん描かれるわけですが、この水があるといったりする。そうやって山とか水とか橋とかがいろいろなところから見える、いろいろなところにあるわけです。どこか中心にあるものではなく、いろいろなところにあるのですが、そういうものがモニュメントになっていくのです。
  そうすると都市の中にないもの、周辺と都市、都心というものが実は対応していたり、それから都市というのは普通 は人が人工的につくっていくものなのに、そういう自然物がモニュメントである、都市を特徴づけていると考えたりするということがあります。こういう考え方というのを、もう一度取り戻してもいいのではないかと思いました。これは昨日の繰り返しになるのですが、そういうことを付け加えさせていただきます。
  私は芸術村で2年くらい前でしょうか。一つの展覧会のプロデュースをしたことがあります。非常に空間としておもしろかったこと、これは演劇の方ではなくて展覧会ですから、また場所が違うようですが。とにかく倉庫であるということ、これは普通 の美術館の空間と、例えば高さが全然違うのです。そうすると作家はどのように考えるかというと、とても普通 のほかのところでできないようなことをこの空間に合わせてやろうと発想するようになるわけです。そして見事にそれをやったのですが。そのように作品の内容が空間によって変わってくる。これはもちろん演劇でもあることだと思うのです。
  ですから、演劇の場所だからこのようにつくろうとか、展覧会場だからこのようにつくろうという発想はもしかしたら必要がないかもしれない。空間として今あるところを開放することによって、そこで作家が何ができるだろうかというところに、むしろ作家側が挑戦をしていく。そういう空間との出会いがあると思うのです。そういうような空間をむしろつくっていくということが私は大変大事な気がします。
  例えばニューヨークですと、先程オフ・ブロードウェーの話が出ましたが、オフ・オフ・ブロードウェーというのがまたあって、これがソーホーの地区で60年代からずっとやられているのです。これはミュージアムもあるけれども、やはり演劇空間もあって、毎晩のように何だかとんでもないことが起こっているわけです。つまり、これが演劇と呼べるのかというようなパフォーマンスが次々と行われて、それにちゃんとお金を払って入ってくる人がいるわけです。私も半年くらいそういう時期に暮らしましたし、年中行っていました。
  そうすると、演劇的空間だと演劇をしなくてはいけないとどうしても思ってしまうのですが、そうではないただの工場、ロフトですから、何をやってもいいという発想になるのです。それは非常に世界全体のパフォーマンスアートを進化させることになったし、アートの面 でもいろいろな前衛芸術を生み出すことになって、その地帯一帯が一つの創造空間になったのです。それは高級なものでも何でもなくて、むしろ安いからそこにいるというだけの理由だったわけです。私はそういう隙間というのがどうも日本にない気がして、何でもちゃんとつくってしまってきちんとしている。お金さえ払えばできるのだけれども、しかしふらっと行って何かやるとか、ふらっと行って見るとか、そういう隙間的な自由なものというのはとても少ない気がするのです。
  金沢はそういうロフトを持っているけれども、一応ちゃんと市民が経営する、運営をしなくてはならないということでいろいろな決まりがあります。ですから、もっと隙間的なものが欲しい。これはあえてつくるということではないので、かえって難しいと思うのです。まさにそういう闇の世界が欲しいということが1つあります。
  しかしもう一方で、今度は昨日の夜の方の席で出たことですが、演舞場のようなものの案も今出ているようです。これは江戸時代で言えばそういう小芝居にあたるもので、国立劇場のようなりっぱなものをつくるというのではなくて、金沢にある伝統芸能をどうやって生かすかという話らしいのです。いきなり歌舞伎かどうかかわからないですけれども、ここではたくさんの方が三味線をやったり、小唄をやったり、謡をやったり、鼓をやったり、いろいろなものをやっていらっしゃる。非常に層が厚いと聞いています。そうすると、それを下手にお稽古ごとの発表会ではなくて、一つのかたちにまとめていったり、それが歌舞伎というかたちになったり、そういうふうに発信できるようなものになっていくというようなことが、もしかしたらそういう空間が出現することによって可能なのかもしれない。
  それは市民芸術村では確かに難しいかもしれません。そういう空間の雰囲気というものがありますから。そういう前衛的なものとはまた別 に、金沢が持っている芸能の世界というものを生かすことができるようなものがあるのならば、そういう提案をどんどんなさっていくべきなのではないかと思いました。
 
