フロアからの意見・質問

Q. 日本開発銀行支店長・越智久男
 

古い町、建造物、施設を保存していく点で、金沢と比較すると金沢の場合は木造の建物、これから数十年は大丈夫でしょうが、百年後を考えるた時に金沢にとっては難しい課題になるのではという気がします。ヨーロッパから見て、木でできた町についていかにしてこの良さを残していくかについてアドバイスをお願いします。

A. アンソニー・サージャント
 
専門分野ではないのですが、過去においてもスイスではたくさんの木造の建物があり、非常に古い物でもまだ維持管理されているものもあります。スイスや他の地域でもうまくいっているところがあります。北米をはじめ世界にはモデル地域がたくさんあるかと思います。オランダでも木造の建物がたくさんあり維持しています。スカンジナビアやカナダでも維持管理されていますので、さほどむずかしいことではないと思います。

Q. 金沢工業大学教授・水野一郎
 
木造の建築は脆弱ですが、たとえば法隆寺にしても1200年もっているわけで、縄文・弥生の木造の部材が発掘されたりしています。要するにへるということがあまりないということと、日本の木造の建築が優れているのは部材を取り替える技術があるということです。取り替えの技術を十分使っていけば保存できると私は考えていますので、日本の木造は保存の仕方としては逆にやりやすいと思っています。市民芸術村の場合は、実は本物の煉瓦造ではありません。実際は木造なんです。煉瓦の壁があるのは火が燃え移らないようにするための塀としての壁で構造体ではないんです。ですから、非常に薄い壁で地震が来ると崩れてしまいます。鉄骨で補強しながら煉瓦っぽく見せています。ひとつお聞きしたいのは、アートに対してどこかでセレクションされるわけですが、イベントにしても何らかの演目なりデザイナーなり、画家、彫刻とセレクションする際に、芸術村でいうとディレクターの範囲でしかできないという限界があります。それを越えていく話は常にあります。アートで対立がないとおっしゃっていましたが、コンティパリーアートというのは個人の領域で、みんなにいいと認められるのはあまりなく、個人的のクリエイション、個人の行為としてアートが存在すると思うんです。行政がアートをセレクトできるのかということも含めて、セレクトすることやディレクターの運営システムについてお聞きしたいのですが。

A. アンソニー・サージャント
 
非常に深い質問だと思います。すばらしい成功例だけをお話しするのは簡単なのですが、確かに選択という苦しみがあるのはおっしゃるとおりです。完全な模範解答はないと思いますが、2つ答えたいと思います。まず、オケージョンということ。そして聴衆は誰なのかということを考えて選択をするということです。それと新しいことなのですが、バーミンガムではできる限りの多くのことを横に置くんです。つまり、古典とポピュラー、フォークという異なるものの枠組みを取るということです。そしてその中で、彫刻なのか映画なのかバレエなのかということではなく、人々に対して訴える力があるかどうかという点で考えていくんです。コミュニカティブパワー、訴える力を準備作業の中で考えていきます。私はその区別の方が大事だと考えています。彫刻であれ絵画があれ根本的な問題というのはこの作品が力強いクリエイティブなものを語っているか、コミュニケーションできるものを持っているかということであります。ヨーロッパでは、戦略ということ、芸術とは何かということ、熱意とはというふうにいろいろ議論する事ができます。いろんな形での議論もできます。芸術とは何か定義できないが、特徴づけることはできるのではないかと思います。これだということはいえません。しかし、コミュニケーションしていく、伝えていく技術であり、活動である。それが芸術ではないかと思います。感情的なつながりが作者と鑑賞する側との間にあると思います。そして、究極の目的が達成されているかどうかということです。もちろん、何かのプログラムをだした時に議論があるかと思いますが、そこが大事なポイントだ思います。同じような状況が私の国でもあります。少し間隔を置いておくということです。芸術に関わる関係者の方々は様々な議論をされます。何をだそうか、どんなプログラムにするか、どれくらいの予算かという話をしますが、そのレベルでは常に衝突や議論があります。確かに具体的なところで議論は常にあります。政治的にシステムにおいては2国間では同じだと思います。

Q. 市民芸術村ディレクター・青海泰男
 
日本では、小さい頃芸術家になりたいというと「ご飯も食べられないような職業を選ぶんじゃない。大学へ行って就職しなさい」といわれるわけですが、事例を聞いてアーティストが創造都市を創っていく上での大きな核になり得るんだと自信を持つと同時に不安もよぎるのですが、芸術家は食えないものだという定説をどのようにひっくり返すのかということです。契約制度あるいは競争社会になるとそれぞれが懸命に励んで鑑賞に堪えうる創造物を創っていく、あるいは俳優になろうと切磋琢磨していくと思うが、頭から食えないとなると魅力的でないと誰も努力をしない。非常に私的なレベルで表現活動を続けてしまう。もっともっと、クリエイティブでパブリックな仕事をこれからのアーティストはしていかなければならないと思うのですが、バーミンガムの市議会ではアーティストの雇用をどのような形で行っているのか、条例等で保証されているのでしょうか。

A. アンソニー・サージャント  

私の知っている芸術家はあまりお金に執着していないようです。貧乏であってもかまわないという人が多いようです。これは内発的な力であると考えています。長い間、ひとつのシステムがありました。多くの助成金が芸術家に対して払われました。これは80年代から行われていましたが経済的に不況に陥るということでこの枠組みは崩れてきました。芸術家が市場に対して関心を持つようにしてきました。芸術関連の学校でも、いわゆる運営管理に関してのレクチャーやレッスンが行われています。もちろん芸術家自身はそれほど関心があるわけではないようですが、やはり重要なことですから。つまり市場で何がおきているのかということに耳を傾けるのです。誰が芸術に関心を持ち、誰が劇場に来るのかが大事なのです。芸術家と観衆との関係ということ、作品に対してどのように拒絶し、あるいは受け入れるかということを考えるのです。また、自分自身のスタイルを探求するに当たっては利己であると思います。経済の発展と分けて考えることはできません。しかし、お金だけのためで芸術を求めることは全く別の問題だと思います。確かにファンドはしますが目的が違います。ひとつは芸術サクセリー(?)、もう一つはビジネス上の投資です。前者は、まさにアムステルダムで行われているものです。アトランダムにすべての芸術家に対して援助していくというものです。もう一方は、価格的なアクセサビリティがあるかどうかということ。つまり価格的に多くの人に喜んでもらえるか、選択の幅が広がるかどうかということです。市場の中に供給される物の幅が広くなっているかということが芸術の円熟に対して重要なポイントです。しかし、後者は違うんです。投資です。たとえばマーケティングのプランは80年代の後半から注目されるようになりました。若手のアーティストがでてきて非常に理想的な考え方で芸術に取り組んでいます。ビジネスとは関係ないと。経済開発の後者の方は、それだけではいけません。民間の企業に関してもマーケティングが必要ではないかと。小さな金銭援助という、ビジネスとしての投資もあります。これは芸術への援助と全く違った形で行われています。