●川勝 野村さんの狂言、これは演劇の粋の一つですね。都市が劇場だということだと思うのです。都市という空間の中で演劇場があって、そこで見せる、これは言ってみれば花の部分で、それを支えている都市が劇場であるという見方が見せるということになります。見せていると見られている、見られているということを意識している、それがいわば金沢風とか、京風とか、江戸っ子気質とかで、例えば大学などに行くと、東大に入ると何となくもやしのような顔をしていた方がいいとか、早稲田に来るとなんとなく野暮な方がいいとか、あるいは京大に行けば自由人ぶるとか、ぶるわけです。そういうぶるところに一種の花というのが出てくると思うのです。野暮に見せるというのも、実はなかなかそれなりの心のかたちがいりまして、そういう意味での金沢ぶるというか、金沢風というものがいるというのが先程から出ている話のポイントかと思うのです。金沢が劇場になっているかどうかということについて、どうもまだ産みの苦しみがあるというか、出口が見えないということがあると思うのです。
  ここの地場産センターは明らかにニュータウンですね。金沢駅の向こう、東側がオールドタウン、こちらがニュータウンです。ここに光と闇というコンセプトをあてはめれば、おそらくニュータウンが光で、オールドタウンが闇の部分になるのかと思うのです。しかしながら闇はずっと闇ではなくて、文字どおり夜になったら光るわけです。こちらのニュータウンは昼間に光っている。夜になるとそれこそ、こちらが闇になって、闇が実にださくなる。何の味わいもない、要するに深閑とした人っ子一人いないという感じの闇になる。ですから、光と闇における使い方も、夜になってそこで楽しめる町という感じが金沢にはあると僕は思うのですが、このニュータウンがはたして昼間に輝くかどうかはこれからの課題だと思います。
  これが京都の場合、京都駅より南を今シリコンバレーのようにしようということで、明らかにオールドタウン、京都駅より北側の古い町並みと対比的に考えざるをえなくなってきています。あるいは、新宿の山手線側は歌舞伎町やゴールデン街などがあって、これはいわば闇で、昼間は何とも落ち着きがないわけです。夜を待っているという感じです。そして、新宿の都心の都庁などの高層ビル群、これは夜になるとゴーストタウンのように怖い感じがあるかと思うのですが、昼は実に光り輝いている。こういう感じというのは一様に日本に見られると思うのです。
  ただ、ここで都心という言葉を英語に直すとシティ・センターとかダウンタウンということになると思うのですが、東京の場合、都心というと丸の内街とか新宿副都心でニュータウンになっているわけです。しかし、英語で言うシティ・センターあるいはアメリカ語で言うダウンタウンは、実はそこは生活のセンター、コミュニティのセンターで、そこに行けば人と会える、おしゃべりができる、買い物ができる、生活にアクセントを添えてくれる場所なのです。これが日本の場合には、生活を支える手段の部分といっては語弊がありますが、経済や仕事とかいう部分が都心になっている。そこを都心にしてやる必要があった時代はあったのですが、それはもう終わったということで、本来の都心に帰ろうと。 本来の都心というよりもダウンタウンというイメージが一番ぴったりとすると思うのですが、そういうものにしていかなければいけない。逆に言うと、都心にでっかいビル群があったりするのはおかしいので、出ていってください、それはニュータウンの方に行ってください、ということかと思うのです。
 
●荒川 正直に申し上げると、私の最近の演劇的関心はもう役者の肉体の中に潜り込むという、あるいは声の中に潜り込むという、そういう感じなのです。ただ、私も昭和26年に初めて杉村春子さんの『女の一生』でしょっちゅう旅に出ました。そのおかげで、26年から30年代いっぱいまでずいぶん日本中を動きました。一つは、駅前が非常に画一的にどんどん変化していた。もう一つは、我々が実際に芝居を上演する場の問題です。26年ごろですと、かなりへんぴな町へ行ってもまだ大分芝居小屋というものがありました。
  それは何回か変化の区切りはあったと思うのですが、公共施設に変わっていくとかいう中で、これも本当に古い話で、昭和38年ですか、新宿の伊勢丹のすぐ脇のアートシアター新宿文化が、深夜の演劇公演と、一応歴史的には戦後の小劇場活動のファーストランナーという役割を務めたのですが、その観点から多少、あまり難しいことは申し上げられないのですが、頭に浮かんだことがあります。 よく外国の都市で、例えばヒューストンなどですとアレーシアターというのがあるのです。何と訳せばいいか、小道劇場ですか。ニューヨークでは、これはオフ・ブロードウェーの方ですがチェリーレーンシアターがいわゆるオフ・ブロードウェーの劇場としてはかなり古いもので、戦後で言うとサミュエル・ベケットとか、アメリカの作家ですとエドワード・オールビーとか、三島さんの『近代能楽集』のどれかもそこで上演されています。それで何となくそこからインティメイト・シアターとか、そういう小劇場を道筋にとふと思い出したのです。先程も出ていましたように、芸術村のPit2というのが非常におもしろい。実際にアメリカやヨーロッパへ行くといくらでもあるというスタイルですが、日本の芝居を上演する場所としては非常におもしろい空間です。もとのただの紡績会社の倉庫をそのまま一切触らないでおいたという、これは水野先生のお仕事です。
  こういうものを中心に置いて、町中のそれこそ路地裏であろうと何であろうと、あるいは竪町の商店街にあるこの間まで吉本が使っていたところとか、そういう意味で小劇場にお金をかける必要はないのです。むしろ昨日、竹村さんがワークウェアということをおっしゃっていました。シアトリカル・ワーカブルウェアとしての意味では機能しなくてはいけませんが、壁に何か凝るという必要は全然ない。そういう小劇場を70席から最大300席くらいまでの間のものが、どこを都心と見るかは別 にして、10か所くらいあってもいいのではないか。
  現実には、私は企業で多少そういう小さい空間を、若い人たちの音楽のために使われているような場合が多いような印象がありますけれども、演劇を自由にできるような比較的小型の劇場を10か所くらい意識的につくっていくということもおもしろいのではないかと思っています。
  現在の菊川小学校の場所に川上芝居という、犀川の川上というイメージでしょうね。実際にあそこに地名か、バス停で川上というところがあるようですが。正確な年度は忘れましたが、あそこに江戸時代の後期に大劇場があったようです。その当時の京都、大阪のどの劇場よりも、今残っているデータを見ると大きい劇場だった。ちゃんと芝居茶屋の風景の資料もちゃんと残っています。それで金沢での歌舞伎は、私はもちろん演劇史家ではないのですが、僕が調べたかぎりでいくと三都に続くくらいの上演がされていたと、それははっきりしています。
 
●竹村 昨日、聞かれていない方のために補足します。私がワークウェアと言ったのは、例えば同じ町でも自動車で通 り抜けながら経験するのか、自転車で通るのか、歩くのかによって全く都市経験が変わる。
  あるいは、それに応じて都市をどうデザインしていくのかという方向性も全然変わってくるだろう。例えば、デンマークのオルフスという町で都心に車を入れないという決断をして、それによって皆さんが歩くようになった。そうすると、衰退していっていたパパママストアと言われるような小さな商店街が再生してきました。つまり、人が歩くようになってはじめて違うものが必要とされ、あるいは古くからあったものが見直される。つまり、私たちは都市デザインというと、ハードウェアとかあるいは景観のデザイン、きれいにしようとか、あるいはブランド性をどう高めるかというソフトウェアから入ろうとするのですが、それ以上に一人一人の市民がどのような行為様式で、どのようなモードで都市を経験するのか、あるいは歩くのかというようなワークウェア、それを私はハードウェアでもソフトウェアでもなくワークウェアと呼んでいるのです。そのワークウェアデザインをもっと考えなければいけないのではないかと言ったわけです。
  例えば、日本文化というのはワークウェアの宝庫なのです。折る、たたむ、重ねる、いろいろなそういうもので、物が人間から自立しないで、人間の行為様式で同じ風呂敷でもいろいろな意味を持つ。同じ部屋でもちゃぶ台をおけば食堂に、布団を敷けば寝室にというふうに、ワークウェアデザインの部分が日本はずいぶん分厚いのです。ですから、茶室でも設計図に描けないデザインとしてにじり口のにじるという行為様式、このにじるというワークウェアが茶室経験を大きく増幅しているようなところがある。そういうワークウェアの部分が非常に分厚い日本文化、あるいは金沢文化という観点からすると、ワークウェアデザインというところにもう少し焦点をあてて都市を設計をしていくべきなのではないか。人間から都市を考える、人間の行為様式から都市を考えるということです。その辺を問題提起したわけです。
  それについては話せば山ほどあるのですが、繰り返しになるのでこれ以上は申しません。この辺がまた今度は、最近はバリアフリーと言われていることにもかかわってきている。単に段差をなくすという消極的なバリアフリーではなく、もっともっと私の五感のチャネルをフルに開いていくようなかたちのバリアフリーのデザインが、そういうワークウェアの発想から出てくるべきだろうということです。
  それに関連して、皆さんが議論されたことを受けて2点ほどつけ加えます。そういうワークウェアデザインを機軸にしながらこれからいろいろなことをデザインしていくにあたって、私は本当に都市の概念というものを近代の枠組みを一度ゼロ・リセットして、本当に新たなところから、都市をいかにデザインするかというHowの部分ではなくて、都市とは何なのか、どのような選択肢があるのかというWhatのレベルから考え直す時期にきている。それは昨日、水野さんも最初に問題提起をされたことで、本当に我が意を得たりだったのです。本当に銀行も本屋もいらない、何を例に出されたか、とにかく今まで店舗として都市に存在しなくてはいけない、それが前提であったものが、バーチャルネットワーク化によって銀行もいらない、本屋もいらない、コンビニもだんだんいらなくなっていく。そういうことになると、今まで都市の必須アイテムと考えられていたものが全く都心に存在する必要がなくなっていくわけです。そういう時代に都市をいかにデザインするかということを、本当にHowのレベルではなくてWhatのレベルから考えなければいけないということは、当然、見えてきます。
  それから車の問題に関しても、今、脱車社会のオルフスの例を言いましたが、車を全く放棄してしまうというのはやはりいろいろ不便だし、買い物をする方々にとってもどうやって荷物を運ぶのかといった非常に困った問題も起こってくる。そこで、第3の方向として、車の利便性は残しながらも、個人所有の車ではなくて共有する、ある意味では貸し自転車的なシステムで車を使っていく。ホンダのインテリジェント・コミュニティ・ビーグル・システムという新しい代案が出されていますが、そういうものを地域コミュニティウェアとして、あるいはソーシャルウェアとしてちゃん取り入れて金沢流にデザインしていくというような代案も、もうすでに技術的には出てきているわけです。そのような新しい代案、新しいミレニアムにふさわしいような都市のマットを、もっとちゃんとこういったメンバーが中心になって市民に提示して、その中からこのような選択肢もあるということを共有化しながらやっていかないと、今までの都市の概念の延長上で小手先でどう金沢流の風流をやろうかとやっていても、どうも腰の入ったものにはならないだろう。そういうことで、本当にそういう意味での都市のWhatをゼロ・リセットするプランを、皆さんと共有化しながら始めていくということが大事だと思います。
  それからもう1点手短に申しますと、一人一人がそういうビジョンを共有しながらやっていく、個から出発しながらボトムアップでジグソーパズル的に何か町のあり方を考えていくときに、一ついい例があります。例えばガーデニングというのは、もちろん川勝先生がご紹介されたように、もともと日本の盆栽文化、ガーデンシティ・オブ・カルチャーです。そして、イギリスに行った。しかし、英国に行ってどう展開しているかというときになかなか注目されていないところなのですが、インターネット、あるいはれんが的なプロセスとしてガーデニングが市民の間で営まれているという側面 があります。どういうことかというと、自分の庭を造っていくと見せ合いたくなるわけです。先程「見せる」というキーワードが田中さんの方からも出されましたし、一つのプレゼンテーションカルチャーとしてどう考えるかという問題だったと思いますが、自分の小さな庭を育てていくと、それを人に見せたくなる。見せ合いっこしたくなる。
  しかし、そうするとプライバシーが侵されてしまうということで、イギリスのガーデンカルチャーはうまく、「ある時期のある決まった曜日のティータイムだけはだれでも入ってきて庭を見てください」と、お互いのプライバシーと公開制を両立させるようなシステムをつくっています。「どこの家の庭は何日の何時何分に公開されますよ」というデータが、全部イエローページのようなかたちでキオスクでも買えるような本になって出ているのです。そうすると、お互いにいろいろな調べながら見に行ったりするわけです。そうやって見ているうちに、この本はいいな、こういうスタイルを引用して自分の庭にも生かそうと、れんが取りのようにそれぞれの庭がお互いに影響を与え合って育てていく。そうやって自分の庭という小さなピースをそれぞれがれんが取りのように育てていき、そのチェーンリアクション(連鎖)によって、実は都市全体がガーデンシティに育っていくという、ジグソーパズル的な、インターネット的なかたちがありうるわけです。
  例えばガーデニングのみならず、新しい金沢流の門のあり方とか、門口のあり方、ファザードのあり方、あるいは道ばたのあり方のようなことに関しても、そういうれんが取りをやりながらつくっていく、ここにイギリスのガーデンカルチャーのあり方が一つのヒントになるのではないかと思います。
金沢ラウンド誕生について
ゲストプロフィール
コーディネータプロフィール
開会あいさつ
福光松太郎
プレゼンテーション
 荒川哲生
 川勝平太
 竹村真一
 田中優子
 野村万之丞
 松岡正剛
 大場吉美
 金森千榮子
 小林忠雄
 佐々木雅幸
 水野一郎  
 米沢 寛
全体会議のまとめ
委員長総括
実行準備委員会